15 使徒信条  題 「聖霊は真理と愛によって教会を建て上げ育む」  2004/10/10

「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように一つの御霊に
よってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです」
(1コリント12:13)


使徒信条は、「我は聖霊なる神を信ず」と告白します。先週学びましたように、イエス様は聖霊を「もう一人の助け主」、そしてあらゆる霊的な真理に導きいれてくださる「真理の御霊」であると教えてくださいました。御聖霊は父と御子イエス様の思いを私達に伝えることができるただ一人の「メッセンジャー」であり、真理のことばである聖書を信仰の助けとなるようにわかりやすく解き明かして下さる「最高の教師」ともなってくださいます。特に、御聖霊は一つ一つの教会やあなたの個人的な生活や人生に対して、神様がご用意しておられる特別な祝福や導きについて伝えたい、もっと知ってもらいたいと心から願っておられます。ですから私達は聖霊にお聞きし、助け主の助けをいつでも豊かに頂き、助け主なる御聖霊の恵みを経験させて頂くことが許されているのです。

さて、今朝は、さらに、使徒パウロの教えからご聖霊について学んでまいります。

1 キリストのからだを形成する

「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです」(1コリ12:13)

このみことばは、「同じ一つの御霊によってバプテスマを受け、同じ一つの御霊を飲むものとされました。その目的は一つのキリストのからだとなるためです」と順番を置き換え、目的を明確にして読みなおすことができると思います。クリスチャンとして私達が召された目的は、聖霊がわたしたちを一つに結び合わせ、「キリストの一つの体」を形作るためでした。そのための方法として神様は「一つの御霊を飲む者とされた」とパウロは教えています。

「御霊を飲む」という言葉はユニークな表現ですので少し解説をします。赤ちゃんがミルクを飲めばそれが体の中で栄養となりいのちを支え、さらに血となり肉となり骨となって赤ちゃんの体を作りあげてゆきます。哺乳瓶の絵をいくらかいても役に立ちません。赤ちゃんの成長のためにはミルクを飲むことが必要です。また赤ちゃんが成長するということは体だけが大きくなることばかりではなく、心も発達し情緒が豊かになり、自分の意思をもち、自分の目的を持ち、目的に向かって行動するようになることをも意味します。

さて聖書は、イエス様を信じた者は、罪の赦しと賜物としての聖霊という2つの祝福を受け取ると教えています。神様からの最高の贈り物として聖霊を受け取らせていただくといっても、手のひらに受け取りどこかにしまっておくということではありません。ご聖霊は人格をもったお方ですから、聖霊を受けるとは、聖霊が私達のもとに個人的に訪れてくださり、私達の心に住み、新しいいのちとなり、意思、思い、感情、ことば、行動、生活のすべてに影響を与え、神の子として内側から私達を新しく形づくってくださることを指します。また、同じ一つの聖霊が心に住んでくださるのですから、すべてのクリスチャンは同じ御霊の同じ一つの目的を共有し、その目的に向かって共に働くことができるはずです。御霊の神様のいのちと力に満たされ、ご人格を持つ御霊の神様のお考えや目的を共有することが、「一つの御霊を飲む」という意味となります。

聖霊の目的は、イエス様のからだである教会を豊かに建てあげることにあります。もっと適切な表現は聖霊の目的は教会をイエス様のからだとして作り上げてゆくことにあるといえます。あるいは教会をイエス様のからだとして生き生きと機能させ、活性化させ、力を与え、神様がデザインされた本来のありかたに回復させてくださることを意味しているともいえます。教会に焦点があてられているのではなくイエス様のからだに焦点があてられています。わたしはこのことに気づいたとき、私の考えが、ずれていたことに気づかされたのです。

実は、昨晩説教の準備をしていて徹夜してしまいました。教会ってなんだろうと考えれば考えるほど深みにはまってまとまらなくなってしまったからです。朝6時前、空が明るくなり始めたころ、神様が苦闘から解放してくださいました。

私は牧師としてイエス様の「教会」をつくろう、建て上げようと一生懸命考え、取り組んできました。でもそうではなく神様の御心は、イエス様の「からだ」を形づくることにあるのです。大きなづれではありませんがこのずれは微妙な影響を及ぼしていたに違いありません。イエス様の教会を建てあげどうするか? 私達、教会員が一生懸命働き奉仕をします。しかし、イエス様のからだを形作るならどうなるでしょう。イエス様が御心のままにお働きになられ、聖霊もますます豊かにお働きになることでしょう。

牧師の勤めは聖霊のご目的に焦点を合わせなければなりません。そうでなければ、聖霊とともに働くことができないからです。私は今朝、鳥の声を聴きながら「今日から、教会を建てあげることではなく、イエス様のからだを形づくることに心新たにお仕えさせてください」と祈りをささげました。

余談ですが、教会がイエス様のからだであれば、教会堂はイエス様のからだを包む服のような役割を果たすと考えられます。むろんからだの健康が第1です。しかしだからといって裸のままでいいわけではありません。イエス様のからだにふさわしい服を着ていただくために心を配り御用意することもないがしろにできない大切な愛の奉仕だなと導かれました。そして、パウロの時代、ドルカスというやもめが貧しくて服を買えない未亡人たちのために服をぬって着せてあげた美しい出来事を思い出しました。会堂について考えることは、ドルカスのように一針ずつ愛をこめて服をぬいあげてゆく愛の奉仕と似ているなと教えられました。

2 キリストのからだを真理で建てあげる

1テモ3: 15 「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です」

このみことばは、教会にとってもっとも大事な土台と柱は「真理」であると解釈することができます。あるいは教会は真理を支える柱であり、真理を守る土台(防波堤)でもあるとも訳されます。後者のほうがより積極的な意味をもっています。教会がこの世の中で唯一の永遠の真理をしっかりと支え守ることができているのは、真理の御霊が教会を建て上げてくださっているからです。

また前者の解釈に立てば、教会ほど確かな揺るがない存在は地上のどこにも存在しないことを意味します。土台も柱も「真理」でできているからです。もし教会の土台が真理以外の何かであったり、教会を建て上げる骨組みとなる柱が真理以外の何者かであったならばいったいどうなるでしょうか。永遠の真理以外には歴史のテストに耐えられません。時間の経過とともに土台はひび割れし傾き、柱はくさって崩れ落ちてしまうかもしれません。腐ってしまう柱では役に立ちません。ひび割れして傾いてしまう土台ではそのうえに確かなものを築き上げることは不可能です。

堀池の教会堂は骨組みとなる柱が重量鉄骨でできています。三階建ての家の多くが木造または一部軽量鉄骨ですから重量鉄骨珍しく、「100年は持ちます」と建築業者が話していました。そこに住んでいますから大きな地震があっても安心しておれます。

聖霊は教会をイエス様のからだとして形づくります。真理の御霊はそのイエス様のからだである教会を、真理を土台とし、さらに真理を柱として建てあげてくださり、永遠の存在としてくださっています。のみならず永遠の真理を支え擁護する特別な価値を有する存在としてくださっているのです。

3 キリストのからだを愛で育て上げる

「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、
また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、
成長して、愛のうちに建てられるのです」(エペ4:16)

聖霊はキリストのからだを真理で強固に建てあげますが、同時に愛でゆたかに育て上げます。骨組みはしっかり、しかしからだぜんたいは柔軟でしなやかな人、意思は強く感性は豊かな人、そんなイメージを思い描くことができるよう、に聖霊は愛の中に教会を育みます。教会を育み成長させる愛は、信徒の人間的な愛以上に、聖霊により注がれる神の愛を源としています。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ロマ5:5)

「注がれる」ということばは「大雨のような、滝のような流れ」を指すそうで、教会に注がれあふれる神の愛の豊かさをあらわしています。聖霊は人格を持つ永遠の神ですから、聖霊の愛もまた永遠であり、尽きることはありません。

このように、真理の御霊は教会を真理でしっかり組み合わせ、愛の御霊は教会を愛で豊かに満たします。聖霊は、教会を生きた「キリストの体」として建てあげてゆかれます。からだの中には「病むため」に存在している細胞はありません。「怠ける」ことを目的にしている細胞も存在していません。聖霊が教会をイエス様のからだとしてくださるとき、実はわたしたち一人一人の霊、心、体をもを、生き生きとさせ、父なる神様にお仕えする喜びで満たしてくださることでしょう。

真理の御霊は、真理を柱として教会を建て上げ、愛の御霊はキリストの愛をもって教会を豊に育て上げて行くことをご目的とされています。聖霊は、この目的に私たちが自らの祈りと信仰生活の焦点を合わせることを願っておられます。聖霊とともに歩ませていただきましょう。

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」
(ガラ5:25)


    
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