先週は年に1度の召天者記念礼拝でご遺族の方々も多く出席され、午後からは城陽霊園にて今年2回目の納骨式を執り行いました。教会の召天者名簿には44名以上の方々のお名前がすでに記載されています。カトリックの修道院では、「メメント・モリ」があいさつの言葉にもなっているそうです。それは「死を忘れるなかれ」という意味だそうです。
私たちは肉体の死後、いったいどこへ行くのだろうかと、幼い時期には1度は考えたことがあるのではないでしょうか。大人になるにつれて、そんな未来のことを考えてもしょうがない。それよりは明日の試験のことを考えよう、今晩の夕食は何にしよう、明後日の会議の資料をどうやって作ろうと目先のことに追われてあわただしく日々すごして、忘れてしまっているのが現状かと思います。画家のゴーギャンは晩年タヒチに移り住み、そこに住み人々を描いた幅が4メートル近くある絵を書き上げ、左上に自筆でタイトルを記しました。そこには「われわれはどこからきたのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか」と記されています。晩年になってもその答えを探し求めていたのでしょうか。
私たちは確かに人生が永遠に続くのではないことを知っています。地上での最後を迎えたとき、私たちの身体は火葬され墓の中に葬られます。もしそれですべてが終わりならば、どんなに立派な葬儀をあげ、立派なお墓を立てたとしても、墓はあっても「はかない人生」といえるのではないでしょうか。
そのうえ、もし私たちが自分の罪深さを自覚していたとしたら、あるいは過去の過ちや失敗や人を傷つけてしまったことへの良心の呵責や自責で深く苦しんでいたとしたら、あるいは赦しを得ることなく、人に憎まれたまま、ごめんなさいの一言が言えず、人に恨まれたまま世を去らなければならないとしたら、その先にどんな裁きが待っているでしょうか。その時、心の安らぎを抱いて去ることができるでしょうか。
けれども心配しないで、恐れないで、安心して、今日のメッセージを聞いていただきたいのです。
1. 十字架につけられた二人の強盗
2000年前イエスキリストがユダヤの国の都エルサレムの郊外の死刑場で、十字架刑に処せられたとき、同時に二人の強盗犯罪人が十字架に処せられました。そのうちの一人はこの期に及んでも、人生の残り時間が数時間しかないにもかかわらず、キリストに向かって「お前がキリストなら自分と俺たちを救え」と悪口を叫び続け、見物人たちをののしり、この世に向かって恨み、つらみをぶちまけていました。最も重い十字架刑に定められながらも反省も悔い改めることもなく、すべては周りのせいにして怒りをまき散らしているのです。人間はなかなかなか変わらない者です。人は生きてきたように死んでいくと長年にわたり、ホスピスの院長をしていた柏木哲夫医師が語っています。
ところが一人の強盗は、イエス様の十字架の祈りの言葉「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」(23:34)を聞いた時から、変わっってきました。「いったい自分は何をしてきたんだろう、そして今、何をしているんだろう」、自分の人生が走馬灯のように一瞬にして脳裏を駆けめぐったことでしょう。ユダヤ人ですから幼いころから、会堂に集い、神のことばを聞き、モーセの教えの言葉を両親やラビと呼ばれる先生からも聞いていた。神のさばきについても救いについても聞いていた。やがてメシヤと呼ばれる救い主が世に現れ、救いの道を備えてくださることも聞いていた。でも自分には関係がないと真剣に耳を傾けなかった、心を開かなかった。その結果が十字架の処刑という神に見捨てられ、のろわれた者としてのみじめな最期である・・。彼はこの時、神への信仰に立ち返りました。救い主メシヤキリストがここにおられると目が開かれたのです。
2. 十字架の赦しを受けた一人の強盗
彼はイエス様に向かって「もしあなたが御国の位につく時には、私を思い出してください」と、イエス様を約束されていたメシア、救い主キリストと信じ、今の彼にできる精一杯の告白と祈りをささげたのです。彼の祈りを聞いたイエス様はなんと答えられたでしょうか。
「残念ながら今更、もう遅い。時間切れ、間に合わなかったね」と言ったでしょうか。いいえ彼は驚くべき言葉を耳にしたのです。「今日、あなたは私と一緒にパラダイスにいる」(23:43)。「心配するな、安心せよ。あなたはパラダイス(天の花園)に行くのだ」とイエス様は救いの言葉を約束してくださったのです。
死後、どこへ行くのか。こんな悪事の限りを尽くした犯罪者が天国へ行けるはずがない。何一つ善い行いも親切なこともできず、神に喜ばれるようなこともできなかった。こんな人間の落ちる先はきっとゲヘナと呼ばれる地獄だろう。そして神からも見捨てられたった一人でそんな場所に行くのだろうと彼は考えたに違いないと思いますが、イエス様は「今日、私と一緒にパラダイス(天国の待合室)にいる」と彼を赦しと救いへと導いてくださったのでした。「行いを一切必要としない瞬時の救い」がここに宣言されているのです。
3. キリスト教のすごさ キリストの福音
聖書は「イエスキリストを信じる信仰による神の義であって、信じるすべての人に与えられます。何の差別もありません」(ロマ3:22)と教えています。神の義とは、神の救いを指します。キリストの十字架の身代わりの死によって、罪の裁きに代わって、すべての罪の赦しが与えられ、神との和解が与えられ、神の国と永遠の命を受けることができるのです。そこには何の差別もありません。どんな良い行いができたか、どんな立派な功績を残せたか、どんな熱心に神にお仕えしたか、そうした功徳と呼ばれる行いはいっさい要求されません。ただ神が遣わされた救い主イエスキリストを信じることだけで十分なのだというのです。すごいと思いませんか。これを「キリストの福音」と言います。私は驚きました。そしてキリスト教のすごさに感動しました。
「天国へ行くためには、天国にふさわしい何かをしなければならない。しかも少々では足りない、たっぷり」と考えていたからです。そのような行いによる救いという考えは、福音の前に根底から覆されました。そんな逆転の発想を可能にするのは、「罪を憎まれるが罪人を愛してくださる神の愛」、罪を罰する代わりに、罪の身代わりとして御子を十字架で死なせて無条件の赦しを与えてくださった神の真実な愛があるからです。聖書の神は恐ろしい裁きの神ではなく、罪を悔い改め救い主を信じる信仰によって誰一人差別することなく、救いを与え神の国へと導く、「赦しと愛」の神がおられるからです。これも私には驚きでした。これがキリスト教の教え、イエスの教えなのだと!
繰り返します。天国行くためには「行いではなく」「赦しを受けること」なのです。その赦しはキリストの十字架によってすでに完成し、差し出されているのです。信仰という手を差し伸べて受け取るか受け取らないかに、かかっているのです。ぜひ、受け取っていただきたいと願います。
私の妹もそんな虫のいい話は、ありがたいけれど信じられなくて、40年前、クリスチャンになる前に最終的に聞いてきました。「兄ちゃん、牧師だから聞きたい。ほんとのこと言ってよね。本当にイエス様を信じるだけでいいの?」と。もちろん私は「YES、That’s Enough、心配いらない。それで充分」答えました。受け入れた妹は以来、十字架の赦しを信じる信仰に生きています。
「今日、あなたは私と一緒にパラダイスにいる」。キリストを信じるその信仰のゆえに、無条件、無代価の赦しと救いをうけるのです。
キリストの十字架には私たちを救う、神の愛の力があるのです。赦しという神の愛があふれ流れているのです。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ロマ5:8)