「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、
神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」(第1ヨハネ5:14-15)
今朝は「神の民の御国の祈り」という主題で語らせていただきます。14-15節で、使徒ヨハネは祈りの確信について教えています。「神のみこころにかなう」ことであればその祈りは聞かれると。しかもすでにかなえられたと確信して感謝し、そのように行動することまで示唆されています。
ある村で、長い間雨が降らないのでこのままでは農作物が枯れ果ててしまう。神様に「雨を降らせてください」と教会に集って祈ろうと村人が話し合ったそうです。始まる時間になると、一人の少年が傘を持って長靴を履いてやってきた。雨が降らないのにどうして傘を持って来たのかと大人が不思議に思って尋ねると、少年は不思議そうな顔をして問い返したそうです。「雨が降るようにと、神様に祈りに来たんじゃないの?」
私たちの祈りも似たり寄ったりのところがあるようです。イエス様の弟子たちもそうでした。ヘロデアグリッパ王によりペテロが投獄されヤコブに次いで処刑されるかもしれないとの危機感の中で、弟子たちは徹夜で祈りをささげました。神様はみ使いを遣わし奇跡的にペテロを牢獄から救い出しました。ペテロは集会場所に立ち寄り無事守られたことの報告だけをしよう家の戸口で呼びかけました。長居をすればすぐに兵士たちがペテロを逃亡させた一味を逮捕しようと押しかけてくることが明らかだったからです。ところが弟子たちは、女中のロダが、ペテロさんが門口で皆さんを呼んでいますと伝えても「そんなはずがないだろう。あなたはおかしい」と信じませんでした(使徒12章)。
考えてみると、この祈りはかならず聞かれると確信をもって祈ったという経験がどれほど私たちにあるでしょうか。みこころにかなう祈りとはどのような祈りでしょうか。祈りの応答に関していろんな考え方がありますので紹介します。
1. ある人は言います。なんでもいいのです。祈りなさい。もし祈りが聞かれたらそれは御心にかなったのです。聞かれなかったらそれは御心ではなかったのですからいたしかたないですと。なんとなく納得はできますが、後出しじゃんけんのような思いが残ります。
2. 神の御心にかなうことは必ず実現するのだから、私たちが祈っても祈らなくてもどっちでもいいじゃないのとクールな人もいます。しかし祈らなければ叶えられた喜びと感動を知ることができません。祈りは私たちに喜びと神様が生きておられることを実感させ、こんな私の祈りさえも覚えてくださっているのだ(へブル6:10)という感動をもたらしてくださるからです。
3. 一方、御心にかなうように熱心に祈ること、あきらめずに祈ること。裁判官に何度も執拗に訴えるやもめに対して「うるさいからもう裁判をひらいてやろう」と言ったたとえ話をイエス様は離されました(ルカ18:1-8)。そのように、「神をうるさがらせた量が常に有効な量となる」と、ある祈りの本には書かれていました。どうせなら大きな声で、できれば徹夜祈祷や断食祈祷をして祈らないと、神様もそう簡単には祈りを叶えてくださらないだろうと考える人もいます。この場合は、祈りの内容よりも態度や祈りの温度が重視されています。
4. 厳しい指導をする牧師がいるかもしれません。「祈りが聞かれなかったのはあなたの信仰が足りなかったからです。隠れた罪があるからです。罪をしっかり悔い改めてもっと熱心に祈りなさい」(ヤコブ5:16)と。確かに聖書は「心に不義があれば聞かれない」(詩篇66:18)、「清い手をあげて祈りなさい」と教えています。でも、これは旧約聖書でヨブが友人から責められ苦しんだ忠告であったことを覚えたいものです。神は罪人の祈りにさえ耳をかたむけ、その祈りをこころに留めてくださるあわれみ深いお方であると私は信じています。
実は、私なりに祈りの確信に関しては大きく3つに整理して受けとめています。
第一にイエス様の約束です。ヨハネ14:13、14「私の名によって求めることはなんでもそれをしましょう」。イエス様の名を通して祈ることはイエス様というフィルターを通して祈ることといえます。山に降ったほこりや汚染物質に汚れた雨が地にしみ、地下水となって岩や砂で濾過されてやがて清水となって湧き出てくるように、自分の欲のためにする利己的な祈りであっても次第に濾過され、神の御子キリストのご性質とキリストがこの世界に来られた目的にかなうような祈りへと次第に整えられていきます。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」(ルカ5:32)と、イエス様は語りました。この目的にかなう祈りの一つが「執り成しの祈り」といわれる祈りです。来週学ぶ1ヨハネ5:14-15節の続きの部分です。
私たちが自分の個人的な願いをイエス様に叶えていただくのではなく、イエス様の願いに私たちの思いを合わせていくことが求められています。そのような祈りを私たちが身につけていくためには、時間を要することをイエス様はご存じでした。ですからイエス様は、「あなたがたが私にとどまり私のことばがあなた方にとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい」(ヨハネ15:7)と励ましてくださっています。
どんなことでも遠慮なく、子が父親に願うように、まずなんでも求めなさい。小さなことも大きなことも祈りなさい。その中で、しばしば祈りがきかれず失望してしまうような経験を重ねたとしても、それでもなお、私から離れずとどまり続けなさい。みことばを求め続けなさい。そうすればやがて祈りの内容が濾過され、キリストの名とみこころにかなうように整えられ、引き上げられていくからと、励ましてくださっているのです。私たちは人生同様、祈りの世界においても、多くの失敗と少しの成功を通して、成長するからです。
第二にイエス様が教えてくださった「主の祈り」(マタイ6:8-10)を覚えましょう。
8節で大前提が語られています。「父はあなた方がお願いする先に、必要なものを知っておられるからです」(8)と。必要を知っているかたは同時にかならず与えてくださるかたです。これが確信の基礎です。
主の祈りの中で最も重要なのは「御心が天で行われるように地でも行われるように」(10)との言葉です。父なる神のみこころ、あるいは復活され天におられる主キリストの御心は、この地においていったい誰によって行われるのでしょうか。もちろんすべては神様のお働きによりますが、神様だけではありません。あなたです。私たちです。地上におかれた神の民によって、キリストを信じキリストの御霊をこころにすでにいただいた神の子たちによって、この地においてみこころが行われていくことが求められているのです。それは御使いたちの仕事ではなく、神の子どもたちの務めです。
神がアダムとエバに願われたのは、神が創造されたこの世界を「御心にかなって治める」(創世記1:28 管理命令)ことでした。彼らは残念ながら果たすことができませんでしたが、キリストの御霊を持つ神の子どもたちに新しく託されました。もちろん完全にみこころが成就し、御国が完成するのはキリストの再臨の日ですが、その勝利の日を確信しつつ、それぞれが置かれた場所で、それぞれに与えられた賜物を用いて、あなたにしかできない小さいけれど大切な御心にかなうことを行っていくのです。それは重荷ではなく私たちの喜びであり、新しく誕生した私たちの生かされている目的でもあるのです。信仰とは神に喜んでいただくことだからです
第三に、祈りは「神に知っていただく」(ピリピ3:6-7)ことです。
「あらゆるばあいに感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(3:6-7)と使徒パウロは勧めています。祈りには謙虚さが伴います。
中国の伝道者ウォチマン・ニーが「座り、立ち上がり、歩く」という小冊子を書きました。この小冊子の中には、「あなたの描いた青写真・設計図を神様に見せてこの通りにしてくださいと押し付けるのではなく、神がご用意してくださった青写真にあなたが同意することが祈りです」との趣旨が書いてありました。私はその本を若い日、進路で悩んでいた時に読み、目が開かれ、祈りに対する考え方が大逆転したことを覚えています。神にあなたの願いを、日付や方法まで指定して押し付けてはなりません。押し売りの祈りは神の子どもたちの祈りではないことを知りました。神の願いにあなたが同意することが、御国に属する者たちの祈りなのです。
苦しいつらい胸の内をそのまま神様にお伝えすればよいのです。あとは神様の領域です。苦境にあれば素直に助けを求めればいいのです。それ以上は神がなさること。助け方や方法まで神様に指示することは余分なこと。へんにあなたが深入りをするとややこしくなります。祈りにはそのような謙虚さが常に求められます。私たちは、イエス様がゲッセマネの園で、徹夜で祈り、血の汗をしたたらせて激しくもがき祈った上で、「あなたの御心のままに」(マルコ14:36)と委ね切られた姿のなかに、謙虚な祈りのもっとも美しいモデルを見出すことができます。
あなたはどのように「祈り」を整理し、「祈りの道」を歩んでいますか? この世の人々と同じように今も「ひたすらご利益」を求め続けているでしょうか。謙虚にお任せするのでなく、すべての必要をご存じの神様に向かって、あれやこれやと指示している状態なのでしょうか。
天でみこころがなるように、地でもなりますように。