2020年4月12日
新型コロナ感染の拡大がやみません。京都も181名(4/11現在)に達し非常事態宣言都市に追加指定される可能性も低くはありません。教会の礼拝も感染防止のための社会的距離をとるために座席数をさらに減らし、IFでも礼拝を分散してできるようにしました。自宅でインターネット礼拝ができるように準備を進めています。日本では毎年平均インフルエンザで3000人、肺炎で11万人が死亡(死因の第4位)している現状をも踏まえ、感染への危機意識を持ちつつ、同時に冷静に落ち着いて感染防止に対応しましょう。
今朝のイースター礼拝は「5つのS」を中心に礼拝をささげます。シンプル(質素)・サイレント(静か)、ショート(短い)、セレンディプティ(思わぬ出会い)、そしてスピリテュアル(霊的)なモーニングサービス(礼拝)を。コロナ感染という初めての体験、目に見えない敵との長期にわたる戦い、ともに集うことに医学的にも社会的にも大きく制限をかけられた礼拝、その中で迎えた2020年度の今日のイースター礼拝は、きっとみなさんのクリスチャン生涯の中でも、忘れられない思い出となることでしょう。さあ、今、最高にすばらしい礼拝をよみがえられたキリストに捧げましょう。神の前に、自由に共に集うことが、実はどれほどすばらしい恵みであるか、後に改めて深く実感することでしょう。
1.
死は勝利にのまれてしまった
十字架で死なれたキリストが3日目に葬られた墓を空にして復活されました。この出来事が究極的に意味することは、サタンの敗北です。サタンはこの世の支配者、この世の君として、神に敵対し、悪しき災いと影響を及ぼします。サタンによって神への背きという不信仰の罪が吹き込まれました。さまざまな人間の欲望によって引き起こされる犯罪や悲劇や怒りと憎しみが平和でおだやかな生活を脅かしました。そして最後に、肉体の死と魂の滅びを人類にもたらしました。
目に見えないコロナウィルスは人間にとって強大な脅威ですがいつか終息し、新薬やワクチンが開発され、通常のインフルエンザや肺炎レベルに制御されるでしょう。しかし、目に見えないサタンはアダムの時代から今日に至るまで、全人類にとっての最大の敵であり続けました。欲と罪と死に対するワクチンも薬も開発されることは決してないことでしょう。なかでもサタンの最大の武器は、「死」でした。誰も立ち向かうことができませんでした。医者も学者も王も皇帝も、なすべもなくことごとく敗れ去りました。死は君臨し続けていたのです。
ところが、神の御子キリストの十字架の身代わりの死によって、罪には完全な赦しがもたらされました。キリストの復活によって、死に対しては初めて突破口が開かれ、ついに風穴があけられ、堅固な城壁の門が打ち破られたのです。サタンの持つ死の力、絶大な権力の一部が崩れました。死はキリストの復活の前についに崩れたのでした。
「私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました」(Ⅱテモ1:10)
もちろん、サタンの完全な敗北はキリストの再臨の時まで待たなければなりません。その時、キリストは死もサタンも火の池に投げ捨て(黙20:10.14)、完全な勝利を宣言されます。神の国が実現し、父なる神に御国をお渡しになります。ですから、使徒パウロは「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」(55)「お前にはもはや完全な敗北しか残っていない」と大胆に宣言したのです。
多くの宗教が「死は自然界の一部、人生の一部、誰も避けられない。しかたがないこととあきらめるしかないもの、悟りなさい」と教えます。「生まれては死ぬるなりけりおしなべて釈迦も達磨も猫も称子も」と一休和尚は民衆を諭したそうです。
2.
朽ちるものが朽ちないものを着る
朽ちるものとは「この血肉」「肉体」を指します。キリストを信じる者は、朽ちないもの、すなわち「あたらしいからだ」、「霊の体」、「天のからだ」が与えられます。永遠の神の国を受け継ぐには、朽ちない永遠の体が必要だからです。「着る」という表現は非常に印象的です。私たちは裸で生まれて裸で死んでいきます。お葬式の時に棺の中に遺体をおさめ、生前その人が愛用した背広や着物をかぶせてあげます。裸で棺におさめられているご遺体はありません。また、私たちは生きている限りは、常に服を着替えて生活します。おめでたい日にはあでやかな晴れ着を着ます。「馬子(孫じゃなく)にも衣装」などとからかわれたり、へぇーと感心されることもあるでしょう。「朽ちるものを着、やがて朽ちないものを着る」としても、「着る人自身」は全く同じであり、変わりないことを示しています。そうです、私たちは天地を創造されたまことの父なる神によって一人のかけがえのない存在としてこの世界に送りだされました。神の御手によって造られた私たちに失敗作も駄作もありません。神様がちょっとよそ見していたから・・手を抜いたら・・失敗作の私が生まれてしまった。そんなことは決してありません。私たちは神の手による最高傑作品なのです。「この世にあっても、この世界を離れて神と共にあっても」、私は私であり、永遠に一人の人格であり続けるのです。輪廻思想のように死んだらなにか別の存在に生まれかわるのではありません。あなたはあなたなのです。それほど尊い存在なのです。だから天国で再会するとき、お互いがわかるのです。喜びあうことができるのです。
一人の兄弟が先週の日曜日の午後、天に召されました。頸椎損傷という大きなけがをされていらい7か月の闘病生活を、忍耐をもって病床で過ごされました。81歳の生涯の半分、40年間をクリスチャンとして神様にお仕えし、その姿は教会員の模範となりました。そして何より、兄弟は「忍耐」を学ばせてくださいました。イエス様の十字架の苦難を、身をもって示し、すべてをしのばれました。天の御国に移され、主イエスの御手でその涙をぬぐわれ、「よくやった、よくしのんだ、わが忠実なしもべよ」と、いのちの冠を授けられておられることでしょう。輝くような笑顔が目に浮かびます。
「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです」(ヤコブ1:12)
「死は勝利にのまれてしまった」(1コリント15:54)。覚えましょうこの朝、キリストの永遠のいのちの勝利の
あなたにハレルヤ・イースター