さあ、いよいよ新しい一年が始まりました。新年の第1日目の朝に、こうして創世記1章1節をみなさまと一緒に大きな声で朗読し、神様が世界を創造されたという偉大なみわざに思いをはせるとき、「凛」としたすがすがしい思いで心が満たされます。今年も聖書朗読を日曜日の朝ごとにすすめてまいりましょう。
聖書の中には神様がなされた「3つの創造のわざ」が記されています。第1は「世界の創造」の御わざであり「天地創造」と表現されています。第2は「新しい人間の創造」の御わざであり「聖霊による新生」と呼ばれています。第3は未来に属することがらですが「来るべき神の国の創造」の御わざであり、「神の国の到来あるいは新天新地の完成」ともいわれています。
創世記を読むときにはこの3つの創造の御わざを1セットにして読まないと、創造主なる神様を正しく理解することが不十分になってしまうのではと思います。「創造・新生・完成」この3つのすばらしい御わざを成就することができるのは聖書に記された神様ただお一人です。神様がこの世界を創造された? なんて馬鹿なことを考えてるんだ。ダーウィンの進化論を学校でならってないのか」と、もし創造主なる神様を拒否するならば、それは同時に天国の存在も否定することになってしまいます。どんな人間でも、そしてどんな絶望的な状態からでも、人は必ずやり直すことができるという人生に対する希望をも失うことになります。つまり、何もない人生、最後の最後まで混沌とした闇の人生しかそこには残らなくなります。それはあまりに空しい人生ではないでしょうか。
第1は、万物の創造の御わざです。
創造の御わざの最大の特徴は無からの創造にあります。「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」(1節)「地はかたちがなく何もなかった」とあります。混沌とした無の世界から「光よあれ」と神様が呼びかけると、光が創造されました。このようにまさに神様は「無から有を呼び出された」のでした。
「つくる」という漢字を辞書で調べると、「作る」、「創る」、「造る」という言葉が出てきます。一般には漢字の「作る」が多く用いられ、建造物など大がかりなものには「造る」、さらに独創的なものには「創る」が用いられています。英語でもMake Produce Create と区別されています。創世記には、主語が神の場合にのみ用いられる「バーラ−」という特別なヘブル語が道いられていま。
神様は原料や材料を用いず、機械や道具を用いることもなく、ただ「ことば」だけで「光」を一瞬にして創造されました。こんなことは人間には全く不可能といえます。人間が何かを作る場合には、原料や材料という素材が必要であり、道具や機械を用いたり、お酒やヨ−グルトを作る場合のように酵母や乳酸菌による発酵を利用することをします。何もない中から何かを作ることは人間には不可能なのです。ヘブル語の「バ−ラ」(創造された)には、神様だけが所有しかつ行使できる人知をはるかに超えた「力」と「叡智」がダイナミックに一体となっています。
天地を創造された唯一の神、宇宙を創造され、今も万物を維持されておられる知恵と無限の力に満ちた神がおられるのです。あなたはこの真理を知っておられるでしょうか。天地を創造された神、力と知恵に満ちた永遠なる神、この神を人生で発見することから、私たちは力強い生き方をスタ−トさせてゆくことができるのではないでしょうか。
伝道12:1「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」
もう一度、本文に戻りますが、1節は直訳すれば「創造された。神は、天と地とを」となります。「創造」ということばが冒頭に用いられています。ユダヤ人たちは幼いときから旧約聖書に親しみ、聖書のことばを聞くことが重んじられました。あらゆることをどんどん吸収してゆく脳の発達段階時期にあたる幼児期に、「創造」ということばを繰り返し聞くことは、子供たちの精神や意志にどれほどの大きな影響を与えることでしょうか。
どうも私たち日本人は子供の頃から「あれしちゃだめ、これしちゃだめ」「みんなと同じようにしなさい」「世間に顔向けできないことはしちゃいけない」と言われ続けて育っていますから、オリジナリティをなかなか発揮できない環境の中にあるようです。このような西洋の笑い話があります。船が座礁して沈没するので早く船から脱出しなければならない。しかし乗客は恐がってだれも海に飛びこもうとしない。困った船長は考えた末、こう言って説得したそうです。イギリス人には「あなたが最初に飛び込めば、あなたはジェントルマンと呼ばれますよ」。アメリカ人には「あなたが最初に飛び込めばあなたはヒ−ロと呼ばれますよ」。そして日本人には「他のひとはみんな飛び込んでいますよ」といったそうです。
聖書のことばを聞き、創造主なる神様を信じるということは、神様のように自らも生きることを意味します。創造主なる神様を信じることは自らも創造的な人生を生きることを意味すると思います。創造的な生き方とは、すでに存在しているものを「模倣」する「コピ−的」な生き方とは質的に異なります。またすでにあるものをよりよく「改良」したり「改善」したりする「応用」的な生き方とも異なります。創造的な生き方とは、無から有を呼び出す、独創的でオリジナリティに満ちた生き方をさします。他と競争する必要さえない、オンリ−ワンを志向する生き方がそこからは生み出されてくると思います。創造性、独創性、私たちにしかできないオリジナリティを大事にしてゆきたいと思います。
第2は「キリストにあって古い人を新しく生まれ変わらせてくださる」御業です。
これを聖書は「聖霊による新生」と呼んでいます。今朝はおおくの時間をこの主題に費やすことはできません。しかし、天地を創造された大いなる神様は、私たちの心という「小宇宙」の中にも「光」を創造してくださることができるのです。真っ暗闇の心、冷え冷えとした心、あれすさんだ不毛の心のまっただ中に希望の光が神のことばによって輝き出すことができるのです。
ヨハネ3:5「イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」
新生とは、人間の決心や決断によって気持ちを入れ替え再出発をするように努力することとは違います。聖書はイエスキリストを救い主と信じ、キリストの御霊を受け、御霊が心に住まわれることによって、初めて人は内側から変化させられると教えています。英語では「ボ−ン・アゲイン」(再び誕生する)と表現しています。
もしあなたが自分自身の力の限界を率直に感じているならば、自分で自分を変えることに疲労感や挫折感を素直に感じているならば、これ以上、無意味な努力をしないで、むしろ、あなたのために十字架にかかりいのちまでも捨ててあなたを愛してくださった、神の御子・イエスキリストにあなた自身を預けてみませんか。救い主イエスキリストがあなたに差し出してくださる御霊のいのちに自らを委ねてみませんか。聖書ははっきりとあなたに約束しています。
2コリ5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。「誰でもキリストにあるならばその人はあたらしく創られたものです」
ローマ10: 11「聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
第3は「終末において新しい天と地を創造し、神の国を完成される」御業です。
この世界はこの世界だけで閉じられていません。この地上の世界はそのまま永遠の世界へと通じて行きます。この世界だけでもし完結しているならば、この世界で満足することが幸福の基準となります。この世界の幸福の基準は、「お金を豊かに持ち、人より上に立ち、自分の思うように生きる」ことに集約されてしまうからです。そしてこの幸福追求のためには手段を選ばず、人を犠牲にしてでも自分が幸福になることを求める人々が多く出てきます。我欲と我欲、エゴイズムとエゴイズムがぶつかり合えば、そこには当然のことながら争い・流血・殺人・戦争が生じてきます。我欲が人間の中心的欲求であるかぎり、この連鎖はエンドレスとなり決してやむことはないと思われます。
かつての私も、この地上の生活がすべてだと思っていた時期がありました。しかし学生時代にクリスチャンとなり、もう一つの本当の世界、永遠の「神の国」があることを知りました。いいかえれば、この地上の世界で生きる人生と永遠の神の国で生きる人生の2つを1つにして「私の人生」だと知ったのです。地上の生活が全てで神の国などはどうでもいいという考えや人生態度は間違っていますし、神の国がすべてであってこの地上の生活などはどうでもいいという考えや生活態度も間違っていると思います。両方とも神が創造されたすばらしい世界であり生きる価値と喜びに満ちています。両方を生きることが私にとって一つの人生なのです。
創造主なる神様は、やがて歴史の中に新しい天と地とを創造されます。聖書の数々の預言が歴史となる時が到来します。神の国は「死んだ人が行くあの世」ではありません。キリストが永遠の王として御支配されるキリストの御国、新しい天の国を指しています。キリストを救い主と信じ、告白したすべての人々は、やがて完成するキリストの御国に「国籍」を有する「国民」とされるのです。
あなたも新しい天と地が創造され、キリストの御手にキリストの王国として渡される時、神の人類に対する永遠の愛のご計画が実現する時、キリストとともに神の国で喜び祝う「国民」の一人とされませんか。この地上の世界は、キリストの永遠の国に向って大きく開かれているのですから。
ピリピ3: 20 「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」
2007年1月1日 元旦礼拝
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