今日の中心聖句は「神はその人のおられ、その人も神のうちにいます」です。このことばを使徒ヨハネは4章で4回も連続して用いています。
・もし、私たちが互いに愛し合うなら(12)
これらは要約すると、「あなたがたが神にとどまり、神が彼らのうちにとどまる」ための条件は1)福音的な信仰告白 2)キリストの愛の戒めの順守 3)贈り物である聖霊の保持となります。使徒ヨハネはすでに3章23-24で簡潔に表現しました。
「神の命令とは私たちが御子イエスキリストのみ名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちのおられます。 神が私たちのうちにおられるということは神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです」
したがって、御霊によって導かれイエスが神の御子・キリストであることを信じ、告白するならば、そしてその信仰が互いに愛しあいなさいというキリストの教えに従い、実践されているならば、つまり生きた信仰になっているならば、神が「その人におられ、その人も神のうちにいます」という、完全な神との交わりがそこに満ちているのです。その交わりは終わりの審判の日に向かって、完成されつつあることが期待され、神様から教会に託されているのです。
「神はその人のおられ、その人も神のうちにいます」ということばは、同じではありませんが、相互補完的なことばです。
1. 神との完全なすばらしい交わりの中に招かれていることを意味します
「父と私とは一つである」(ヨハネ10:30)とイエス様は言われました。使徒ヨハネは、この交わりの中に私たちを迎え入れることを彼の宣教の目的としました。このことを使徒ヨハネはすでに1:3で明言しています。
福音とは、「神との交わりの回復」を意味します。十字架と復活はその手立てでした。神に背き、不従順不信仰にとなって、神をこころと生活から締め出し、その結果、神との交わりを失ってしまった人々をパウロは「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」(エペソ2:1,5)と呼び、イエス様は「迷える羊」「転がり落ちた銀貨」「放蕩息子」と見なし、失われた人を訪ねだし、招いてくださったのでした。イエス様は罪人とは呼ばれず失われた人呼ばれました。手に多くのものを入れたけれど、なくてならない大切なものを失ってしまったね。神様にどう祈るのか、神様の御心をどう知るのか、どう神様と共に生きたらいいのか、神様との交わりを失ってしまったねと。だから、疲れた人には私のもとに来なさい(マタイ11:28)とイエス様は招いてくださいました。背が低い劣等感をバネにして「なにくそ、負けるものか!」と金儲けを人生の目的にがむしゃらに生きて、エリコ一の金持ちになったザアカイがいました。しかし手に入れた物は多くても失ったものも多くありました。お金はあっても周囲から嫌われ、誰からも信頼されず、おそらく家族もばらばらではなかったかと想像できます。そんなザアカイにイエス様は「急いで降りてきなさい」と招きました。
福音の宣教とは、「神との交わりの中に人々を招くこと」なのです。永遠のいのちとは神との交わりの回復を指しています。この目的のために神様がユダヤ人も異邦人も一切の区別なく世界中から人々を招いておられるのです。神があなたを招いておられます。イエス様は父の御心を有名な「放蕩息子」(ルカ15)の例えで感動的に伝えてくださいました。父のもとを離れ、きらびやかな都会(華やかで物質的に豊かに富み、さまざまな心惹かれる楽しみに満ち、神様抜きでもお金様さえあれば幸せになれると幻想を抱かせ、まわっていく社会)ですべてを失ってしまった弟息子を、ただ一人、変わらぬ愛で待ち続けていたのは父でした。彼は「我に気づき」自分の本当の居場所は父のもとにある、父のもとに帰ろうと決心しました。父はこんな自分を赦してくれるはずがないと思い込んでいましたが、父は初めから弟息子が帰ってくるのを待っていました。そして「死んでいた息子が生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」(ルカ15:24)と喜び、息子であるしるしとして「指輪」をはめさせ、祝宴を用意してくださいました。彼が決心して帰れた背景には、子として迎え入れようと愛をもって待ち続けていた父の存在があったのです。このたとえ話の中心は「悔い改めて立ち返った」弟息子ではなく、そんな息子を待ち続け迎え入れた父こそ主人公なのです。せっかく立ち帰った息子を父が赦さず追い返したとしたらこれこそ悲劇です。赦し招き入れ、息子として再び交わりを回復してくださった父の存在とその愛こそが中心なのです。
父なる神様はご自身の交わりの中にあなたを迎え入れようとしてくださっています。教会はその父の家の入口、玄関のような役割を果たしていると私は思います。ですから宇治教会の正面玄関には「レンブラントの放蕩息子」の絵を掲げています。もっと大きい絵を本当は飾りたかったのですが・・。見つけた人は教えてください。教会は神との交わりが回復される恵みの玄関口なのです。
信仰は実践の中で生きて働きます。教理を知っている、知識を持っていることも確かに重要です。私たちの信仰は決して「イワシの頭も信心から」というような、信じる対象があいまいなものではありません。イエスを神の御子キリストと信じる信仰とその告白に基づいています。そしてその信仰が生きたものとして体験されるのは、「実践的な愛」においてです。ですから、使徒ヨハネは「愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」(16)と表現しました。しかも、使徒ヨハネは「留まる」(メノ-)ABIDE という特徴的な動詞を用いています。英語では「he abides in Him」
留まるとは生命的・人格的関係を意味し、互いに愛し合う交わりの関係が教えられています。愛の実践は兄弟愛の中で、さらには隣人愛の中で実を結ぶことで完成されていきます。
今朝は「愛は神と共に」という題をつけましたが、どこかで聞いたようなタイトルだなと思い返していました。ロシアの文豪トルストイが同じ題名の短編小説を書いていることに気がつきました。この小説は「靴屋のマルチン」として知られています。紹介しましょう。
貧しい靴屋のマルチンは地下室の仕事部屋で靴づくりをしていました。彼のこころは悲しみと孤独で満ちていました。子を失い妻にも先立たれた独り身だったからです。ある時、イエス様が明日、会いに来てくださるという夢を見ました。次の朝、雪かきの友人が休んでいる姿を見て、部屋に招き入れあたたかいお茶を提供しました。昼過ぎ赤子を抱いた若い婦人が寒さの中で凍えていました。彼は部屋に招き暖かいスープとパンを差しだしました。貧しく栄養失調になっていた彼女はお乳もでなかったからでした。赤子のためにあたたかな毛布をプレゼントしました。午後、子供がお店のリンゴを1個盗んだため店のおばあさんが大声で怒鳴りつけていました。マルチンはリンゴ代を店のおばあさんに払い、少年にはやさしく諭してリンゴを手渡しました。こうして1日がいつものように過ぎていきました。夜、マルチンは祈りの中で「イエス様、今日は来てくださらなかったのですね」と尋ねると、イエス様は「マルチン、今日、私は3度あなたを訪ねた。わからなかったのかね。あれはみんな私だよ。」と。
愛は動詞です。形容詞ではありません。神様は全世界を愛せよと言われたのではなく、あなたの隣人を愛せよと言われました。使徒ヨハネは「あなたの身近な大切な信仰の家族」である兄弟を愛しなさいと兄弟愛を語りました。愛は神と共にあるのです。愛はあなたができる精いっぱいの小さなことを
私たちは「愛されることよりも愛することを」神に祈り求めましょう。神様はきっとそうしてくださいます。