【福音宣教】母への愛、神への愛はひとつ

1. 母の日の由来

今日は5月第2日曜日、母の日の礼拝が世界中の教会でもたれ、一般の人々の間にも広く浸透しています。昨日あたりは、お花屋さんや園芸店はカーネーション一色で飾られていたのではないでしょうか。新型コロナ感染による経済的な苦境も拡大しつつある中、花を買うことや贈り物として届けたりすることも生花関係の方々の生活と仕事を支え、応援するという私たちにできる一つの愛の奉仕と言えます。

ご存じでしょうか、日本で販売されるカ-ネ-ションの5割は輸入品であり、67%に当たる約3億本は南米コロンビアからの輸入だそうです。その南米コロンビアは長年にわたり、貧困と内戦と麻薬組織の暗躍に苦悩していましたが、貧しい農民が麻薬の原料となるけしの花の栽培をやめてカ-ネ-ション栽培に転換することで新しい国づくりに貢献しているそうです。日本へのカーネ-ションの輸出が、「コーヒと花の国コロンビア」を大きく支えているのです。少々値段が高くなりますが、これも国境を越えた貧しい国とそこに住む子供たちへの支援活動の一環と言えます。一本の花も日本とコロンビアをつないでいるのです。

では、なぜカーネーションが母の日に贈られるのかといえば、ここから一本のカーネーションの花があなたと教会とキリストとをつなぐことになります。

1905年アメリカのフィラデルフィアに住むアンナ・ジャービスさんが社会活動家であったお母さんの召天記念日に白いカーネ-ションで教会堂を飾り、母に感謝する「母の日」を設けることを提案しました。やがて賛同者が全米中に広がり1914年にウィルソン大統領によって5月第2日曜日が「母の日」と制定されたのでした。赤いカーネーションはもともとヨーロッパでは「イエスの母マリアの涙の花」と呼ばれていました。十字架に架けられるキリストを見送った母マリアがこぼした涙が落ちた地面に咲いたという伝説があり、カーネーションの花は古くから母性愛の象徴とされていたこととも結びついたと言われています。

このようにアメリカの小さな教会から始まった母の日が、世界中で祝われるようになった理由は、母親の中にいのちのはじまりと愛をだれもが強く感じるからではないでしょうか。生まれた赤ちゃんが最初に手にふれるのはお母さんの乳房であり、口に含むのは母乳です。目が見えるようになって最初に見るのは母親の瞳と笑顔、ことばを話せるまでに一番多く耳にするのはやさしい母親の声ではないでしょうか。手が差し伸ばされなければはかなく消え去ってしまいそうないのちが母によって育まれたからです。

だからこそ感謝が生まれます。母の日を英語では「マザーズサンクスデイ」とはっきり目的を表現しています。母に感謝する日なのです。極度の未熟児として障害をもって生まれた赤ちゃんを若いお母さんがそれこそ身も心も削って苦労して育てました。その子が小学校に入学したとき、「お母さん、私を産んでくれてありがとう」と感謝のことばを語ってくれたと聞きました。苦労も涙もすーと消え去ったそうです。お母さんも心の中で「生まれてきてくれてありがとう」とその子を強く抱きしめたそうです。

2. いのちは神から贈られるもの、そして愛は私たちが神から学ぶもの

昔の人は、赤ちゃんはどうして生まれるの?という子供の質問に「コウノトリが運んでくれた」と答えました。性教育が進んだ今日では子供たちには通用しないことでしょう。

しかし、この答えは「いのちは神からの贈りもの」という深い意味が込められていると私は思います。現代人は、子供は計画的につくるもの、産むものと考えます。だからこそ「あんたみたいなできそこない!しらんわ」という暴言も親から飛び出してしまうのです。宗教深い時代には、古今東西を問わず、子供は神様から授けられるものと受けとめられました。だからこそ感謝して大事に育てて、神様にお返ししようと考えました。出発点が違うのです。出発点が異なれば、プロセスもゴールも異なってくるのです。

母の日をアメリカでは平日に行われる単なるイベントではなく、日曜日の礼拝として祝われます。それは、神に感謝する日として、親は子の誕生を神に感謝し、子はこのような母を与えてくださった神に感謝するためです。こうして母と子と神が感謝で結ばれるのです。

親になってみるとつくづくわかることがあります。結婚すれば、親になることは難しくありませんが、親であり続けることは難しいなぁと実感します。子供は親の愛情の下で育ちます。一方、親は子供を育てる中で、「愛」を学び続けます。子供は「砂場で人生を学ぶ」というタイトルの本がベストセラーになったことがありました。「育児は私たちが愛を学ぶ」砂場と言えます。そして多くの場合は、まず自分が親から受けた愛情と表現方法をモデルにします。ところがそれではすぐに足りなくなってしまうのです。うまく当てはまらないからです。育児書は毎年、ベストセラーの上位を占めますが、教科書通りに子供が育つわけがありません。突き詰めれば「HOW TO」ではなく、自分自身の愛のありかた、どうすればよいのかより、どうあればいいのか、DoingではなくBeingが問われていることに気づかされます。このことは育児を超えて、親子関係、夫婦関係、隣人関係、すべての人間関係の根底に横たわっている自分の課題に導かれることになります。人間の悩みの80%は「人間関係」と言われていますから、なおさら真剣に向き合わざるを得なくなります。

第1コリント13:1-8節のことばは、パウロがコリントの教会に書き送ってから、2000年近く経っていますが、いまなお不朽の輝きを放っています。ここには、愛について14のことばがつづられています。肯定的積極的表現で6、否定的消極的表現で8、合わせて14です。「愛は寛容です、親切です」から始まる14もの愛を学び、実践しなければならないのかと思うと気が遠くなるかもしれません。でも大丈夫です。秘訣があります。14の中から1つだけ選んでください。それを毎日、口ずさみましょう。目につくところに書き出しましょう。手帳の毎月のカレンダーの上に書入れましょう。おトイレに入ったとき必ず手をあらいながら口ずさみましょう。そうすれば聞いたけど忘れることはありません。知識としての理解から、信仰による生活の知恵へと深化します。頭からハートに刻まれていきます。

そうなれば、一つだけで十分です。なぜならこれら残りの13の愛の徳もすべてイエス様のご人格・ご性質そのものだからです。ですから全部にとりくんで中途半端に終わってしまうより、一つだけ徹底してそこに生き抜くことを決心しましょう。なぜならば、一つの愛の教えに生きていくとき、御子キリストの愛の中ににとどまり続けることになるからです。そして、御子イエス様のようになり、イエス様のように生きるという私たちの信仰生活のゴールに通じていくからです。

私は「愛は寛容です」ということばを神学校時代に選びました。寛容と訳された言葉はギリシャ語の原語では「怒りを爆発させるまでに長い時間をかける」という意味だそうです。日本語では寛容とは広い心のことです。寛容さという言葉は、私の中では多様性の一致を尊ぶという牧会の目標にもなっています。なんでそうなるの!?とカチンときたり、いらだっていた私でしたが、一人一人の違いを認めると、違っているほうが「こりゃ面白い」と感じるようになりました。違いを受け入れるには、自分の「こうでなければならない」という硬直した価値観から一度、解放されることも意味します。幅が広がり、背景にまで思いを寄せるようになりました。自分に理解できない他の人の行動に対して「人間のすべての言動には意味がある」という人間観にも結び付きました。なんでそうなるのかという不毛の原因究明論より、どういう目的でそうしているのだろう考える目的志向論というスタンスを自然にとるようになりました。伊藤仁斎という儒教学者の「秋霜をもって自らを律し、春風をもって人に接する」ということばも他宗教の教えながら大事にしています。イエス様のスピリットに通じ、日本語としてもこころに響くからです。「晴れた日ばかりじゃない、雨が降れば傘を差せばいい」という松下幸之助のことばも好きです。イエス様に安心して委ねる信仰に通じるからです。もちろんなんでもいいと言っているわけではありません。私のよって立つべき土台は聖書以外にありません。生涯、信頼して従う相手はイエス様ただおひとりです。どんな本からもどんな人からも、イエス様の愛の応用編を多く学ぶことができるのは楽しいことであり、生活を彩ってくれます。

選んだ一つの愛は他の13の愛とつながり、イエス様のように生きることにすべてが結びついていきます。だから1つの選んだ愛のことばに徹していきましょう。私にとって「愛は寛容」であり、愛と寛容はイエス様そのものであり、イエス様のなかに無限に満ちています。イエス様の中に「寛容」の実践例を新たに発見し、感動しています。さあ、あなたもイエス様に学びませんか。

教会から始まった母の日の礼拝は、マザーズサンクスデイと呼ばれますが同時にジーザスサンクスモーニングでもあるのです。愛はイエスの十字架のもとからあふれ出ています。 

「もし、愛がないならやかましいどらやうるさいシンバルと同じです」(第1コリント13:1) 「ここに愛がある」(第1ヨハネ4:10)

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