おはよううございます。
先週から日曜日の朝の礼拝を再開できました。皆さんのお姿を見てたいへんうれしく思いました。私たちにはそれぞれの家族がいますが、兄弟姉妹は信仰による家族として特別な存在なんだなとあらためて思わされました。
マザーテレサは「愛の反対語は憎しみではなく無関心です」と言いました。神に対する罪の反対語は神を愛することです。こころを尽くして、思いを尽くして神を愛しなさいとの命令は、旧約聖書の教えであり、新約聖書における主イエスキリストのもっとも大切な教えともされています。そして使徒ヨハネはその教えを深め、「神を愛しているしるしは、神の家族である兄弟を愛することのなかに認められるのだ」と諭しています(15-16)。
兄弟を愛さない者は死の中にとどまっています(14)、兄弟を憎む者は人殺しです(15)、兄弟が困っているのを見てあわれみの心を閉ざす者に神の愛はとどまっていません(17)、きわめつけは「私たちはことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか」(18)と迫っています。口先だけの愛は「リップサービス」にほかなりません。中身のないスカスカの「ピーマン」のような愛といえます。
ある牧師が「愛は形容詞ではありません。動詞です」と言いました。美しい飾り言葉ではなく、実際に手足を動かすことです。「お祈りしています」ということばをリップサービスにしてはいけません。「祈りはやがて行動となります」。PRAY(祈り)とPLAY(行為)は双子なのです。
「兄弟が困っているのを見てもあわれみのこころを閉ざす者」(17)であっては、私たちのために命まで捨ててくださった(16)キリストの愛がとどまっていないと使徒ヨハネは語っています。ヨハネが生きた時代は現代社会とは異なります。裕福な貴族と貧しい奴隷階級(歴史資料によれば当時、イタリアでは4人に3人は奴隷、1日1万人の奴隷が一人500円で売買された)、激しい身分差別が存在していました。貧富の差は想像を絶するほど圧倒的でした。ひとたび疫病でも流行ろうものなら、高価な薬など買うことも医者に診てもらうこともできず、見捨てられてゆきました。人権や福祉に関する思想もなく法律や制度なども整備されていませんでした。そんな時代に教会に集うクリスチャンの多くは身分的には奴隷階級の人々だったと言われています。数少ないながら救われた貴族階級や裕福なクリスチャンたちは、自分の富を貪るのではなく、持てるものを提供し、貧し人々を精いっぱいサポートしたのです。ペンテコステの日の初代教会は、圧倒的な聖霊の愛に満たされ、いっさいのものを共有し、資産や持ち物を売り払って分配していた(使徒2:44-45)と記録されています。聖餐式と愛餐会も同時に行われ、愛餐会の食事は貧しい人々ややもめや孤児や病人たちにとっては、1日1食の「いのちをつなぐ」食事でもあったと言われています。
「あわれみの心」は、困っている人を助ける同情、お情け、援助、支援といった上から目線のレベルの話ではなく、「消えゆく可能性のあるいのちを精いっぱいつなぎとめる」医療的行為でもあったといえるのではないかと思います。コロナ感染患者の治療のなかで医者や看護師たち医療従事者が自らの危険を顧みず、患者のいのちをつなぐため治療にあったっている姿と私には重なって見えてきます。
そもそも、「病院」(ホスピタル)の語源は「もてなし」そしてHotel(ホテル)と同じです。天国へ行くための最後のいのちをつなぎ留めてあげる宿・居場所・避難所でした。回復して元気になって社会へ送り出すという医療の場というより、ホスピスに近いイメージでした。地上で望みを失い過酷な状況に置かれている人々のいのちをわずか1日でもつなぎ、信仰に導き、永遠の国と永遠のいのちを得て永遠のやすらぎをプレゼントしてあげたのです。あるいは何も持たない彼らがその手に、最高の神からの贈り物である永遠のいのちと平安をしっかりと受け取る「めぐみの場」でもあったと思います。
東京の山谷と呼ばれる場所で、ホームレスや日雇い労働者たちに福音とキリストの愛を語る女性牧師(森本春子)のドキュメンタリ―番組がNHKで放映されました。狭い教会堂に寝泊まりさせることはできません、できたとしてもそれはえこひいきや差別になります。炊き出しをしますが配給できるのはほんの一握りの人々だけです。単なる同情だけで奉仕しているのではありません。山谷の「お母さん」と呼ばれるように全力投球の奉仕でした。お酒に逃避したり、投げやりな態度を示したり、他人に迷惑をかけたりすれば、思い切りどなりつけ、叱りとばしていました。夜、路上で寝ている人を見守り声をかけてあげるが、朝には冷たくなって息を引き取っている、それも日常的だったそうです。何をしてあげられるのだろう? 結局は何もしてあげられない、そんな無力さに打ちひしがれつつも、イエスキリストの永遠のいのちと天国の希望を伝え、地上のいのちを今日一晩つないでもらう。それが彼女のできる愛でした。東京都庁が7憶5000万円の融資をするのでセンターを建設する話がありましたが、一切の宗教活動ができない制約があるとわかると断念しました。福音を語ることができなければ彼らを救うことはできないと心に決めていたからです。志に共感した人々の尊い献金によって今、施設が建設され多くのホームレスの人々が救われ、新しい人生を始めているそうです。
テレビニュースでキャストが番組への投稿者からのメッセージを紹介していました。一人の女性が「いまこそ、相手を思いみるやさしい想像力を働かせましょう」と便りを寄せたそうです。私の心にも深く響きました。コリント13章の愛の定義に付け加えたいとさえ思いました。使徒ヨハネも主イエスキリストも「互いに愛し合いなさい」と命じています。キリストの愛、父なる神の愛は一方通行の愛です、惜しみなく注がれ、見返りなどまったく要求していません。無条件、無償の愛は神の中にのみ永遠に存在します。よくよく注意をして理解してほしいことがあります。
神からの愛は一方通行です。ただし、兄弟姉妹の愛は、「互いに」という「相互性」をもっています。交互に分かちあう、あるいは交換しうるという特徴をもっています。相手から一方的な愛情を求めるだけならやがて兄弟姉妹の愛はひび割れ壊れていきます。クリスチャンは愛し合うべきだと「べき論」で捕らえるならばそれは「愛さなければならない」という律法の縄目で自分を縛り上げることになります。親切にしてもらったので「十分、お返しをしています」というのもまた「お金や物で相手を縛る」ことになってしまいます。
「互いに愛し合いなさい」というキリストの教えを支えるもの、それは「互いに相手を思いみるやさしい想像力」だと思います。想像力が欠如していれば相手を思いみること自体ができません。見ているようで何も見ていない。困っている人がいても「景色」「風物」に過ぎず、私たちは「傍観者」にすぎません。テレビの中の「人物」たちにすぎないのです。
相手が困っているだろうな、家族はどうしているのだろう、いままでどう暮らしていたんだろう、これからどうされるのだろう・・・優しい想像力を働かせる時、愛は形容詞から動詞に変わるのではないでしょうか。
助けを受ける側も、助けの手を伸ばしてくれる人がお金や時間やからだを動かして犠牲を払ってくれている、そのことに思いをはせる時、想像力を働かせる時、甘えるだけではない、感謝のことばをこころから伝えるだけではない、自分にできることは自分で精いっぱいやりぬこうという「自立」の精神が培われるのだと思います。甘えることは依存になったり、あたりまえになったり、愛すべきという縛りになったり、お礼をしているのだから十分だという錯覚に陥るリスクがあります。
互いに愛し合うために、しかも、一時だけではなく維持するためには、お互いに相手へのやさしい想像力を働かせること。想像力を働かせることができる「自立した精神」を養うことが求められると私は思います。
真の家族はお互いへの「やさしい想像力」と、ずるずるべったりの依存的甘えを超えた「自立の精神」からその絆を深めていくと私は信じています。
兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。