【福音宣教】 振り返ればただ感謝

今年最後の礼拝となりました。1年間の皆様の主にあるご奉仕に心から感謝いたします。クリスマスには53名、イブキャンドルサービスにも40名が教会に集ってくださいました。開町に会堂が移って13年経ちますが、もう手狭さを覚えるほどです。ゆっくりながら教会が内外ともに成長していることを心から感謝したいと思います。そして、お互いの奉仕のゆえに感謝しましょう。

さて、パウロは テサロニケの教会の3つの信仰的特徴を伝えています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことに感謝しなさい」(第一テサロニケ5:16-18)と。

テサロニケは、マケドニア地方つまり現在のギリシャ 地方にある人口約20万人の大都市でした。パウロとシラスが約3週間、この町で福音宣教を力強く進めた結果、ユダヤ人ばかりではなく、ギリシャ人もまた上流階級の貴婦人たちもキリストを救い主と信じるようになり豊かな実を結ぶことができました。ました。19節で「あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの主に仕えるものとなり、御子が天から来られるのを待ち望むようになったか」と記されているように、キリストの再臨を待つ模範的教会としてマケドニア地方に紹介されています。ところが教会の成長とともにすぐさまユダヤ教会堂側からの迫害が加わり、彼らは試練の中に置かれました。そこでパウロは改めてキリストの再臨を待ち望む教会に必要な、3つの大切なことを教えたのでした。

*第一は、「いつも喜んでいなさい」です。

この喜びは 決して作り笑いではありません。顔では笑って心が泣いているというわけでもありません。顔が泣いているけれども心では笑っているというような下心があるありかたでもありません。 顔にも心にも魂そのものにも御霊による喜びが満ち溢れていることを意味しています。1章6節でそれはまさしく「聖霊による喜び」の結果であることが強調されています。蓮の花が泥の中でも白く美しく咲くように、困難や試練の中にあっても御霊の喜びに満たされている時に、私たちは信仰に輝いて美しく生きていくことができるのです。努力の結果ではなく、すでに御霊が与えられている恵みの結果としての喜びです。

*第二は「絶えず祈りなさい」です。

再臨を待ち望む教会の最大の特徴は「祈り待ち望む」姿勢が、事情境遇に関わらず固く保たれていることです。

今年の敬老の日、75歳以上の教会員と求道者の方々の数が28人、 32% 近くになっていることを知りました。私にとっては非常にショックでした。超高齢化教会になっていることを数字上も実感したからです。多くの場合なんとか若い人たちをしっかり教会にとらえなければと考えがちになりますが、私は少し違う考え方をもっています。これから むしろ「老人宣教」を本格的にやらなければと考えているほどです。というのは、いくつか理由がありますが、

第一は「高齢者は残された時間が多くはないから」です。のんびりと構えている余裕はありません。たとえるならば、行き先のない飛行機に乗って空を飛んでいるような状態では、どんなに快適な空の旅を満喫できていても、 燃料が切れたらすぐにどこかへ墜落するしかないのと似ています。安全に着陸できる空港の備えがなければ、空の旅は楽しいかもしれませんが、着陸時に事故が起きてしまいます。安全に着陸していただきたい空港は、天の空港ただ一つです。 私たちは天の港に、天の空港に、帰るべき都に高齢者の方々をご案内させていただきたいのです。

2は、「高齢者の数は限られている」と一般に考えがちですが、日本の社会の場合、まだまだ次々と絶え間なく新しく老人が誕生してきます。限られているのはむしろ少子化傾向が止まらない子供たちの数です。考えれば多くの高齢者には子供さんや孫やひ孫までおられます。安心してお年寄りが天国に穏やかに召されることができれば、それを見守る家族たちにも天国の希望が大きく膨らんでいくのではないでしょうか。自らの「死」をもって信仰と希望を証ししていく、あるいは 最も大切な自分の遺産として、信仰を子たちに残していくことができるならば、それこそ何にも優る価値ある遺産といえます。

3番目に、高齢者たちは「聖書を学ぶ時間」も少なく、能力的にも力が衰えていきます。しかし、心配することはありません。長い人生そのものが、聖書の教える「真理」をすでに学ばせてくださっているからです。人間の罪の深さや醜さ、無力さや人間の世界の虚しさを彼らは十分に分かっておられます。老人の額のしわの数は、人生の苦難と不合理と矛盾さを味わってきたことを物語っています。そんな中を頑張って今日まで生きてこられた、もうそれだけでも十分だと私は思っています。新しいことがわからなくても、それこそ幼な子のようにキリストを「救い主」と信じ、受け入れるだけでもう十分ではないでしょうか。

最後に全ての老人たちがそうではありませんが、少数の高齢者たちは使い道のない財産を持っています。それを神の国の完成のために、あるいは貧しい人々の救済のために、より賢く用いていただけるならば、きっと神の栄光が大いに現れされるのではないでしょうか。終末の時代に生きる多くの高齢者の方々の「永遠の救い」のために、私たちは心を込めて祈りたいと願っています。

*第3番目は、「全てのことについて感謝しなさい」です

私の好きな小話があります。2人の天使が天から遣わされてきました。大きなかごを背負っていました。一人の天使は感謝を入れるかごを、もう一人の天使は願い事を入れる籠を背負って、地上にやってきました。願い事のかごは1時間もすればいっぱいになってしまい、天使は天国に帰ってまた戻ってくるということを何度も繰り返さなければなりませんでした。とうとう疲れてしまいました。ところが 感謝のかごを背負った天使は1日歩いてもなかなか籠がいっぱいにならなくて、とうとう疲れてしまいました。 神様はどちらの天使にも「ご苦労様」と労ってくださいました。さあ、1年を振りかえって、私たちは願い事のかごと感謝の籠とを比べてみるなら、中身のバランスはいかがでしょうか 。願い事ばかりに偏ってはいないでしょうか。

感謝の伴わない祈りを主イエスは教えておられません。祈りは賛美と感謝から始まり、賛美で終わるのですから。

今年何よりも私が感謝したいことは無事、バプテスト教会の霊園墓地が完成したことです。霊園のために多くの兄弟姉妹が重荷を負ってくださいました。天に召された一人の姉妹が墓地の建設のためにと遺産を捧げてくださいました。姉妹は「人生で多くの失敗を重ねてきましたが、 教会に導かれ、キリストを信じたことは、私の生涯で一番の成功でした」と生前、証ししておられました。

何かを成し遂げる、あるいは成し遂げたこと自体が牧師の喜びでは決してありません。信徒の皆さんに神様から与えられた「志し」を一つでも2つでも、みこころにしたがい、皆さんと一緒に実現させていただけたことが、牧師の大きな喜びとなるのです。ピリ 2:13 には「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志しを立てさせ、事を行わせてくださるのです。」と記されている通りです。

ある心理学者が、「感謝はこころを健康にし、幸福度を高め、人生をポジティブにします」と研究成果を発表しています。「そのために毎日、良いことを3つ日記に書きなさい」と教えています。

確かにその通りです、不平や不満に勝利するためには感謝を口にすることです。幸いなことに、クリスチャンは一日に3つ 感謝なことを書き記さなくても、お祈りの中で最低3つ以上は自然に「感謝します」と口にしているのではないでしょうか。

しかも良いことだけを感謝するというのではなく、全てのことについて感謝するようにとさえ導かれています。良いことだけではなくすべてのことを!です。

これは主が再びおいでになる日、万物が完成するその日を、待ち望むからこそ、折ることができる祈りです。再臨を待ち望む全世界の諸教会にとって、賛美は力であり、感謝は喜びであり、祈りは勝利なのです。

新しい年、主に向かって、喜び、祈り、感謝しつつ歩みましょう。


  目次に戻る