【福音宣教】 聖書的な礼拝と信仰生活に戻れる日を待ち望みましょう

おはようございます。みなさん、おかわりございませんか。困っていることありませんか。お気軽にご連絡、ご相談ください。

宇治バプテスト教会も新型コロナ感染「特定警戒都道府県」の指定解除、外出営業自粛の段階的解除が発表されたことを受け、4月のイースター礼拝後、休止していた日曜礼拝への出席を6月第1週から再開いたします。もちろん、密閉・密集・密接を避け、マスク着用、入り口での非接触型体温計による検温、手洗い消毒の徹底、1.5m以上の間隔をあけての着席、説教者による飛沫防止のための講壇前のシールドスタンドなど、十分な対策をとった上で、高齢者用の午前の礼拝と社会人用の午後からの礼拝の2部制をもって礼拝を再開します。

おおよそ半年近くにわたる新型コロナ感染の爆発的拡大も日本では徐々に収束に向かいつつありますが、世界で36.7万人、日本で867人の尊いいのちが奪われました。その中には医療関係者の方々の尊い犠牲も多くありました。さらに感染防止のために最後の看取りや葬儀すら見送れなかったご遺族の悲しみや悼みはどれほど深いことでしょうか。新型コロナウィルスのワクチンが開発されるまでまだまだ長期的に対応していく必要がありますから、自分と隣人のいのちと健康を守るため、日常の自覚と公衆衛生意識を高めて生活しましょう。

幸い6月から対策を講じつつ礼拝を再開できる状況と体制が整いました。宇治バプテスト教会ではこの期間の間に、ラインよる礼拝中継、ラインのビデオ通話を用いての聖書学校や心のオアシスルーム、キッズ礼拝などの新しい仕組みを導入することができました。特に高齢者の方々がスマホやパソコンに取り組んでくださり、新しいネットワークと交わりの場が広がったことをうれしく思っています。秋に予測される第2波への備えにも通じることでしょう。これらの取り組みは、教会の交わりの中から孤立・孤独者を一人も出さないという私たちの祈りと願いから生まれたことです。

1.    ペンテコステの日に

教会の暦では今日は、イエス様のお約束通り、120人ほどの弟子たちが一つ所に集まり、祈りに専念していた時に、神の御霊、聖霊がくだったペンテコステの記念日です。

この日、御霊に満たされた使徒ペテロが大胆に宣教したとき、3000人もの人々がイエス様を救い主キリストと信じバプテスマを受けました(41)。こうしてエルサレムに初代のキリスト教会が誕生しました。ですからペンテコステの日は、キリスト教会の創立記念日とも言えます。3000人もの人々がどのようにしてバプテスマを受けることができたのだろうかと思いますが、エルサレムの神殿の外側には、礼拝者たちが身を清めるための、多くの水槽(プール)施設が造られていたことが発掘調査でわかっているそうです。

では、イエス様を信じバプテスマを受けた初代のキリスト者たちはどんな礼拝をささげ、どのような集会を開いていたのでしょうか。聖書は、みなが一つ所に集まり、使徒たちの教えを固く守り、パンを裂き、祈りをしていた(42)と記しています。「集まること」「教えを聞くこと」「固く守ること」「パンを裂くこと」そして「共に祈ること」という5つの生活習慣が描かれています。この5つは時代が移り変わろうと変わることのない教会の本質的ないとなみといえます。さらに46-47節では「食事を共にし」「神を賛美」していたと2つの要素が加わっています。その結果「多くの民に好意」を持たれ、「主も毎日、救われる人々を仲間に加えてくださった」(47)という好循環が生まれていました。

2.    ともに集うことから生まれる力

教会において、「ともに集う」ことからエネルギーが湧き上がります。ともに集い、共に祈り、共に賛美し、共に礼拝をささげ、共に食事し、困ってる人がいれば共に分ちあう(44-45)ことによって、教会とそこに集う信徒の信仰と愛は深められました。こうして教会の公同性と一体性が強められました。時代が移り変わるとこの原則は変わりません。

暖炉の中で薪や炭に火をつけ、熱く燃やす時、一つの大きな炭に火をつけようをしてもなかなか火がまわりません。それどころかすぐに消えてしまいます。ところが火種となる小さな炭のまわりに小さな炭を寄せ集め、重ね集めるとやがてすべての炭に火が回りだします。一つのままでは消えてしまいますが、寄せ集めると燃え上がっていきます。共に集まり、互いに寄り添い、助け合うとき信仰の火は消えるどころかますます熱く燃え盛るのです。

こんな話があります。たまたま出会った3人の旅人が冬の峠道を超えようとしていました。一人は裕福な老人でした。降り出した雪がいつしか吹雪にかわりました。老人は若者に紙幣の束を渡し、急いで峠をくだり、村人に救助に来てくれるよう呼んできてほしい、費用も謝礼もいくらでも払うからと言いました。報酬を約束された若者は急いで峠をくだっていきました。もう一人の若者はこのままでは凍え死ぬかもしれないと考え、その老人を背負ってゆっくり歩きはじめました。吹雪はますます激しくなってきました。村人が心配して救出に向かったとき、紙幣の束を燃やして暖をとろうとしたまま凍え死んだ若者を発見しました。紙幣の束は灰になっていました。一方、もう一人の若者は老人を背負ったまま雪の中をゆっくり歩いて峠を降りてきました。二人の体温で体をあたため、声を掛け合いながら励ましあって雪の中を歩き続けたからでした。極端な例話かもしれませんが「共に歩む」ことのなかに隠されている大きな救いの力の存在を、私たちに教えてくれています。

3.    新型コロナの感染を予防するために「密閉、密集、密接」を避け、「2mの社会的距離を取りましょう」という呼びかけは確かに有効な対策であることは間違いないです。しかし、これはある意味、不自然な人間的行動です。人間の本能に反する行動です。向かい合って話さないこと、声をださないこと、歌を歌わないこと、握手もハグもキスもしないこと、2m離れて生活することなど、これらは感情的交流を断ち切ってしまうリスクが高く、孤独感や孤立感を深めてしまう結果になりかねません。学校で子供たちが「2m離れろ、あっちへ行け」などと言う新たないじめがおきないか案じています。人は大人も子供も不安を感じるとその矛先を他の弱い人たちに向けて解消しようとする傾向をもっていますから、心のケアが必要とされます。

たしかに私たちは今回、礼拝のライブ配信を行い、ラインやZOOMというアプリを用いてオンラインによる学びや交流を新しく始めました。とても便利で有意義です。しかしそれは、人と人が直接出会って顔を見て、笑顔と言葉を通してコミュニケ―ションをはかり、共に集い共に語り合い共に仕事を分かち合うことから生まれるパワーとは比較になりません。改めて私たちは共に集うことの意味と意義をかみしめています。

「普通のことが特別なことでした」2020/5/31 朝日新聞 ゼスプリ 広告)と改めて気づかされています。今こそ、私たちは初代教会の原点ともいえる姿、「共に集う」ことを回復するときです。ポストコロナの新しい局面において教会は主の日に、「共に集い」いっそう「きずなを深める」場となると信じています。

数か月に及ぶこの悪夢的状況の中で傷ついた人々、経済的にも困窮している仲間たち、孤立してしまった高齢者たちに、手を差し伸べ、声をかけ、分かち合いましょう。ただ人数的に集うならば「密集」にほかなりません。聖書は「共に集う」こと、つまり「WITH YOU」のスピリットを分かち合う「集い」を教えています。「神が共におられるのです、そして私もあなたとともに、わたしたちもあなたがたとともにいる」というWITHYOUのスピリットが大切です。神が共におられるなら、わたしたちもまた誰かとともに生きるべきなのです。京都新聞のコラム「天眼」で同志社大学・浜矩子教授はアイルランドのバラッカー首相が感染が世界的に拡大するさなか、「中国、スペイン、そしてイタリアの皆さん。我々はあなたがたと共にいます。試練の影を目のあたりにしている皆さん。我々はあなた方と共にいます」と呼びかけたことばを紹介し、「この人の魂は間違いなく国境を越えている」と結んでいます(4/19 京都新聞)。

この呼びかけは神の国に国籍を持つ私たちのスピリットであり、祈りそのものではないでしょうか。 初代教会はそのような「WITH YOU」に生きていたのです。 ともに集うなかで。

主イエスは呼びかけてくださっています。「見よ、わたしは夜の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ2820)                          

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