【福音宣教】 キリストはすでに世に勝っている

今日の中心聖句は「神によって生まれた者はみな、世に勝つ」です(第一ヨハネ5:4)。

 最初に、ことばの整理をしておきましょう。ここには3つの重要な言葉があります。「神によって生まれた者」、「この世」という2つの名詞、そして「勝つ」という動詞です。

1.    神によって生まれた者

「神によって生まれた者」とは、クリスチャン・キリスト者を指しますが、使徒ヨハネはイエスがキリストであると信じる者(1)、イエスを神の御子と信じる者(5)と定義しています。「イエスはキリストである」とは、最もシンプルな信仰の告白です。イエスはキリストですとの信仰を告白する者たちの大きな特徴は、兄弟愛(1-3)とこの世に対する勝利(4-5)だと、使徒ヨハネは5章で再び強調しています。神の愛、兄弟愛、世に対する勝利はヨハネの手紙の3大テーマと言えます。

兄弟愛については3:23節以下4章全体を通して私たちはすでに学んできました。約半年以上にわたるコロナ感染下で共に集うことができなかった日々を通して、私たちもあらためて兄弟姉妹としての愛の交わりの豊かさを実感することができました。礼拝で再会できた喜び、聖餐式にともにあずかった感動を私たちは忘れることができません。やがていつの日か、大きな声で心いっぱい神を賛美し、食事を共にできる礼拝と交わりの回復の日を待ち望みましょう。今朝はもう一つの特徴である「世に勝つ信仰」を学びたいと願っています。

2.    世に勝っている

まず、「この世」とは、一般的には私たちが住む地上の世界・神が創造された世界を指しますが、聖書ではさらに「神に敵対するすべての悪しき勢力の全体」として用いられています。神に敵対する悪しき勢力の総元締めはサタンであり、手下どもはサタンにつき従う諸々の悪しき霊、悪霊たちです。彼らの目的は「神との幸いな交わりから人々を遠ざけ、引き離すこと」です。神から引き離し、まことの神を信仰させないように目をくらまし、神ならぬ神々をあてがい満足させ、すでに神を信じた者たちに対してはあの手この手で誘惑して信仰をゆさぶり、あわよくば信仰を捨てさせようとします。あるいは信仰の価値をうすっぺらいものに引き下げ、宗教レベルにとどめようとします。そうした影響をもろに受けて「神はいない、神は死んだ、天国もない、聖書はあと100年もすれば博物館のなかでしか見れないであろう」と豪語する者たちもいます。

すでに2章15節で使徒ヨハネは「世と世にある者を愛してはいけません」「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などはこの世から出たものです」と警告しました。神を愛する以上に世にあるものを愛すると、いつしか心を奪われ支配されてしまい、神の子供、神のしもべとしての喜びや誇りを失い、世の奴隷となってしまいます。世とはあなたを神から引き離そうとするありとあらゆる誘惑をもたらすサタンと悪霊の悪しき勢力の総称であると理解しましょう。しかし、「神から生まれた者は世に勝つ」と言われています。この「勝つ」という動詞は、「現在形」ですので、「今、世に勝ち続けている」という意味になります。無力な私たちがサタンと悪しき霊どもがもたらす試練や誘惑に「勝ち続ける」とはどういうことでしょうか。次のことばが手掛かりとなります。

3 私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利です

使徒ヨハネは「私たちの信仰こそ、世に打ち勝った勝利です」と大胆に宣言しています。

ここで使われている「勝った」という動詞の時制は、歴史的に1度限りの決定的出来事を指す「不定過去分詞」です。誰がどのように勝ったのでしょうか。私たちが信じているイエスキリストでした。この方は神の御子であられたにもかかわらず、人となられてこの世界に来られ、罪をとりのぞく世の子羊として十字架で死なれ、完全な罪の赦しを成就されました。さらに3日後に死から復活され永遠のいのちの道を切り開かれました。罪を赦し、死の力を打ち破られたことは、この世を支配しているサタンと悪しき霊どもに決定的な一撃を与え、その力を根こそぎ奪いさり、決定的な敗北を与えたことを意味します。イエス様はこのことを予見して「サタンが稲妻のように天から落ちるのを見た」(ルカ1018)と言われました。

神の御子の十字架と復活によって、サタンはアキレス腱を切られてしまったようなものです。自由に好き勝手に動き回っていたにもかかわらず、今や動くことに大きな制限がかけられました。完全な敗北はキリストの再臨の日の裁きの時に、火の池に投げ込まれ滅びてしまう(黙示2010)まで待たねばなりませんが、彼らはすでに無力化されています。キリストはすでに世に勝った!のですから。苦難のキリストは栄光に満ちた勝利者キリストとなられたのです。

以下のみことばが裏付けています。
「勇気をだしなさい。私はすでに世に勝っている(完了形)」ヨハネ1633。 「死は勝利にのまれてしまった(不定過去」(1コリント1553)。「神は私たちの主イエスキリストによって勝利を与えてくださった(不定過去)」(1557)。

 400年前の宗教改革者カルバンは「私たちの戦争状態は生涯続く。小競り合いは日常のことでありしかも敵は46時中あらゆる方面から戦いを仕掛けてくる。けれども神が私たちを武装させてくださったのは、一日だけのためではない。信仰はただ数時間だけのものではなく、聖霊のたえざる業である」(注解書p303)と語っています。400年前も現代においても、キリストの歩む道に変わりはありません。キリスト者の日々の生活は確かに
戦いと小競り合いの日々といえます。 キリストの十字架と復活を信じる私たちの信仰こそ、生涯の戦いのための武具であり、世にすでにうち勝った勝利者であるキリストと私たちを結び合わせるもっとも強固なきずなとなっています。

カルバンはさらに続けてこういっています。「多数の敵に囲まれて私たちは戦いを耐え忍ぶという大仕事をしなければならないのである。実際、私たちはもし神が勝利を約束してくださらないなら、戦いを始める前に打ち負かされ、日に百度でも負けてしまうであろう。だが神は最初に私たちに勝利を約束するという条件で、戦いに出るように私たちを励ますのである。」と。


キリストはすでに勝利されました。サタンの力を骨抜きにされました。その腰を砕かれました。だから信仰の日々が戦いだとしても、キリスト者はこころを折られてはなりません。くじけてはならないと使徒ヨハネは励ましているのです。十字架のキリストの全き愛は、私たちから終末の審判の恐れを取り去ります。復活のキリストの完全な勝利は、私たちを現在の信仰の日々の戦いに備えさせ、豊かな励ましを与えてくださるのです。

最後に、神は私たちに「サタンや悪霊やもろもろの試練や誘惑に対して十分強くなれ」と教えているのではありません。このことは大切です。あくまで私たちの勝利は地力の強さの中にあるのではなく、信仰の中にのみあります。使徒パウロのことばに今一度、耳を傾けましょう。「私は私を強くしてくださる方(キリスト)によってすべてのことができる」(ピリピ413)のですと。

イエスキリストこそがすでに世に勝った勝利者であり、それゆえイエスキリストを信じる私たちの信仰こそが勝利なのです。

世に勝つものとはだれか。イエスキリストを神の子を信じるものです。

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