キリストが復活した日曜日の朝、墓を訪ねたマグダラのマリヤたちが「主がよみがえられた」という衝撃的なニュ-スをもたらしたため、弟子たちは大混乱に陥っていました。
同じ日の午後、エルサレムから12㎞程離れたエマオの村に、重い足取りで帰る二人の弟子がいました。よみがえられたイエス様が旅人風に彼らに近づいてきて「何を話し合っているのか」と語りかけると、弟子のひとりのクレオパが、暗い表情で、この3日間、エルサレムで起きた出来事を語りはじめました(19―24)。聞いてくださっている旅人が、よみがえられたイエス様ご自身であることが二人には全く分かりませんでした。彼らの目がふさがれていたからです(16)。
1. イスラエルを贖ってくださる「はず」だと、イエスに望みをかけていた二人(21)
大きな期待は大きな失望を生む可能性があります。彼らが強い期待を抱いていたため、失望感もきっと大きかったことでしょう。「イスラエルをあがなってくださるはずだと望みをかけていた」(21)との言葉から落胆ぶりが伝わってきます。しかし、こうなる「ハズ」だという人間的な思い込みと、神を信じる信仰とは異なります。こうなるハズという思い込みは、しばしば極端な視野狭窄や行動を生み出す可能性があります。
彼らは慌てないで落ち着いてエルサレムにもう少しとどまり、イエス様を葬った墓の前で実際、何が起きたのか、空の墓は何を意味してるのか、総督が配置した番兵たちはどうしたのか、律法学者や祭司長たちはこの事態をどう受け止めているのか・・・落ち着いて客観的に検証する必要がありました。彼らはあとですぐにエルサレムに大急ぎで引き返したわけですからエマオ村に急用があったわけではないようです。むしろ、イエス様がエルサレムに入城されてから、不穏な雰囲気が周囲を包んでいる、イエス様は十字架で処刑されてしまった。これ以上、エルサレムにとどまっていては危険が身に及ぶ、離れたほうが安全だとエルサレムを立ち去り、おそらく実家のあるエマオに戻る決心をしたと思われます。
・信仰と思い込みとは異なると言いましたが、神を信じるクリスチャンも世の中の人の目から見れば、「思い込みの塊」のような人たちと映っているかもしれません。処女降誕、5つのパンで5000人を養った奇跡、死者を生き返らせ家族に渡したできごと、そしてキリストの死者からの復活・・どれをとっても、すさまじい思い込みの世界に生きている人々と思われているのではないでしょうか。「そんなに単純に信じられたらいいのに」という求道者の方々の嘆きを何度も聞いてきました。
・何かを信じるというときに、2つの要素が少なくとも不可欠になります。一つは、理性的に受け入れることができる「客観性」です。もう一つは信じる対象や信じている人自身に対する「信頼性」です。この二つが重なり合っていると、思い込みではなく、事実として受け入れられていきます。
・二人の弟子たちはイエス様への信頼は十分にもっていました。「この方は行いにもことばにも力ある預言者でした」(19)。しかし、「よみがえられた」という知らせを聞いたときには、ほかの弟子たちと同様、「たわごと」(11)にしか思えませんでした。考えれば、何をもって受け入れるに値する「客観的な事実」と判断するかは難しいことです。現代社会に生きる私たちは、様々な事実を伝える媒体をもっています。能登半島で地震が起きたといえば、だれもそれが嘘やつくり話だとは思いません。なぜなら、すぐさま臨時ニュースでありのまま現地の様子が報道され、気象庁が震源地と震度を公式に発表し、翌日には各社の新聞で写真入りで詳しく情報が記載されるからです。ウクライナで起こっていること、パレスチナで起こっていることも、政治的解釈はわかれるとしても、起きていることがらは、客観的事実として受けとめることができます。それはマスメディアが正確で客観的な報道を重視し、社会的信頼を長年にわたり築きあげ、公に認知されてきたからです。少なくとも自由主義社会では信頼性は高いといえます。もっとも、生成AI技術が飛躍的に発展する将来には、フェイク映像や音声や人物が登場することになり、何が事実かあいまいになる時代がくるかもしれませんが・・・。
・イエス様の時代、少なくともユダヤ人社会にとって、最も信頼できるメディアは「旧約聖書」であったと思われます。真実な神の言葉として書き記され、語り告げられ、巻物として保存され、預言者や良識ある律法学者たちによって解き明かされてきたからです。ですから、イエス様は失意に陥り、嘆き悲しむ二人の弟子に「預言者たちが言ったすべてのことを信じない愚かな人たち、心の鈍い人たちよ」(23)と呼びかけ、「キリストは苦しみを受けそれから彼の栄光に入るハズではなかったか」(26-27)と、旧約聖書というもっとも信頼性の高い客観的事実から丁寧に解き明かされたのです。
旧約聖書には全人類に対する神の永遠の救いのご意志とご計画が預言者たちを通して啓示されています。天地創造の初めから終末まで、キリストの再臨と神の国の完成に至るまでの壮大なご計画(これを救済史といいます)が、啓示されています。世の中には、「こうなるはずである。でもそうはならなかった」という結末が満ち満ちています。しかし、万物の創造者であり完成者である全能なる神は、全宇宙の歴史を見通して「必ずなる」と宣言することができる唯一のお方です。人が決めたことは人が変えていきます。しかし、神がお決めになったことは誰も変えることができません。「万軍の主は誓っていわれる。私が思ったように必ずなり、私が定めたように必ず立つ」(イザヤ14:24)「私は神である。今よりのちも私は主である。私がこれを行えばだれがこれをとどめることができよう」(イザヤ43:13)と、偉大な預言者イザヤは神の主権を告げています。
・聖書にしるされた神の救いのご計画という永遠の客観性に弟子たちを堅く立たせてくださるため、イエス様はよみがえられた姿をあえて隠して、気落ちした二人の弟子たちに現れ、聖書を解き明かしてくださったのではないでしょうか。復活の姿を直接見せるよりは、彼らにとって、聖書に記された神のご意志と神のお約束を改めて理解することのほうが、はるかに意味のある経験となるからです。
二人の弟子は、「道々、聖書を説明してくださった間も、心が燃えたではないか」(32)と、客観的事実を再確認できた喜びを、「心が燃えた」(未完了形)と表現しました。復活のイエス様に対しては、「見ないで信じるものは幸いである」と、トマスに語られた霊的原則が一貫しています。
3. パンを裂かれたときにイエスだとわかった(30-31)
エマオの村に着き、弟子たちが家族と共に食卓に着いたとき、イエス様は自ら「パンを裂かれ」弟子たちに手渡しました。イエス様は最後の晩餐で「パン裂き」すなわち「聖餐」を弟子たちと後の世の教会に命じられたことを思い起こしましょう。十字架の死と復活の記念として、あるいはよみがえられたキリストが御霊と共に臨在されるしるしとして、聖餐は主イエスによって定められました。つまり、礼拝を通して神のご意志と約束とキリストのみ言葉を聞き続け、聖餐に預かることを通して、私たちは「イエス様を知り」続けていく(未完了形)ことができることを指しています。
・よみがえられたイエス様が今、私たちと共におられる。その事実を私たちは「見ないで信じる」ように招かれています。イエス様がともにおられるだけではなく、私たちが落ち込むとき、失意に嘆くとき、希望を見失うようなとき、自分の無力さに打ち沈むようなとき、イエス様は「心を燃やして」くださるのです。私たちのこころと教会の「発火点」は、いつでもよみがえられたイエス様なのです。
どうせ人生を生きるならば、暗い顔をするよりは、楽しく輝いて生きるほうが幸せです。楽しく生きるとは「心を燃やして生きる」ことです。イエス様の復活を信じることは信仰のはじまりです(ロマ10:9)。みことばと聖餐にあずかる限り、燃え尽きてしまうことはありえません。イエス様が神のことばを解き明かしてくださる礼拝の場を、私たちの魂の居場所とする限り、こころは生涯、燃えるのです。くすぶることも鎮火してしまうこともありません。私たちは弱い存在ですから、たとえ厳しい人生の試練の中で、「燃えカス」状態になってしまいようなことがあったとしても、また再び燃えあがらせていただけます。預言者イザヤの言葉は大きな慰めとなります。
「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。」(イザヤ42:3)
復活の主こそ教会の希望、教会の喜び、そしていのちの輝きなのです。主のおことばをこの朝、もう一度聞かせていただきましょう。「信じない者にならないで信じる者になりなさい」(ヨハネ21:27)