第3通目のヨハネの手紙には、3人の名前が記されています。ヨハネが愛した忠実な弟子ガイオ(1)、信望が厚いデメテリオ(12)、彼はこの手紙をヨハネからガイオに届ける役目を託された人物かもしれないとも言われています。そしてもう一人は、頭になりたがっているデオペレペス(9)です。
1. デオペレテス
彼は頭になりたがっている人(9)、使徒たちの言うことを聞かなかった人(9)、意地悪いことばで使徒たちをののしった人(10)、兄弟を受け入れずに排除した人(10)、受け入れようとする人々の邪魔をした人(10)、教会から追い出そうとしている人(10)、合計6つの悪行が挙げられている。したがってヨハネがガイオが所属している教会をまもなく巡回訪問する時には、「彼の行為を取り上げ」(10)直接話し合うことにしている。他の兄弟姉妹が彼の「悪事をみならわない」(11)ためですと、強い決心を表明しています。
デオペレテスが受け入れようとせず、締め出そうとしている兄弟たちとは、ガイオが喜んで受け入れてもてなし、宿の提供をし、次の旅へと送り出そうとしていた巡回伝道者や宣教師たちを指しています。彼らは使徒ヨハネから遣わされている伝道者たちともいえます。
「頭になりたがっている」このことばは、自分が第一になることを好む、上に立ちたがるという意味の言葉と言われています。これは傲慢さのあらわれで、教会員の上に立ち、兄弟姉妹を支配しようとする態度です。2つのパターンがあるようです。この世で高い地位や権力についている人が、教会に加わったときにおなじような世俗的な発想や上から目線の発言をしたり態度をとってしまうこと。悪意からではなくそのような組織的指導者スタイルが身についてしまっているからと思われます。もう一方ではこの世ではあまり評価されずやや劣等感を抱いている人が、教会の中で上に立とうとしたがり、威張ったり、壁を作ってしまう場合です。いずれにしろ教会のかしらはキリストであり、キリストのみこころを行うからだとしての役割を教会は託されており、お互いがしもべとして仕えていくことを学びあうのが教会のあるべき姿といえます。
デオペレテスはその名が聖書の中に記されてしまい不名誉な結果となりました。私たちのすべての働き、良きことも悪しきことも天の書物には記されています。しかし、なによりも隠れたところで神と兄弟姉妹に仕えた小さなこと、愛から生まれた一つ一つの奉仕はもれなく記され、神のみ旨に覚えられていることを励ましとして、謙虚さとしもべの精神(サーバンツシップ)を忘れずに、神と隣人と社会に置かれた場所で仕えていきましょう。
2. 平安があなたにあるように
ヨハネは手紙を結ぶにあたって「キリストの平安」(EIRENE SOI Peace to you)を祈っています。ヨハネの友人たちから、ガイオにもガイオの友人たちにもよろしく伝えてくださいと。相互の交わりの中心として「平安」「あるいは平和」が強調されています。
カトリック教会や聖公会では伝統的に礼拝の中で「平和の挨拶」が行われています。「あなたに平和」(Peace be with you!)とお互いに挨拶をし、握手やハグをします。アメリカの教会の礼拝に出席した時、礼拝の中で牧師や役員たちが各席にまでやってきて握手やハグをする場面に出会いました。初対面でハグをされ少々戸惑いを覚えた思い出があります。
イエス様は72人の弟子たちを派遣するにあたって、まず「この家に平安があるように」と祈るように命じられました(ルカ10:5)。家庭を訪問したおりなど、挨拶がおしゃべりで始まる前に、一言、「平安を祈る」
クリスチャンが語る平安は言うまでもなくキリストの平安(ヨハネ14:27-28)です。
大きく4つの平安に分けることができます。もっと分類ができますが、私はこの4つの平安を心の励ましにしています。
1.
罪の赦しからくる平安
この平安は十字架の平安であり、神との和解をもたらします。罪からくる不安と裁きの恐れはわたしたちのこころを苦しめますが、主イエスの血はすべての罪からきよめ、平安をもたらします。パウロはローマ5章1節で「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」と語っています。
2.
復活の力からくる平安です。
キリストの復活は、サタンのもつ死の力を破りました。サタンの敗北が決定的となりました。彼の闇の力は朝の光の前に消えていく定めとなりました。死という人類の隠れた長い戦い、すべての戦いがいよいよ終結した平安とも言えます。
よみがえったキリストは「平安あれ」と弟子たちに呼びかけられました(ヨハネ20:19)。ユダヤ教からの迫害をいまなお恐れる弟子たちは戸をしめきっていました。数センチの板の扉で苦難や困難や迫害を防ぐことなどはできません。彼らにはそれしかできなかったのでした。そんな不安と恐れの真っただ中にある弟子たちの「真ん中に」キリストは立たれました。端っこではない。英語訳では、Jesus came and
stood in the midst。
キリストの平安は不安と恐れのうずまくところの「どまんなか」にあるのです。同心円の外側には悲しみ、痛み、苦悩、試練があっても、真中には「キリストの平安」が満ちているのです。それこそクリスチャンが経験するキリストの平安なのです。
3.
聖霊の臨在からくる平安
インマニヌエル(神、ともにいます)という平安があります。キリストの誕生はまさにインマニヌエル(マタイ1:23)の祝福の成就でした。キリストが共におられる、キリストの御霊が心の中に住んでおられる、この平安はどれほど力強いことででしょうか。私たちの教会の入門クラスでは、「足跡 フットプリント」という有名な美しい詩を学んでいただいています。幾多の苦難の中にあってもパウロの宣教の力は、「神がともにおられるなら、誰が敵対しえよう」(ロマ9:31)という信仰からくる力でした。
4.
最後に祈りによる平安を覚えましょう。
クリスチャンには祈りという最大の武具があります。人生の試練の時、私たちには悩むだけ、嘆くだけ、つぶやくだけではなく、祈ることを知っています。まともに祈れないような無力な時でさえ御霊は私たちの内で、「アバ父よ」と祈ってくださいます。
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ4:6-7)
キリストの平安が祈りの中で私たちを守り、支えてくださることはなんと幸いなことでしょう。
「わたしはあなたがたに私の平安を与えます」(ヨハネ14:27)