3回目の復活のメッセージです。復活されたイエス様は、マグダラのマリヤに姿を御見せになり、ペテロに姿を御見せになり、失意の中、エマオの村に重い足取りで帰っていく二人の弟子たちにも姿を御見せになりました。日曜日の夕方には、11使徒たちばかりでなくでなくほかの弟子たちもエルサレムの2階座敷に集まっていました。そこにもイエス様はお姿を御見せになりました。イエス様は、弟子たちが復活をまだ受けとめ切れなく、取り乱したり、疑ったり、不思議に思っていることをよく理解しておられました。そのため、繰り返しご自身の姿をお示しになられたのです。今日の個所箇所ではルカ福音書にだけ記録されているユニークな出来事が記されています。
1. イエス様は復活のおからだで食事をされました。
よみがえられたイエス様は、弟子たちの前で差し出された焼き魚を、おいしそうにしっかり食べられました(不定過去)。イエス様は3日間、空腹だったのかと思う人がいるかもしれません。そうなると、天国でもおなかがすいて食事が必要なのか、お店がちゃんとあるのか、食べた以上おトイレも必要なのかとまじめに議論した神学生たちがあると聞きます。
むろんここでは、弟子たちが「霊を見ているのだ」(37)と思い違いをしたので、イエス様が「霊」ではなく、肉も骨もある新しい復活のからだそのものが備えられることを、お示しになったのでした。神の国で永遠のいのちを受け継ぐことは、新しい栄光のからだをいただいてよみがえることを明白にされたのです。使徒パウロは、地上のからだと異なる天上のからだがある。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえらせ、卑しいものでまかれ栄光あるものによみがえらされ、弱いものでまかれ、強い者によみがえらされる」(1コリ15:42-43)と教えています。
地上では、病気で痛みと闘いながら苦悩している方々がおられます。事故やけがで中途で身体的な障害を受けた方々のなんと多いことでしょうか。生まれながらに脳の機能障害を抱えて生きにくさのなかにある方々を、心を込めてサポートしている福祉関係の方々も多くおられます。流産してしまった赤ちゃん、まだまだ幼くして病気や事故で召されてしまった幼子たちも多くおられます。すべての人がイエス様と同じ栄光の姿に骨や肉をともなった栄光の新しいからだによみがえらされるのです。しかも、イエス様だと弟子たちは理解できましたから、一人一人の個性はそのままに、さらに完成されていきます。
モルトマンという神学者は、幼くして亡くなった子供、死産した子供でさえ、成人した姿で再びよみがえらされて再会できるのですと希望を語っています。
もしあなたが愛するどなたかと悲しい別れを経験し、癒しがたいその涙の跡が心の奥底に残っているとしても、再会の大きな喜びへと変えられます。地上で流したすべての涙は拭い去られると聖書は約束しています(黙21:4)。これほど嬉しいこと、しかも確かなことがほかにどこにあるでしょう。キリストにあって死は終わりではなく、眠った者はよみがえらされ、新しい復活のからだをうけるとイエス様は示してくださいました。
私の母は54歳でガンで入院してわずか5日でなくなりました。おなかは腹水で山のように膨れ上がり、紫色の斑点が全身に現れ、口から血を吐く母の姿を看取り、つらい思いをしました。薬で痛みを和らげていただいて少し楽になったとき、「イエス様を信じて永遠の命をいただき、天国へ行こう」と手を握りながら伝えました。教会や宣教師との交わりもあった母は、すなおにうなずき、信仰を受け入れました。その安らかな顔と、癌の痛みで苦しむ母の顔と、若い時の笑顔の美しい母の顔が入れ替わりつつ思いだされ、40数年たっても忘れられません。しかし、キリストにあって栄光に満ちた天上のからだによみがえらされる母と再会し、その笑顔を見ることができることは、私の大きな慰め、喜びです。
イエス様のことばはご自身の復活によってさらに裏付けされました。「私はよみがえりでありいのちです。私を信じる者は死んでも生きるんです」(ヨハネ11:40)
2. 信じない者にならないで信じるものになりなさい
教会に来て、イエス様の言葉を聞いて感動し、十字架の身代わりの死のメッセージを聞いて神の愛に触れて涙することがあっても、墓に葬られて3日目の日曜日の朝、よみがえられたと聞いて感動する人はあまり多くいません。反対に気持ちが引いてしまい、牧師がいつにもまして力を入れて語っているけれど、そんなことをまともに信じているのかなと内心では思っておられるかもしれません。
弟子たちでさえおどろき、うたがったりしているのですから、ごくごく自然の反応といえます。疑い深いトマスという弟子に至っては、「手足の釘のあと、槍で刺された脇腹の傷あとを見て、触らなければ信じられない」(ヨハネ20:25)とまで断言したぐらいですから。
先々週、「魚の骨の原理」をお伝えしましたが、魚の骨が食べられないから、魚を食べないというのではなく、おいしい刺身や煮つけの身の部分だけいただけば十分です。復活が受け入れられないからと言って、神の愛も救いのご計画も、永遠のいのちも、天国の希望も、聖書そのものを全否定してしまうことはあまりにもったいないことです。
先ほどのトマスに対してイエス様は「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(27)と諭しました。信じるか信じないか、2者択一であれば、イエス様は「信じなさい」と後押ししてくださっています。「人のことばを信じて馬鹿をみた」という苦い経験を持っておられる方もいらっしゃると思いますが、真理と真実を語るイエス様が、迷うならば「信じなさい」後押ししてくださっているのですから、信じない者ならないで、信じる者になりましょう。
さらにイエス様はトマスに「あなたは見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸いです」(29)と付け加えられました。直接見て、触って、確かめて受け入れるという方法だけでなく、私たちの人生には「信じる」「信頼する」というもう一つの方法があることを知ることも人生を豊かにします。私たちの社会の根幹には「信じあう」ことがおかれています。
信じられないという方がおられたら、この機会に、「信じることの幸い」を人生の中で再認識していただきたいのです。社会を信じること、人を信じること、まだ見ていない自分の未来を肯定的に信じること、弱くても大丈夫だと自分を信じること、信じることはどれほど私たちの人生を豊かにし、幸いをもたらすことでしょう。イエス様は、「あなたの信じる通りになる」(マルコ11:23)と、信じる力を否定するどころか祝福してくださっています。
「あなたは見たから信じたのか? 見ないで信じる者は幸いだ」(ヨハネ20:29)
よみがえられたイエス様のことばを心に覚えさせていただきましょう。