【福音宣教】 星に導かれて アドベント第二週

ユダヤの国のベツレヘムで救い主キリストがお生まれになったとき、東方ペルシャ・バビロニア地域で、天文学者たちが不思議な星を発見しました。その星はパレスチナに「世界の王」が誕生したことを示す星でした。おとぎ話のように思われるかもしれませんが、世界の歴史第5巻「ローマ帝国とキリスト教」(弓削達 東京教育大学教授 河出書房)によれば、天文学的にはBC7年、春に木星と金星が接近し、夏と秋には魚座の中で木星は土星と大接近するという794年に一度の天体ショーが見られ、ひときわ星が明るく輝いたものと思われます。バビロンの占星術によれば、木星を世界支配者の星、魚座を終末時代のしるし、土星はパレスティナの星と考えられていました。ですから彼らは大きな星の出現は「パレスティナに世界の支配者」が現れることを意味していると解釈し、世界の王として生まれた方を自分の目で確かめようと1-2か月にも及ぶ長い旅に出立したのではと解説しています。

実際彼らが、ユダヤの国を治めていたヘロデ大王に宮殿で謁見が許された時、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにお生まれになりましたか」(マタイ22)と、尋ねたので、ヘロデ大王は驚き、恐れました。残虐で疑い深いことで有名だったヘロデ王は、自分の地位を脅かす新たな王の誕生など絶対認められませんから、ベツレヘム近辺で生まれた2歳以下の男の子を「皆殺しにしてしまえ」という命令を兵士たちの下しました(216)。ここまでがあらすじです。

さて、あらためて、なぜ、博士たちはあえて大きな危険を冒してまで、星が知らせる「世界の王」に会うために、旅をする決心をしたのでしょうか。

1は、学者らしい知的好奇心からです。

かつて南ユダ王国はバビロン帝国によって滅ぼされ、バビロン帝国は新興ペルシャ帝国によって滅ぼされました。捕囚によって旧約聖書が約束している「世界の救世主・メシヤの誕生」という預言は、バビロン・ペルシャ地域の知識階級の人々の間では広く浸透していたと思われます。まさに当時の一流の知識人であった天文学者たちにとって、夜空に輝く星が暗示する世界の王の誕生は、博士たちにとって、知的な好奇心を駆り立て、この目で確かめに行こう、会って敬意を伝えようと心底、願ったのではないでしょうか。

2は、いつの時代でも人々は平和の君の出現を求めているからです。

「ユダヤ人の王」という表現には、単に一ユダヤ民族の王という意味だけでなく、「世界の王、メシア」という意味が込められています。さらに、預言者イザヤによれば、メシヤは「平和の君」(イザヤ96)と呼ばれ、世界中に真の平和をもたらす救い主として待ち望まれていました。イエス様が誕生する前の約100年間は、地中海沿岸、バビロン・ペルシャ地域は内戦と戦争が繰り広げられる暗黒の時代でした。すさまじい戦乱のなかで人々は苦悩し、真の平和をもたらす「平和の君」の出現を待ち望んでいました。権力を持つ支配者や軍人は武力による領土の拡大と支配を追い求めますが、知識人はむしろ平和と共存の道を、知恵を尽くして求め続けるといっても過言ではないかと思います。博士たちはただ知的好奇心からだけでなく、世界のまことの平和を願い、その可能性を「ユダヤの王・メシア」の中に見出そうとしたのではないでしょうか。

昨年からのロシア・ウクライナ戦争の勃発、今年10月のガザにおけるハマスとイスラエルの軍事衝突を私たちは経験しました。多くの人々が願った人道的停戦もわずか7日で破れ、以前にもまして激しい爆撃と戦闘が繰り広げられています。16千人近い犠牲者の内、三分の一は子供たちとも報道されています。にもかかわらず国連も無力さを呈しています。

私たちは神に祈りましょう。祈りがあるところに平和と希望の光は決して絶えることはないと信じます。絶望的な状況の中でも教会は祈り続ける最後の砦となることが期待されています。イエスキリストはあきらめることなく祈ることを弟子たちに求めました。サタンは、現状の厳しさと無力さを通して失望感を増幅させ、祈ることをやめさせようとします。

しかし、教会は最後まで祈り続ける世の光でありたいと願います。

第3に、まことの神ご自身が、博士たちを救い主のもとへ導かれたからです。

エルサレムからベツレヘムまではわずか8km、しかも1本道でしたから博士たちは迷うことがなかったと思われます。当時ベツレヘムの住民は500人ほどの小さな村でしたが、それでもヨセフとマリアたちが、どこの家に住んでいるのかを探し当てることは異国人には難しかったことでしょう。その時、ふたたび星が出現し、「先に進んで幼子のいるところまで行き、その上にとどまった」(29)のでした。不思議な星は最終的に、博士たちを「メシア・キリスト」のもとに導きました。その結果、彼らに「この上もない大きな喜び」(10)がもたらされたのです。この星は博士たちに人生最大の喜びをもたらしました。人生最大の喜びは、人が神と出会うこと、真の救い主と出会うこと、神を通してあなたが愛され尊ばれている大切な存在であることを知ることです。

もし真の神を求める心があるならば、神はあなたを神の御子のもとへ導いてくださいます。もし、真の喜びを得たいと願うならば、神はあなたを救い主キリストのもとへ導いてくださいます。もし、心が闇に覆われ、孤独や不安に苦しんで、光を求めているならば、神はあなたをまことの「いのちの光」であるキリストのもとへ導いてくださいます。キリストこそ世の光(ヨハネ812)となってあなたの人生を罪と死の暗黒から、いのちと神の御国に導くお方だからです。バビロン・ペルシャ人と思われる博士たちが救い主のもとに導かれたように、生けるまことの神は、ユダヤ人もペルシャ人も日本人も、何の差別もなく、求めるすべての人々を救い主のもとへ導いてくださるのです。

今日の礼拝の中で、斎藤姉妹の救いの証を聞かせていただきました。姉妹が真の救い主と出会うために、神様はいくつもの道しるべを用意してくださいました。「日曜日は教会へ! 神は愛なり」と電柱に取り付けられていた一枚の手書きの看板が、姉妹にとっては、キリストのもとに導くまさに「星」であったといえます。クリスチャンは「縁があって」とか「たまたま」とか、「偶然」とかという表現をしません。なぜなら「神の見えざる御手」が、救い主のみもとに導くことを知っているからです。今日、博士たちを導いた大きな星を見ることはできません。しかし、この人生においてキリストのもとに導かれた一人一人の上には、見えざる星が輝いています。それは、一枚の看板、一枚のトラクト、一冊の本、あるいはクリスチャンの友人の誘いだったかもしれません。あなたがキリストを受け入れるキッカケとなった小さな一つ一つの出会いこそが、あなたにとっては夜空に輝く「導きの星」なのです。

博士たちのこの上もない大きな喜びは、私たちの喜びともなりました。クリスチャンは、キリストの中に「本物の平安と和解と希望」を見出すことができたのです。

今日は新しい方々に福音をお伝えする「伝道礼拝」です。初めて教会に来られた方々の上にも、あなたを救い主キリストのもとへと導く星が輝いています。博士たちのように、キリストの前にひざまずき、心からの礼拝をささげるひとりとなられますように。

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、けっして闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ812


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