【福音宣教】 死に至る罪と死に至らない罪

今日は村尾恵子姉妹の転入会式を感謝の中に行いました。証しを通して姉妹の祈りに神様が応えてくださったことを私たちも学ぶことができました。さて、5章15節から16節で使徒ヨハネは神の子たちの祈りの大きな特徴を書き記しました。「みこころにかなう祈りをささげるならば、すでにかなえらえたと確信を持ちなさい」と。御心にかなった祈りの具体例として使徒ヨハネは「執り成しの祈り」について17節以降、手紙を書き続けます。

1. 執り成しの祈り

神様のみこころは、「一人も滅びないで永遠のいのちをもつこと」ですから、執り成しの祈りをささげ、一人の罪人が悔い改め、神に立ち帰り、神の国の新しい民の一人となり、神の国の完成のために新しい人生を主イエスとともに歩みだすことは神の御心に叶うことです。あなたの家族のため、親しい友のため、執り成しの祈りを最後までささげましょう。1億2千万人が住む国ですが、私たちが出会い、親しい交わりを持つことができる人たちはその中のほんの一握りにすぎません。出会いを大切にして、友情と信頼を育み、彼らの救いを祈りましょう。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ3:9)

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」(マタイ18:14)

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:28)

アブラハムの甥ロトが悪徳の町ソドムゴモラに移り住んでいた時、神はこの町を滅ぼそうと決心されました。アブラハムはロトとその家族の救いのために、執拗な執り成しの祈りをしました。50人から始まり、45人、40人、30人、20人、10人。6回も食い下がって祈りました。結局ソドムゴモラの町は滅ぼされましたが、「神様はアブラハムの祈りを覚えてくださって」(創世19:29)、ロト一家を救い出してくださいました。執り成しの祈りは、「神が覚えておられる」、神に最も近い祈りです。ある伝道者が「一人の人が救われるためには、一に祈り、二に祈り、三四がなくて五に祈り」と言いましたが、それはまさに天国の原則といえます。

2. 死に至る罪と死に至らない罪

執り成しの祈りによって、「死に至らない罪をおかしている人々には、いのちが与えられる」と使徒ヨハネは書いています。このいのちとは、罪の中を歩き続けない力、「悪しき者が彼に手を触れる」(18)ことを阻止する力でもあります。執り成しの祈りにはその人々を永遠の裁きから救いだす力があるのです。それゆえ、兄弟の一人が罪をおかしているならば、それを知った者は、執り成しの祈りをもって彼を愛し、彼をふたたび神のもとへ連れ戻すことができるように努めなさいと使徒ヨハネは奨励しています。ここには2つの罪が対照的に記されています。死に至る罪と死に至らない罪、あるいは赦されない罪と赦される罪とも言い換えることができます。

旧約時代、律法学者たちは、重大な罪と軽い罪とを区別していました。死刑が課される重大な罪は、「偶像礼拝・姦淫・流血(殺人)」とされていました。

新約時代の使徒ヨハネは、永遠の死に至る罪と永遠の死にいたらない罪の二つに分けています。「死に至らない罪」「赦される罪」とは、一つの例外を除いたすべての罪を指します。これらすべての罪は主イエスキリストの十字架の血によってすでに完全に赦されている(第1ヨハネ17)からです。キリストの血をもってしても赦されない罪はもはや存在しないからです。

では、「死に至る罪」「赦されない罪」とは何でしょうか。この点はイエス様がすでに明確に答えてくださっています。

「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」(マタイ1231-32(参考 マルコ328 ルカ1210

御霊に逆らい、御霊を冒涜し、否定し、拒否してはならないとイエス様は強調しました。聖霊は、イエスキリストは神の御子であるとの告白へ導きます。イエス様は罪からの救い主であり、、十字架で死なれたがよみがえられ死とサタンに勝利された方、そして来るべき御国の王との告白へ導きます。なによりもこの地上の人生を生きる私たちを導いてくださる「私の主である」との信仰告白へ日々導いてくださるお方です(第1コリント12:3)。それゆえに聖霊は「恵みの御霊」(へブル1019)、「いのちの御霊」(ロマ8:2)とも呼ばれています。ですから「恵みの御霊を侮る者はどんな重い処罰に値するか考えてみなさい」(へブル1019)と、警告されています。聖霊は信仰にいのちを与え、キリストとの交わりを深める霊であり、助け主です。

濁流に取り残された人が中州の木にしがみついているところが発見されました。岸からではもはやすべがないため、救助ヘリがすぐさま駆けつけました。救助隊は助けを求める人を、良い人か悪い人か、愛の人か冷たい人か、お金もちかお金のない人かで決して区別しません。すべての人を助けようと命がけで救助活動をします。やっとロープが彼のもとに渡されました。彼にとっては命綱のようなロープです。ところがこんな細いロープじゃ頼りない、ヘリに乗りたくないと拒んで、自分から捨ててしまったらどうなるでしょう。聖霊は主イエス様の十字架の死と復活を経て、人類に最終的に用意された恵みの御霊です。それは命綱のような存在です。その聖霊を拒み、侮り、拒絶するならば、いのち綱を拒み、切り捨てるようなものです。そこにはもはや救われるすべがありません。濁流に落ちて流され滅びるしか残されていません。

へブル書にはドキッとさせられることばがあります。「信仰から落ちれば再び悔い改めることはできなくなる」(へブル6:4-6)」との警告です。ところが、じっさいの私たちは、何度も信仰から落ちかけ、そのたびごとに悔い改めてまた歩き始めているというのが実態であり、ありのままの姿といえます。では、どういう意味でしょうか。4節では「天からの賜物の味を知り聖霊にあずかる者となり」と、やはり聖霊との結びつきがはっきり記されています。聖霊をあなどり、かたくなに拒み続けるなら、信仰から落ちてしまう。聖霊を拒めば、信仰をやがては失い、信仰が無ければ悔い改めることもできず、この世の偶像礼拝の世界へと再び落ち込んでいくしかないのです。偶像礼拝の世界に「ひさしぶり、また戻って来たね」と、迎え入れられることでしょう。確かに信心はあり、〇〇宗教は持っていますが、そこにはキリストがおられません。そしていのちがありません。だから「偶像を警戒しなさい」(21)とのことばでヨハネはこの手紙を結びました。

カルバリの丘ですべての罪を赦すほどの尊い犠牲の血がながされました。復活されたイエス様は天でも地でも主となられましたから、罪の赦しを宣言する権威を持たれています。弱い私たちはなんども信仰から落ちかけ、転びかけました。しかし、その都度、聖霊が弱い私たちを守り、支え、キリストにつなぎとめ続けてくださっていたのです。そしてこれからも聖霊はそうしてくださることでしょう。感謝ですね。

聖霊は隠れた存在です。ご自身を前面には出されません。御子キリストに栄光を帰し、キリストの御心を明らかにしてくださる助け主であり、真理の御霊として働かれます。聖霊に満たされ、聖霊に導かれ、聖霊を通して御子キリストを崇め賛美してまいりましょう。このお方を拒んではなりません。神様からの最後の最高の贈り物を拒んではなりません。聖霊は信仰にいのちを吹き込むお方だからです。

「御霊はわたしの栄光を現します。私のものを受けてあなた方に知らせるからです」(ヨハネ1614

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