【福音宣教】ヨハネ第一の手紙 1:1−4 じっとみつめるお方

2020年3月1日(日)

本日より、ヨハネの第一の手紙を礼拝では継続して学びます。私たちはこの2年間、ガラテヤ書から「信仰に生きる恵み」、テサロニケの手紙TUからキリストの再臨を待ち望む
「希望に生きる恵み」を学びました。今日から始まるヨハネの手紙ではキリストの十字架の愛と赦しから「神の愛を知り神の愛に生きる恵み」をご一緒に分かち合いたいと願っています。
私たちの生活は「信仰と希望と愛」に支えられた日々であることを感謝しましょう。


使徒ヨハネはゼベダイの子、ヤコブの兄弟であり、ガリラヤ湖の比較的裕福な漁師(マルコ
119-20)、イエスが愛された弟子(ヨハネ2120-21)でした。おそらく80年代後半から90年代、ヨハネの黙示録より前にエペソで書かれ、各地の諸教会で回覧された手紙と言われています。この手紙の目的は以下の2点に集約できます。

1. 私たちの交わりに招き入れ、喜びが満ち満ちるため(13

2. 信じる者が永遠のいのちを持っていることを理解し確信するため(513

ヨハネは福音書においても20:21で同じことを強調しています。ヨハネのライフワークメッセージであったと思われます。

T 私たちの確信

ヨハネはイエスの最初の弟子のひとり、イエスのそばに寄り添いイエスの愛する弟子と呼ばれ、それゆえ老いた母マリアを託されるほど親しい交わりをもった人物でした。まさにヨハネにとってイエス様は、直接「聞いて、じっと見て、手でさわった」(1)ほどの親密な関係の中で3年半寝食を共にしたお方でした。「イエスの行われたことを書きしるすなら世界もその書物をいれることができない」(ヨハネ2025)と言うほどの親しい関係でした。

ですから、ヨハネは直接自分が聞いたこと見たこと触れたことを、ありのまま伝えざるを得なかったのです。ガリラヤ湖からカルバリの十字架の死、そして空になったアリマタヤのヨセフの墓とイエスの復活の目撃者として。100人の推論者よりも一人の目撃者のことばほど力強い真実はありません。

しかも、1節の「じっと見た」(セアオマイ)は「肉眼で見た」というよりは「心眼」でじっと凝視した、熟視した、本質を見つめたという意味です。このお方は、「初めからおられた方、いのちのことば、永遠のいのち、御父とともにあったお方」(1-2)すなわち「神の御子・キリスト」であったとヨハネは誰よりも強く深く確信したのでした。

宗教改革者カルバンは「人々はキリストのうちに父なる神の栄光が、神ご自身の生きた姿で輝いているのを見るのである」と信仰の本質を語っています。

聞いたまま、見たまま、体験したままを語らざるを得なかった。弟子たちの情熱の源泉はここにありました。

じっとこのお方に目をそそぎましょう。
問題が生じるたびにこころが騒ぎたち、不安や恐れにとらわれやすいお互いです。あれこれ目移りしてしまいやすい私たちです。イエス様、このお方こそ神の御子、癒し主、すべての導き手との信頼をイエスの聖名におくならば、心は落ち着き、「何があっても大丈夫」との大きな平安に包まれるのです。感染症、業績の落ち込み、失業などの不安や恐れ、私たちを取り巻く環境は揺れ動きますが、主は「任せよ」「恐れるな」「安かれ」と揺るぐことなく呼び掛けてくださっています。

さあ、今こそ、イエスこのお方にじっと目を注ぎましょう。心の目を開いて。

「信仰の完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(へブル122

U. わたしたちの交わり

この手紙が書かれ、回覧される目的は、「私たちの交わり」にあなたがたを招き入れるためだとヨハネは呼びかけています。コイノニアは共有するという意味で、4回も使われています(13.6.7)。ここには2重の交わりが示されています。イエスを信じイエスの弟子となった者たち同士の交わり、すなわち兄弟姉妹、信仰の家族の交わりです。さらに「御父および御子イエスキリストとの交わり」(13)と呼ばれている「霊的な交わり」の2つです。これを「いのちの交わり」とも言います。

兄弟姉妹の交わりは確かにすばらしいものです。孤独と孤立の中に生きている現代人にとって信仰の交わりは、心のオアシスともいえるでしょう。この世の人々にとって、ママ友のランチタイム、サラリーマンの居酒屋やスナックは「しばしの安らぎの場」となるかもしれませんが、結局はその場限りの空しいものにすぎません。

私たちクリスチャンにとっては、教会の兄弟姉妹の交わりはやはり他にかえがたい絆で結ばれた関係であり、この世俗的な世間で「祈り合う友」などはほかには存在しません。

それほど大切な交わりではあるけれど、そこには「限界」があることもいなめません。お互いの間で行き違いがあり、誤解があり、感情のすれ違いがあり、仲間割れがあり、分裂もありえます。さらには家族同様に、「死による別離」も生じます。けれども「父と御父が永遠にひとつである」ように、私たちの交わりは地上だけの交わりではなく、永遠の交わりにつながれています。死ですら決して分離できない「永遠のいのち」の中に招かれた交わりです。

この交わりは地上の生活を超えて、天の御国で再会しあうことができる交わりです。「先に天国で待ってるね」「また会いましょう」と、悲しみの中にも本気で挨拶できる永遠の交わり、天国の交わりなのです。学生時代に韓国でクリスチャン学生たちとの交流会ツアーを持ちました。お別れの時に韓国の学生たちが「さよなら」と手を振るかわりに、一斉に「上」を指さしてくれました。

それは「天国でまた会いましょう」というサインだったのです。わずか1週間の出会いですから、地上では一期一会かもしれません。しかしキリストにある永遠の交わりを分かち合った感動的な出会いであり、別れでした。葬儀斎場で最後の見送りするとき、多くの参列者は係官に促され黙祷で終わりがちですが、私が葬儀の司式をする場合は、火葬直前に、かならず「また会いましょう。行ってらっしゃい」と皆さんに声をかけるようにお勧めしています。

クリスチャンにとって死は永遠の悲痛な別れではありません。しばしの「眠り」に過ぎず、キリストによって目を覚まされ、復活の約束がついに成就し、天の御国で永遠のいのちに生きる喜びを享受できる恵みの時です。愛する人々と再会を待ち望むことができます。それが、「御父と御子との永遠の交わり」に招かれる幸いなのです。

母親の胸に抱かれた赤子が「じっと母を見つめているように」、御父と御子の交わりに招き入れられた私たちですから、御父と御子の愛のまなざしをじっと見つめ続けましょう。

神の御子イエスのことばをお聞きください。

ヨハネ637-40

「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」  アーメン

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