「顔と顔を合わせて語りたい」(ヨハネ第二の手紙1:13)
・今日は敬老の日の礼拝を兼ねています。宇治教会では75歳以上を「敬老のお祝いの」対象としています。9名の正会員の兄弟姉妹が75歳以上(最高齢92歳)。生涯現役で信仰と奉仕に励んでくださっています。日々のご健康を生活の守りをお祈り申し上げます。
・第2の手紙の後半部分は、長老ヨハネが危惧していました当時の大きな異端集団の偽りの教えに対する警告が記されています。異端はキリスト教とは全く異なる宗教ではなく、一部を巧みに取り入れながら救い主キリストに関する中心部分が逸脱して、結果的にはキリストを否定する「反キリスト」の霊となっています。現代日本では、エホバの証人、モルモン教、統一教会が3大異端と呼ばれています。
1. 挨拶をしてはいけない
長老ヨハネの時代はイエス様の「人性」を否定するグノーシス派の教えが教会に混乱を招いました。「イエスは神ではあるが人ではない。自分たちは特別な霊に満たされ特別な知識をもっている」と主張しました。伝統的正統的なキリスト教会は「イエスキリストはまことの人にしてまことの神である」との信仰に堅く立っていました。異端派は特別な知識を持って神を知り、神を愛していると誇っていましたが、兄弟姉妹に対する愛をないがしろにし、交わりを軽んじていました。「真の敬虔とは、兄弟への愛となって働くものでなければならない」(NTD)。ヨハネは「互いに愛し合うように、父の御心に従って歩むこと」それが愛であり、初めから聞いていることである。この戒めの中を歩めと呼び掛けたのでした。
そのような異端の教えをもたらす教師たちに対して「家に入れるな」「挨拶するな」(おそらく口もきくな、顔もみるな)とまで厳しく警告しています。でもはたしてそれが使徒ヨハネにふさわしい態度だろうかと一瞬考えさせられますが、皆さんはどうでしょう。「完全拒否、絶縁、無視、言葉も交わすな、挨拶もするな!」では、まるでハラスメントさながらの態度のように受け取られてもしかたがありません。ところが、注解書には、古代オリエントでは、「挨拶は単なる儀礼ではなく、その人と仲間になることが義務付けられている」と解説されています。教会のメンバーが異端の教師に挨拶するならば、「彼らの悪行に加担することになる」とのことです。たとえるならば、反社会勢力の幹部と杯を交わして兄弟分になるような深い意味をもっていたそうです。つまり人格的な拒否を意味するのではなく、「間違った教え」からはきっぱりと離れなさいという意味であると理解できます。
2. 顔をみて話し合いたい
一方、愛する兄弟姉妹たちとは、「顔と顔を合わせて語りたい」(13)と切にヨハネは願っています。紙とインクつまりパピルスの書状では書き記せなかったことがやまほどある。文字では記しきれない思いがあります。さらに、文字にしてしまうとかえって伝わらなかったり、誤解を与えてしまうことも起こります。今日でいえば「メールやライン」で伝達すれば簡単で早いけれど、真意が伝わらなかったり、誤解を生じてしまうことがあるのと共通しています。2000年前の世界ですから、せいぜい旅行する人に手紙を託すことぐらいしか一般人にはできなかったことでしょう。長老ヨハネが遠く離れた教会の愛する兄弟姉妹と「顔と顔とを見て話したい」と切に願う気持ちはコロナ禍にいる私たちにもよくわかります。半年以上に及ぶコロナ禍で会いたい人にもなかなか会えない私たちも同じ思いを抱えています。改めて人間関係には、FACE-to-FACEが大切だと考えさせられている昨今です。互いに笑顔で迎え入れ、相手の目をみてアイコンタクトを取り、相手の表情やしぐさから言葉以上のメッセージをしっかり聴き取っていく。こちら側の気迫や強い意志を伝える。反対に、相手の傷みや悲しさや不安に寄り添う。そればかりでなく握手する、抱きしめるといったボディランゲ―ジも大きな役割を果たしています。
「去る者日々、疎し」ということわざがあるように、「親密さは会う回数に比例する」という傾向があります。マスク越しやスマホやパソコン越しでは大切なことが伝わらない、人間関係は深まらないという現実が確かにありますが、私たちは週一度、礼拝に集い、礼拝を通して交わり、「祈り合う」ことを大切にしながら、「神の家族としての互いの絆」を結んでいることをうれしく思い、感謝しています。できないことはいくらでも理由を見つけられますが、できることを祈りの中で導かれ、見い出し、分かち合っていきましょう。WITHコロナの時代はきっと、AFTERコロナの時代へと変わると私は信じています。
3. 神の顔を見る日
最後に神の顔を見ることができる喜びを分かち合いましょう。クリスチャンはこの地上での生涯を閉じた後、神の国において「2人の顔」を見る希望と喜びが約束されています。第一は神の御顔。具体的には救い主イエス様の御顔です。そして、第二は先に天の御国に召された愛する人たちの懐かしい顔です。何よりも文字通りついにイエス様の御顔を見る。御顔を拝することは最大の楽しみではないでしょうか。女子高校生のとき、すきな憧れの男の子や先輩の顔をじっと見続けた思い出がありませんか。男子生徒から見られ続けて困りましたというマドンナさんもおられるかもしれませんが・・。
神の顔を見るという、幸いな日が神の家族には用意されているのです。
「 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(1コリン13:12)、
「神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」(黙22:4)
旧約の時代、アダムとエバが神のことばに背いて罪を犯した時から悲劇が始まりました。
「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」(創世3:8)
それ以来、罪ある者は神の顔を見ることが許されなくなりました。恐れとなってしまったのです。神はモーセに告げました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出33:20)イザヤでさえ恐れて岩の間に入り塵の中に身を隠さねばなりませんでした(イザヤ2:10)。
しかし、驚くことにモーセは一度だけ神の顔を見ることができる幸いにあずかりました。「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」(出33:11)。
それゆえ旧約聖書の詩人たちは願い求めました。「主よ、あなたの御顔を私は慕い求めます」(詩27:8)。御顔をあなたのしもべの上に照り輝かせてください。あなたの恵みによって私をお救いください。」(詩31:16)と。救いとは、神の御顔をモーセのように仰ぎ見る恵みに与ることでもあり、彼らは待ち望みました。
その日がついに、新約聖書の時代に実現したのでした。神の御子イエスキリストの中に、父なる神ご自身を見ることが誰であっても許されたのでした。
「だれも父を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。」(ヨハネ6:46)
「イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(ヨハネ14:9)
イエス様の外側の姿を見ても、イエスキリストの中に「神の御顔」を見る者、「父を見
「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」
この「モーセに」というところに、あなたの名を入れてください。