本日は2023年度の召天者記念礼拝日です。午後からは第2回目の納骨式を行います。召天者の数も44名を超えました。地上の教会で礼拝を捧げるクリスチャンの数よりも天上で礼拝を捧げる神の民の数の方が多くなってきました。天国に宇治バプテスト教会のコーナーがあるならば、さぞかしにぎやかになっているだろうなと想像しています。
私たちにはそれぞれ生まれ故郷があります。故郷といえば「ウサギ追いしあの山、小鮒釣りしあの川」という唱歌(対象0年6月)を思い浮かべます(もっとも昭和世代にとってですが・・)。若い世代の方々にとっては、都会の高層マンションで生まれ育ったので山も川も近くに見えない。おじいちゃんおばあちゃんも足腰が弱くなって、病院に便利な駅近の都会のマンションに田舎から移ってきたので、もう故郷と呼べるものがないという方も多いのではと思います。今日、私は、天にある「永遠の故郷」についてお話をしたいと思います。
今日、お読みした聖書個所には、神を信じて生きる人々の生き方の3つの特徴がはっきりと記されています。それは「信仰の人」「旅人としての人生」であり、そのめざすゴールは「天の故郷」であるという人生観です。
1. 信仰の人として死にました
「彼ら」とは旧約聖書に登場する代表的な信仰者たちを指していますが、神を信じて生きるすべてのキリスト者をも指しています。
普通は「信仰の人として生きました」と表現されますから、不思議な表現です。もちろん生涯、信仰を失わず、信仰を抱き続けて歩まれましたという意味もありますが、それ以上の意味もあります。それは死というものを信仰によって、あるいは信仰を通してみつめることができた人という意味と受けとめることができます。
人間にとって死は避けられない事実です。死後になにが待っているのか、どこへ行くのか、永遠の命があるのか、さばきがあるのか、地獄が待っているのか完全な消滅があるのか、誰にもわかりません。あの悟りを極めた仏陀でさえ「死後のことは知らない」と言ったそうです。そもそも死後の世界から帰ってきた人が誰もいないのですからわからない。信じるしかないのです。100人いれば100人の信じ方があり、様々な宗教がそこに存在します。
ところが聖書はただ一人、死んで墓に葬られたが、3日後に死の力をうちやぶってよみがえられた方がいる、その名は神の御子救い主イエスキリストであると告げています。生前、キリストは突然の病で弟を失ったマルタとマリアに「私はよみがえりでありいのちです。私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです。あなたはこれを信じるか」と、問いかけ、「はい、信じます」と答えた二人に、ことば通り、弟をよみがえらせ、二人のもとに返しました。キリストは十字架で死なれましたが、死者の中から三日後に復活され、信じる者に罪の赦しと永遠の命を与えてくださる救い主です。このキリストの約束を信じて、肉体の死の先に、神の国を待ち望む者を「信仰の人として死にました」というのです。信仰とは地上の人生だけでなく、永遠の命と神の国を待ち望み、そこに希望と平安と喜びを見出す優れた能力といえます。
2. 旅人
13節では、信仰者はこの地上の生活は「旅人」であり「寄留者」であると教えています。信仰の人はこの地上の生活を「旅人」として生きていると教えています。旅人や寄留者ということばは、定住の場所を持たず、義理人情といったこの世のしがらみにとらわれず、地位や名誉や富にも固執・執着することなく、自由な心で、地上の生活を過ごす人といったらいいでしょうか。移り変わるこの世にしがみつき、失わないように必死で握りしめ、悩みもがくことを「煩悩」と仏陀は教えました。悩み苦しみの根源はまさにそこにあります。
宗教改革者のカルバンは寄留者という言葉を「外国人」と表現しました。その国に生きているけれど本来の帰るべき国があり国籍がそこにあるという人を外国人と言います。この地上で生活を送りながら、同時に神の国に国籍をすでに与えられ、天国の市民として、誇りと喜びをもって生きている姿を現しています。どんなときにも神がともにおられるから平安、神が与えてくださったもので満足し、「これでいいのだ」と感謝して生きる、それが旅人の生涯です。
3. 天にある故郷 信仰の人は天の故郷へ帰ることを待ち望んで人生を旅しました
神を信じキリストを信じた人々には共通の一つの故郷を天に持っています。天に帰られた40数名の方々も、今日、礼拝に出席された方々も、京都府、兵庫県、三重県、愛知県、広島県、福岡県、東京都、山形県、北海道など出てきた故郷はみな違います。しかし、信仰に生きた人々にとって、「帰るところ」は」ただ一つ、天の永遠の故郷、神の御国、愛に満ちた父なる神がおられ、救い主キリストが待っておられる天の御国です。
私たちはこの地上の生活で、あちらこちらに出かけます。お金と暇さえあれば世界中、行くところは多くありますが、帰るところは一つです。もし帰るところがなければそれはさみしい人生ではないでしょうか。帰るべき住まいがあれば、家庭があれば、家族がいれば、行先でつらい思いや苦しい思いをしたとしても、また頑張って歩き出すことができます。であるならば、人生を終えるにあたって、皆さんには帰る場所があるでしょうか。安心して帰る居場所があるでしょうか。
ある教会では召天式といわずに帰天式というそうです。地上の人生を終えて、果たして私はどこへ行こうとしているのか、帰るべき場所があるのだろうかと、どこかで迷っておられないでしょうか。
画家のゴーギャンは晩年タヒチに移り住み、そこに住む人々を描いた幅が4m近い大きな絵を仕上げました。その左上に自筆でタイトルを記しました。そこには「我々はどこからきたのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」と記されていました。
どこへ行くのか? ゴーギャンにとっての永遠の問いかけだったのではないでしょうか。
キリストは、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:1-3)
と、約束してくださいました。私はキリストのこの言葉を聞いて、地上においては神が共にいてくださるという大きな安心感、そして、この世を去る時には天に永遠の居場所があるという平安を持つことができました。
天にある唯一の永遠の故郷、神の御国をめざしてともに信仰をいだいて歩みましょう。それは、すでに天の故郷に信仰の人として帰られた40数名の方々の心からの祈りでもあると私は信じています。