【福音宣教】 ここに愛がある

先週、私たちは「神のご本質は愛である」ことを学びました。神は罪を憎まれますが罪人の私たちを最後の極みまで愛しぬいてくださいます。それゆえ私たちはこの人生で多くの困難や試練に直面し、戸惑い揺れ動き、時には沈み込むことがあっても、それでも希望をもって歩み続けることができます。なぜなら「神は愛だから」。「神は良きお方であって良きことをなしてくださる」(詩篇11968)と旧約時代の詩篇の作者は告白しました。新約時代の偉大な使徒パウロは「神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ロマ828)と告白しています。

私たちを支えるのは「神は愛である」との深い信仰と、「神は愛である」と信じるところから導き出される希望なのです。

では「神は愛である」とするならば、その確かな証拠はどこにあるのでしょうか?と問いただしたくなる人も多くいます。使徒ヨハネはその質問に対して「ここに愛がある」(10)と、答えました。直訳すると「このことの中に愛が存在している」となります。では、このこととは何でしょうか?

使徒ヨハネは「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのささげものとしての御子を遣わされました」(9,10)こと、すなわちキリストの十字架の死こそ、神の愛の結晶であると言い切っています。神が御子を遣わされたこと、御子イエスをなだめのそなえ物、償いの供え物としてくださったこと、まさに「ここに愛がある」と宣言しています。 

1.    歴史的事実として

神が愛された、神が遣わされたという動詞の時制は「不定過去」であり、一度限りの決定的歴史的出来事を意味します。神の御子が人となってこの世界に来られたこと、十字架の上で身代わりの死を遂げられたこと、さらには3日後に死の力を打ち破って復活されたこと、これは否定できない歴史的事実であるばかりか、2度と繰り返す必要ない完全な出来事でもあることを示しています。単なる過去の出来事ではない記念的事実として使徒たちは表現し、神の人類への救いの恵みを伝えたのでした。

2.    みがわりとなった尊い犠牲の死

神の御子は「なだめのささげ物」(新改訳)となられました。口語訳では「あがないの供え物」、新共同訳では「罪を償う供え物」と訳されています。ギリシャ語ヒラスモンあるいは同義語ヒラステリオンには「なだめ・贖い・和解」という意味があります。神は人間の「罪」に対しては怒りをもっておられますから、人は神の怒りをなだめる必要があります。神の怒りをしずめるために「なだめのささげ物」が必要とされました。さらに、口語訳では「贖いの供え物」と訳されていますが、「贖い」とは犯した罪を覆うほどの代償、あるいはみがわりを指すことばです。新共同訳では明白に「罪を償う供え物」と訳されています。旧約聖書の時代、人々は犯した罪を神に赦していただくために、エルサレム神殿に参拝し、祭司たちによって、牡牛、羊などの動物を屠ってもらい、身代わりとして神にささげました。毎年毎年、無数の動物が身代わりとして屠られ、多くの動物たちの血が流されました。神の怒りを鎮め、裁きから救われるためには身代わりの死が必要とされました。全人類の罪の身代わりとなる価値ある存在として神は御子を遣わされ、御子の死をもって罪の赦しといのちを与えようと決心されたのでした。

かつて秀吉が毛利軍の名武将清水宗治が守る備中高松城を水攻めにしているさなか信長の死を知り、急いで和睦をして引き返す必要がありました。秀吉は戦を終結するため「城主宗治が切腹をするなら籠城している家臣とその家族を全員救う」と約束しました。宗治は家臣の猛反対を押し切って堀に小船を漕ぎ出し兄と弟とともに切腹しました。1582年の出来事でした。城主一人が身代わりとなって家臣全員を救ったのです。なぜならすでに城の中では食料が尽き果て、病死や餓死する者たちであふれていたといわれています。

神はすべての罪ある者たちに怒りを下し審くかわりに、御子の尊い身代わりの死をもってその罪を赦し、滅びから救い出し、いのちを与えてくださいました。イエス様の筆頭弟子であったぺテロも「自分から十字架の上で私たちの罪をその身に負われました」(1ペテロ224)と、御子の死は尊い身代わりの死であり、その打たれた傷によって我らは癒されたと、神に深く感謝しています。使徒パウロもキリストの十字の死の意味を理解したとき「まだ罪人であったときキリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ロマ58)と、神の愛を語っています。

あなたのために誰がいのちを捨てるほど愛してくださったでしょうか? 宗教改革者カルバンは「神の愛の十分・確実な確信を得ようとするなら、キリストのほかにまなざしを向けてはならない(注解)」、神の愛を知りたいならば、御子の十字架を見なさい、そこにとどまりなさい、ほかにまなざしを向けても神の愛はわからないと語っています。

 3.    神の愛を知った女性 田原米子さん

神が愛ならどうして私をこれほど苦しめるの!」と、病室でお見舞いに来た宣教師に激しく怒り、訴えた女子高校生がいました。彼女は鉄道に飛び込み自殺を図りましたが、その電車に医師がいてすぐさま応急処置を施して出血をとめてくださったため一命をとりとめました。しかし意識が戻ったとき、彼女は両足と左腕を失い、残された右手にも指が3本しかないという思いもよらない残酷な現実に直面することになりました。母を病気で亡くした悲しみの中で生きる目的を見失しなっていた彼女は、図書館で一冊の書物を手にしました。哲学者ショペンハウエルの哲学書には「人間にとって最も幸福なことは生まれてこなかったこと、次善は一刻も早く死んでしまうこと」と綴られていました。彼女は人生に意義を見出せず自殺を図ってしまったのでした。

以前に増して絶望的になった彼女は、激しい痛みをこらえて出される薬をため込んで今度は確実に死のうと決めていました。

そんな彼女をにこやかに訪問してくれる宣教師と青年がいました。「神などいない、いたら私をこんなめにあわせるはずがない、神が愛であるはずがない。会いたくもないし帰ってくれ」と何度も拒絶し悪態をついましたが、しばらくするとまた病床を訪ねて来てくれました。そのうち、枕元に置いてくれていた聖書を、指3本でページをめくりながら読み始めるようになりました。彼女の心に神の恵みの光が差し込んできました。彼女の心の叫びに対する答えがそこにありました。「自分の命までも捨てようとした罪深い私のため、すでに2000年前に神は御子を十字架にかけてまで、私を愛してくださっていたんだ。探していた愛がここにすでにあるのだ」と。そして祈る彼女の心の中にキリストは住まわれ、彼女の人生が変わったのでした。彼女はやがて牧師となった青年と結婚し牧師夫人となり、二人の娘を育て、全国を講演するようになりました。「指が3本あればできないことは何もありませんよ。失ったものを数えて悲しむのではなく、残されているものを数えましょう」と聴衆に彼女はいつもにこやかに語りかけました。

米子さんは私たちの小さな開拓教会にも来てくださいました。働き盛りの私の父が突然、脳梗塞で倒れ左半身の機能を奪われ絶望していました。米子さんは指三本で小さな3羽の折り鶴を父のためにこころを込めて折ってくださいました。父に送ると感動し、「失われたものだけを見て嘆いていたが、右手も右足もそして不自由ながら左足も自分には残されている。もう後ろを見て生きるのではなく、前を向いて歩く」と決心し、会うのを避けていた友人知人に「全快祝い!」とはがきを出しました。米子さん新しいいのちを与えてくださった神様は、私の父にも新しいいのちを与えてくだったのでした。

神は愛であり、神の愛は人を生かします。いのちと希望を与えてくださいます。

愛を人の中に求めても見つかりません。むしろ裏切られ失望させらえることがおおいのではないでしょうか。愛を未来に探してもそこにはありません。愛はすでに2000年前にカルバリの十字架において明らかにされました。あなたも「ここにきて」真実な神の愛を見出してください。

神があなたをどれほど愛してくださっていたか。その事実は十字架においてすでに示されています。 私も心から宣言したいのです。「ここに愛がある」と。

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