1. 神の平安
先週、私たちは「祈り(PRAY)と行動(PLAY)」は一体であり双子ですと学びました。祈りと愛の奉仕は一体なのです。そして向き合う相手あるいは見えない相手に対しても「静かにやさしい想像力」を働かせましょう。そうすれば祈りもさらに深められるでしょうと学びました。深められた祈りは愛の奉仕へとさらに私たちを導きます。そして奉仕の動機となる愛は「私たちのためにいのちをお捨てになられたキリストの十字架」から流れ出ることも学びました。さて今日の最初のみ言葉のポイントは20節です。愛の奉仕に疲れを覚える者たちにとって慰めのことばとなります。
実は、愛の奉仕には「ここまで」という限界がありません。律法の世界における愛は「何度まで許せばいいのでしょう」「何マイルまで、敵のために荷物を運べばいいのでしょう」と回数や限度を定める傾向があります。決められていたほうが楽なのです。そこでやめても罰せられることはないからです。ところが、イエス様はそうした規定を取り払われてしまいました。「7度を70倍するまで」(マタイ18:22)赦しなさい。「1ミリオン(1.5㎞)命じられたら2ミリオン(3㎞)」(マタイ5:41)歩きなさいと。これは辛いことです。
2011年の東日本大地震の後、私は精神保健福祉士として中心地のひとつである宮城県石巻と松島に地元の保健所の保健師とともに仮設住宅に住む人々の健康調査のため2週間奉仕をしました、その時、全国から派遣された自衛隊員、消防隊員、警察官の中に救助活動後、深刻な燃え尽き症候群やPTSDで悩む隊員が多く出たことを知りました。救助や支援活動に尽力した学校の先生やお寺の僧侶の中には、自殺者がいたことも知りました。
どんなに救助・支援活動してもやりつくせない。助けられなかった人々、取り残してしまう人々がいる。そういう人達を後にして期日がくれば立ち去って帰っていかなければならない、その後ろめたさや後悔が心を苦しめてしまったのです。やさしい思いやりのこころを持つ人であればあるほど、見捨ててしまった自分を申し訳なかったと責め立て苦しんでしまうのです。キリストにあって愛の奉仕に仕えようとする人々や、あるいはクリスチャンでなくても人道的な人命救助や支援活動に本気で携わる方々はこのような「心の危機」にしばしば直面するといわれています。どこまでしてもきりがない、エンドレス。自分の体力や時間の限界があり、自分の所属する組織のルールや資金に限りがあり、どこかで線を引かなければならない苦渋の選択が求められます。重傷者が多い場合、苦渋の思いで医者がトリアージ(助かりいのちと助からないいのちの境界線を引く)を行うような経験を求められてしまうのです。
20節、「神は私たちのこころよりも大きく、なにもかもご存じです」と使徒ヨハネは神のみこころを記しています。これは慰めのことばです。そのような時、責めたててくる自分のこころよりも、神は大きなお方であり、神の愛はさらに大きく深く、すべてをご存じであり、よくやったと認めてくださり、神の御前において、「心に平安」を与えてくださるお方であることを使徒ヨハネは伝えています。この慰めを知る時、「しかたがないじゃないか」と割り切ってしまうより、はるかに心がやすらぐことでしょう。「たった1杯の水をわたしの弟子に差し出す者を私は忘れない」(マタイ10:42)とイエス様は言われましたが、疲れて弱った時にはそのコップ一杯の水が重く、その距離が遠くに感じてしまうことも正直あります。みなさん、そんな経験がありませんか。でも、神様はあなたのこころよりもはるかに大きいお方です。ですから、どんなときにも、あなたは自分よりも神様を小さくしてしまってはなりません。自分を神様より大きなものにしてしまうのは「傲慢」という罪ですが、自分より神様を小さくしてしまうのもまた「不信仰」の罪です。ですから、神の愛を自分の心より小さくしてしまい、自分を責め、裁き、追い込み、その結果、平安を奪われてはいけません。
こころを尽くして神を愛しているかぎり、神はよろこんでくださっているのですから。
2. 神の愛の命令
使徒ヨハネは23節で神の命令(単数)を紹介しています。
まず、キリストの名(このお方が神の御子であること)を信じること ついで、キリストの命令である「互いに愛し合う」ことです。 優先順位はまず信じることです。このようにすれば神が喜ばれ(22)、神がともにおられ(24)、祈りもとめるものはなんでも神からいただくことができる(22)という祝福さえ受けることができるというのです。
すべてはキリストを信じることから始まります。私たちの人生は一度しかありませんが、何度でもやり直せます。ですから遅すぎることはありません。そしてこの人生であなたが駆け出す、(年をとっていれば歩き出す)方向はキリストのもとです。私のもとに来なさいと招いてくださっているキリストのもとに行くことです。野球にたとえるなら、まず一塁に向かって走ることです。間違っても三塁に向かって走りだしてはいけません。聖書が教える罪はハマルティア(的外れ)という意味ですから、方向がずれていればいつでも修正できます。間違っていたと気づけば、「あとから」ではなく「今」修正しましょう。
次に、兄弟姉妹を愛することです。旧約聖書には613の戒律(248の積極的命令と365の消極的命令)がありますが、イエス様はただ一つの新しい戒め「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)を弟子と教会に求められました。これは「新しい戒め」(13:34)「私の戒め」(15:12)、「キリストの律法」(ガラ6:2)「キリストの命令」(1ヨハネ3:23)とも呼ばれています。先週、お話ししたように、神の愛は値しないにもかかわらずそれでも注がれる一方通行の愛ですが、弟子たちの愛は「互いに」と言われているように双方向です。そのためには、「相手を思い見るやさしい想像力」を差し出す側も受け取る側も働かせることが求められます。
今年は台湾からの学生を迎えるプログラム(マキノ福音日本語学院)が中止になりました。13年間、宇治教会も協力してきました。国際シャローム教会の林牧師と出会わなかったらこの働きに協力することもなかったと思います。観光ガイドブックで「台湾」を知っていても、本当の意味での台湾を知ることはなかったと思います。日本がマスク不足と高騰で困っていた時、まっさきに200万枚のマスクを空輸で寄贈し、「加油日本」(がんばれ日本)と励ましてくれたのは台湾でした。マスクでぼろ儲けをしようとした人々がいる一方、「まさかの時の友こそ、真の友の証し」と、友情を示す台湾の人々がいたのです。これが相手を思いみるやさしい想像力ではないでしょうか。
ある兄弟が国から支給される特別定額給付金の中から「福祉基金」へとささげてくださいました。福祉基金は困っている兄弟姉妹が無償で借りることができる「教会内の基金」です。その思いやりに心が熱くなりました。少し想像力を働かせれば、コロナ禍の中で、困っている人々が身近なところでも多くおられるのではと思います。大きなことをしようと思えば腰が重くなってしまいます。愛の奉仕は身近なところから、そして小さなことから始まります。
バケツ一杯の水ではなく、コップ一杯の水を差しだすところから、私たちの中にキリストがおられることが証しされるのです。
愛はやさしい想像力を働かすところから生まれてきます。
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エペソ4:32)