22 使徒信条 題 「キリストを待ち望んで今を生きる」 2004/12/5
「天の御国はたとえていえば、それぞれがともしびをもって、花婿を出迎える10人のおとめのようです。」
(ヨハネ11:25)
主の祈り
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主イエスキリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを裁きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。
ア−メン。
使徒信条の学びは今日22回目をもって終わります。「主はかしこより来たりていけるものと死にたるものとを裁き給わん」との告白部分を最後に学びたいと思います。教会行事の関係でこの聖書箇所を後にまわさざるをえませんでしたが、12月の聖餐式礼拝にはふさわしいみことばではないかと思います。
「かしこ」とは前の文から判断して「全能なる父の右の座」つまり「王としての権威」の座を指します。「いけるものと死にたるものとを裁く」とは、キリストが再び来られる終末の出来事において、既に死んでしまった人々がすべてよみがえらされること、そのとき生存しているすべての人々はそのまま天に引き上げられ、ともに神の御前に立たされて「永遠の審判を受ける」ことを指しています。
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)
十字架で死なれたキリストは全世界の永遠の救い主として来られましたが、終末の日に来られるキリストは永遠の審判者として全人類を審判されます。誰が永遠のいのちに向かい、誰が永遠の滅びに向うか、永遠の運命を決める決定権はキリストがもっておられます。
1) では、何を基準にキリストは私たちの永遠の運命を審き、最終決定をくだされるのでしょう。
「御子キリストの十字架の身代わりの死という神が備えられた最高の恵み」を感謝して信じ受け取ったか、かたくなに拒んだかが分かれ目となります。良い行いをしたかどうかは直接救いには関係しません「あの人は立派だ」と私たちが思わずほめるような良い行いも人柄さえも、その人の生活24時間のすべてを裏も表も見通し知り尽くしておられる全能の神様の目からみれば、「OUT」なのです。宇治川の畔の大吉山も日本一の富士山も世界最高峰のエベレストも人工衛星から見ればその高低にほとんど区別をつけることができないのと同じです。
良い行いのかわりに素朴な信仰を神様は求めておられます。十字架で私たちの罪を背負いその身代わりとなって死なれた神の御子と、いのちまでも捨て罪深いわたしたちを永遠の滅びから救おうとされた神様の大きな愛を信じることが求められるのです。「神が遣わされたイエスキリストを救い主として信じるだけで必要十分とされている!」これを聖書は喜びの知らせ「福音」と呼んでいます。この大きな神の愛を、福音を、キリストの十字架を、「信じる」か「否むか」が、永遠のいのちに生きるための唯一の条件と神様がお決めになられました。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)
キリストの十字架の身代わりの死を信じる者は救われる!。たとえ行いが不十分不完全であっても悔い改めるならばいっさい不問にされ、無条件で救われる!。この「神の恵み」をしっかりと受け取り確信していただきたいのです。キリスト教信仰のこの核となる部分がぐらついているため、いつも自分や他人の行いが気になったり、これでいいんやろうかと不安がったり、たばこ1本さえやめられないような自分はダメなんだと卑下してしまうクリスチャンがどれほど多いことでしょう。神様からの恵みを恵みとして、しっかり受け取らせていただきましょう。
一方、クリスチャンの中に「神の恵み」ということばを誤解して「クリスチャンご利益」と置き換えてしまっている人もいるようです。「神の恵み」とは、私たちが期待しているような「いいできごと」が起こることを指す「安っぽい」ことばではありません。たとえば「神様のお恵みで100万円の宝くじ当たりました」と大喜びしていても隣の家の人が「1千万当たったわ」と聞けば、「ええな、うらやましいな。私なんかたった100万ぽっち」とつぶやき出し、先ほどの恵みはもうどこかに消えてしまいます。恵みが恵みでなくなってしまうのです。神の恵みはクリスチャンが置かれた状況でころころ変わるものではありません。罪びとであるあなたを本気で愛し、十字架にかかりいのちまでも捨ててくださったキリストの愛、永遠の神の愛、これこそが揺るぐことのない「神の恵み」なのです。
「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1:7)
神の恵みをご利益ではなく、永遠の救いとしっかり結び付けていただきたいと願います。神様の恵みを「ご利益」のように安っぽいものとしてしまうことは、クリスチャンの大きな罪といえます。
2) 十字架の信仰に生きる
十字架の信仰に生きるならば、未信者のようにキリストの審判の日を怖れることは何もありません。すでに永遠の救いを受けているからです。あなたに残っているのは、どのような報いを神様から頂くかという期待と楽しみです。そして平安のうちに神様からの豊かな報いを受け取ってください。
『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ25:21)
あたえられた賜物を用い、神様のために忠実に仕えたしもべを神様は決してお忘れになりません。愛の神様は水臭いおかたではありません。人情味のある義理堅いお方です。スタンドプレ−はこのまれませんが、隠れたところで誠実に仕えるしもべたちの愛には必ず応えてくださいます。
マタ5: 12「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました」 様々な信仰の困難と試練の中にあってキリストへの愛と信仰に生きた人々には「大きな報い」が用意されてると聖書ははっきり記しています。
マタイ6: 20 「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、
盗人が穴をあけて盗むこともありません。」
キリストの誕生の物語ではじまる新約聖書はキリストの再臨と審判を待ち望む祈りで閉じられています。「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください」(黙示22:20)
3) 主イエスよ、来てください。
「みこころが天でなるように地にもなさせたまえ」と多くの教会の礼拝で「主の祈り」が祈られます。主の祈りもまた「キリストを待ち望む祈り」となっています。人間の手による理想郷の達成ではなく、キリストによる御国の完成が主題となっています。「キリストを待ち望む祈り」が、教会とクリスチャンの日々の祈りの根底にあります。
イエス様は、主人の帰りを待つ10人のおとめたちのたとえ話を弟子たちに語られました。10人中5人のおとめは、ランプの油を切らすことがないよう備えていました。しかも、予備の油まで常に用意して不測の場合にも対処できるように備えていました。ですから、真夜中でも朝方でも主人の帰りを「怠ることなく、準備して待ち望む」ことができました。ところが他の5人のおとめたちは慌てふためき、急いで取り組もうとしましたが準備不足でタイムアウトとなってしまいました。彼女たちは大切な「時」を逸してしまいました。
教会とクリスチャンのまなざしは常にキリストの再臨の希望にむけられている場合に輝きます。クリスチャンと教会の力は「未来に向かって」発揮され、解放されます。後ろ向きになったり内向きになっているときには、クリスチャンの本来の力が発揮されません。
本日礼拝後に聖餐式がおこなわれます。聖餐のことばにも「主が来られるときまで主の死を告げ知らせるのです」(1コリント11)という告白がされています。その意味で、主の聖餐も「再臨を待ち望む喜びの食卓」であるといえます。食事というもっとも日常的な生活面の中にも「再臨への待望」信仰が息づいています。私は初代のクリスチャンの生活をみると、信仰が生活の中に根づいていることにいつも新鮮な驚きを覚えます。信仰が生活化され、日常生活の中に生きている。私たちの日々の生活が、未来に向かって開かれたものでありたいと願います。
祈り
天の父なる神様、私たちの信仰と生活が一つに解け合い、生活の中に根ざし息づき生活にいのちを与えるものでありますようにお導きください。あなたへの深い感謝をもって今日私たちは12月の聖餐を受けます。主の聖餐も「再臨を待ち望む喜びの食卓」であることを深く思わしめ、キリストが再びお越しになる日を待ち望むことを導きください。22回にわたる「使徒信条」の学びを通して、「神の民」そして「公同の教会」の一員として「共同体の絆・聖霊の愛」で結ばれ互いのために仕えあってゆく喜びを私たちは経験しました。心からあなたの恵みの大きさを崇めて感謝いたします。
2004年12月5日 完
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