「真理と愛のうちに、父なる神と御父の御子イエス・キリストからの恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。」 (第2ヨハネ1:3)
今日から使徒ヨハネが記した第2の手紙を学びます。使徒ヨハネは自らを「長老」と語り、手紙を書き送った教会を「選びだされた婦人とその子たちへ」(1)と呼んでいます。長老とは経験豊かで、ある程度年齢も重ね、何よりもキリストの十字架と復活の目撃者・証人として尊敬されていた指導者を指すと言われています。さらに教会をキリストの妻、花嫁と、ヨハネも(21:9、22:7)パウロも呼んでいます(2コリント11:2、エペ2:22)。ヨハネもパウロもそしてなによりもイエス様が教会を愛して、人格的な深い愛の交わりを大切にしていたなによりの証拠といえます。
1. 真理においてあなたを愛しています(1)
長老ヨハネは教会の兄弟姉妹を「ほんとうに」愛していますと書き出しています。それは偽らざるヨハネの思いでした。ヨハネだけでなく、ペテロもヤコブもパウロも同じです。イエス様の牧場の羊である信徒たちを牧するために召され「羊飼い」と呼ばれる牧師たちは、いつの時代であっても同じ思いを持っています。信徒は牧師を選べるかもしれませんが、牧師は信徒を選べません。牧師も人間ですから、「あの人だけはどうも苦手で、相性が悪い、日曜日の礼拝の前には胃が痛くなる」という場合があるかもしれません。若い日、私もそんな苦い出会いをいくつか経験しました。でもそのたびに、聖書の一場面を想い起します。よみがえられたイエス様が再びガリラヤ湖でペテロに出会われて、「あなたは私を愛するか」「それでは私の羊を飼いなさい」(ヨハネ21:17)と語られた言葉を。同じことばを聖霊が、私にも語りかけてくださったことを思い出します。イエス様を愛しているならどんな信徒も愛せるはずだ。なぜならイエス様が彼を、彼女を愛しておられるのだから。
「ほんとうに」と新改訳で訳されたことばは「真理において」(エン・アレセイア)ということばですから、単に「こころから」という情緒面をさしているだけではありません。「真理を知っている人々はみなそうです、あなたがたを愛しています」(1)、「私たちの内に宿る真理によって」(2)と、すぐに、真理ということばに置き換えられています。
ヨハネにとっての真理とは「私は道です、真理です、いのちです」(ヨハネ14:6)と語られた「イエスキリスト」ご自身を意味していました。いつまでもとこしえまでも変わらぬ真理(2)はイエス様ご自身なのです。ですから、長老ヨハネは真理において、すなわちイエスキリストにあって、イエスキリストとともに、「あなたを愛しています」と語りかけているのです。それゆえに、ヨハネの愛には偽りがありません。
人間ヨハネがどれほど「ほんとうに愛しています」といっても人間の愛は永遠ではなく、その愛にはゆらぎがあり、確かな根拠がありません。かつての仲間であったペテロがイエス様に向かって「あなたを愛しています、たとえ火の中でも水の中でも従います」と豪語したにもかかわらず、「イエスなど知らない」と否認してしまった姿を身近で見ていました。
愛は情の深さや強い熱心さではなく、真理の確かさに支えられています。私たちもイエスキリストにおいてあなたを愛しますと告白しましょう。なぜならイエスキリストはいつまでもとこしえまでも(2)変わることなく私たちとともにおられますから、私たちの愛もまた、真実なもの、偽りのないもの、永遠なるものとなるからです。
2. 恵みとあわれみと平安はわたしたちとともにあります(3)
使徒パウロはしばしば「恵みと平安があるように」と2つのことばをつないで用いましたが、長老ヨハネは「恵みとあわれみと平安」と3つのことばを結び合わせています。英語では「grace、mercy、and peace will be with us」と表現されています。
恵み(grace)とは「神がキリストによって賜ってくださった一方的な救いの祝福」、あわれみ(mercy)とは、困難や試練のなかで弱さを抱えて歩む私たち、「信仰と不信仰との戦いの中にある教会に対する神の理解と同情的配慮(岸義紘)」、慈悲のこころです。平安(peace)とは、「キリストのみが与えてくださる(ヨハネ14:27)安らぎ、安心、恐れや不安からの不思議な解放感と自由」を指します。イエス様は弟子たちに「私の平安」を贈ると約束してくださり、よみがえられたイエス様は「平安あれ」と弟子たちに語りかけました。My Peaceと言えるのはよみがえられ天地の主となられたイエス様だけです。私たちは常に恐れをいだき、不安を覚え、いらだち、怒りにとらわれ、時には憎しみの炎にさえ包まれ、心の嵐を日々、経験している存在だからです。
「恵み、あわれみ、平安」は教会とクリスチャンたちが持っている最高の宝物ではないでしょうか。この最高の宝物は、私たちにキリストを信じる信仰によって「御父と御父の御子イエスキリスト」(3)から与えられました。このお方以外からは与えられないのです。
考えてみればわかります。この世界は「恵み」の世界ではありません。贈られるものを待つのではなく自分から勝ち取りにいかなければ何一つ手に入らないと教え込まれています。「棚からぼたもち」を待っていては飢え死にしてしまうと強迫してきます。手に入れるためには競争に打ち勝たねばなりません。弱者になれないのです。常に強者であり続けなければ保ち続けることができない苛酷な非常な世界です。
さらに、この世はGive and takeの原則で動いています。受けるに値する価値ある者だけが手に入れることができます。条件を満たす優秀なものだけが選ばれる世界です。あわれみがあったとしてもそれは、弱者や敗者に対する上からのお情け、同情に過ぎず、涙をともなう共感と言えるものではありません。ひと昔前の人気ドラマでは、「同情なんかいらない。金をくれ!」という名セリフが、表面的な同情ごっこを痛烈に批判しました。それゆえ、「恵み、あわれみ、平安」を心の宝として生きることができることは、幸いなことです。
3. 真理と愛のうちに
長老ヨハネはふたたび強調しています。「恵みとあわれみと平安」は、教会とクリスチャンが「真理と愛」の中に生きる時にのみ、力強く豊かに働くということを。キリストから離れてしまっては、あるいはキリストの名によって祈ることから離れてしまっては、キリストの命令でもある「互いに愛し合う」(第一ヨハネ4:21)ことを忘れてしまっては、「恵みもあわれみも平安」も、言葉だけの世界に埋没してしまうと。「恵みとあわれみと平安」は真理である御子イエス・キリストにあって、互いに愛し合うなかにおいてのみ、輝きを放ち、喜びをもたらし、実を結ぶのです。
聖書学校では、先週から「神とコロナウィルス」という特別テーマで学んでいます。新型コロナウィルスはまたたくまに世界中に拡大し、今なお2860万人が感染し、死者数が92万人に達しています。悲惨な現状を見聞きするにつれて、神様は一体何をしておられるのか、どこにおられるのかとの疑問と嘆きの声が沸き起こっています。愛する人を失い悲嘆に沈む人々にどう語りかえればいいのでしょう。
こうした未曾有の大災害や疫病に際して「神の怒りだ」「神の裁きだ」「罪を悔い改めなければならない」と騒ぎ立てることは人の世の常といえます。ある著名な説教者がこのように解き明かしています(NT・ライト博士)。ラザロが死んで墓に葬られたあと、イエス様は伝道旅行からベタニア村に戻りました。ラザロの姉であるマルタもマリアも「あなたがここにいて下さったら」(ヨハネ11:21,32)と涙ながらにイエス様に訴えました。悔しく怒りさえ内心覚えていたことでしょう。イエス様は遅れた理由を語ることもなく、詫びることもなく、ラザロの死について説明するわけでもなく、ただ墓の前で「涙を流されました」(11:35)。
この世界には理不尽なこと、 正義が必ずしも通らないこと、不正がまかり通ること、どうにも納得できないこと、激しい怒りさえ覚えること、悲劇的な痛ましいできごとが渦まいています。答えも、解決方法も見つけ出せません。無力さに陥るばかり。そんな中、私たちは「神の御子が涙を流しておられること」そして「泣く者とともにそこに立ってくださっている」姿を見ることができます。神の御子もまた私たちとそこにともにおられ「涙を流して」おられること、このことの中に深い慰めを見出すことできるのではないでしょうか。 私はどのような解き明かしよりも心を打たれました。そうだ、私たちの傍らには、共に涙を流しておられる神の御子イエス様がおられるのだと。 いつくしみ深い天地の真の支配者である神の御子がおられるのだと。ここに私たちの慰めがあり希望があるのです。
「真実な方、真理なる方、御子イエスキリスト」の中に、私たちは「恵みとあわれみと平安」を見出すことができるのです。 主イエスの招きのことばを今あらためて聴きましょう。
「わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)
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