第11日  あふれながれる聖霊のいのち

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、 聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37−39)


イエス様は、仮庵の祭りの最後の日に巡礼者に向かって、神殿の諸儀式に真の救いはなく、「私を信じる者は、心の底から生ける水の川が流れるようになる」と大声で大胆に呼びかけました。かつて、イエス様は町中の人から嫌われ差別されていたサマリヤ人の女性にも同じことをお語りになりました。 「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)と。「私にその水をください」と願い求めた彼女を信仰と礼拝へと導き、彼女の苦悩に解決の道と希望を与えてくださいました。

この二つの呼びかけを総合するとイエス様のみこころが明確になると思います。イエス様を信じるならば、サマリヤ人であってもユダヤ人であっても誰でも、何の差別も区別もなく、心の底から永遠のいのちに至る生きた水が泉となってわき上がり、幾筋もの川となってあふれ流れ出て、心と生活と人間関係を潤してゆく。だから、もう決して渇くことはなく、砂漠のように荒れた心にも、すさんだ心にも、神の平安が満ちるという意味になります。

ヨハネは福音書を書き記すにあたってイエス様のことばを丁寧に説明しました。生きた水とは御霊のことを指し、イエス様がまだ栄光を受けられていないので聖霊はこの時点ではまだ注がれていないと。では、いつ聖霊は注がれたのでしょうか。時間系列でイエス様の約束の成就を辿ってみましょう。

1 約束の御霊

結論的に言えば、ペンテコステの日に、イエス様の約束を待ち望む教会に御霊は注がれました。

@イエス様は弟子たちにもう一人の助け主である聖霊が注がれることを約束されました。

ヨハネ  14: 17 「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

ヨハネ  15: 26 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」

A復活したイエス様が天に帰られる時、イエス様は弟子たちにエルサレムに留まり、父のもとから聖霊が遣わされる日を待ち望むようにと命じました。

使徒1:4「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

B十字架の死から50日目、天にイエス様が帰られて10日後のペンテコステ(五旬節という大きな祭り)の日、ついに聖霊が突如天から注がれ、イエス様の約束が成就しました。

使徒2:2−4「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」

聖霊の注ぎを受け、弟子たちが口々に他国のことばでイエス様の救いのメッセ−ジを語ったことは、異言と呼ばれる特別なことばを彼らが話したと特殊化するよりは、聖霊の力による世界宣教という新しいダイナミックなみわざの進展が予告され強調されているためと考えられます。

そこで、 聖霊の注ぎは、臆することなくイエス様を証しする力として実を結びました。イエス様を3度も知らないと否認してしまったペテロでしたが、聖霊の注ぎを受けて大胆にキリストの十字架による救いを宣教しました。するとその日、三千人もの人々が悔い改めて、ナザレのイエスを約束されていた救い主・キリストと信じ受け入れたのでした。

2 信じた者への神の賜物
ではこの約束の御霊はどのようにして与えられるのでしょう。

「そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」(使徒2:38)

二つの条件が教えられています。悔い改めることと、イエスをキリストと信じ、その告白としてバプテスマを受けることです。悔い改めは個々の罪の懺悔ではなくもっと大きな根本的な生活の方向転換をさすことばです。神様抜き、イエス様抜き、聖書抜きの生活にストップをかけ、まわれ右(ユ−タ−ン)をしてイエス様とともに新しく生きること、聖書の教えを人生の指針として新しく歩むことを意味します。そうした新しい生き方は、古い人に死んで葬られ、3日目に復活されたイエス様の名によるバプテスマを受けた日をもって新しくスタ−トするのです。

聖書は、バプテスマを受けた者は「賜物として聖霊を受ける」と約束しています。この場合の賜物は単数形で表現されていますから「神様からの唯一の贈物、ザ・ギフト」という意味になります。つまり神様からの最大の贈り物を指すことばです。イエス様も言われました。

ルカ11: 13「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」 聖霊はもっとも良い物、最良の贈り物なのです。

クリスチャンであるか否か、それは外側からわかるものではありません。柔和でニコニコしている人が全てクリスチャンであるとはかぎりません。鬼瓦のような恐い顔をしてるけれど、愛に満ちたクリスチャンも多くいます。大切なのは外見ではなく、心の内側のしるしです。キリストの御霊が宿っているかどうかです。

ローマ8:9 「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」

ガラテ4:6 「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」

神の子たちにはキリストのいのち(キリストの御霊)が入っています。生い立ち、教育、趣味、考え方、感じ方が違っても、キリストの同じいのちを受けているから一致が生まれてきます。

世の中では裁判でもめた時など、親子であるか否かの最終判断としてDNA鑑定が行なわれます。遺伝子の中に親子関係のしるしが組み込まれているためそのような科学的な検査を用いることができるのです。父なる神様を「天の父なる神様」と自然に呼びかけ、祈ることができるのは、御子イエス様の御霊を私たちが受けているからです。もしわたしが隣の家の子供から「お父さん」といわれてもびっくりしてしまいますが、自分の子から「お父さん、あのね実は欲しいものがあるんだけれど・・・」と求められればつい財布の紐もゆるんでしまうと思います。

このようにバプテスマを受け、神の御霊を宿しているという事実は驚くべきことであり、これ以上の神様からの贈り物は存在しません。たとえ1億円2億円を積み上げたとしても、聖霊を買うことができず、聖霊は決して与えらません。聖霊は信じる者への神様からの贈り物としてご用意され、ただで受取るようにと無条件で差し出されているのです。あなたもサマリヤの女性のように「私が渇かないように、その水を下さい」とイエス様に今朝、心から願い求めませんか。

3 生きた水が川のように

「永遠のいのちに至る生きた水」の反対はなんでしょう。それは、永遠のいのちではなく滅びに至る水、腐った水、よどんだ水、あるいはいのちを宿さない水といえます。ボウフラがわいていたり、へんなにおいがしたり、濁って汚れている水をだれも飲もうとはしません。非衛生的で健康に悪いと知っているからです。

けれども大人になればやがてお酒をガブ飲みし、砂糖たっぷりのコ−ラ―をガブ飲みし、脂肪でごてごてのラ−メンの汁を最後まで飲み干すのですから体に良いわけがありません。

人間のからだの60%は水からできていますから、地球ばかりでなく人体もまさに「水の惑星」といえます。特に赤ちゃんのからだの80%は水ですから、ほとんどトマトに近いといわれています。しかも摂取した水は全身にある六〇兆もの細胞にくまなくゆきわたり、いのちを支え・生かし・守りますから、どんな水を飲むか、どんな水を補給するかは健康にとってとても大事なテ−マであることはいうまでもありません。

ところで私たちは、体ばかりでなく心の奥底にある魂にどのような水を補給しているでしょうか。体に健康な良質の水が必要なように、魂にも良質な水が必要です。
繰り返し言いますが、いのちの水とはキリストの御霊を指します。キリストの御霊が宿るとき、心の奥底に泉がわきあがり、魂をことごとく満たし、内側からあふれ流れ出て、私たちの生活や人生や人間関係を喜び、平安、愛と感謝で満たしてくださるのです。内側が満たされ変化すれば、外側が違って見えてきます。

今、あなたの魂は乾いていませんか。苦悩していませんか。砂漠のようにカラカラになって、ひび割れしていませんか。恵みの雨のようにキリストの御霊、神の御霊があなたに注がれることが必要ではないでしょうか。

ご存知のようにイスラエルには「死海」と呼ばれる湖があります。私は2000年の3月にイスラエルを旅行し死海の辺で一泊しました。 死海の水は透明度も高く、ホテルの部屋から見渡すとコバルトブル−、エメラルドグリ−ン色に美しく輝きます。死海とはほど遠い美しさです。しかし塩分濃度が高すぎて生命が水中にはまったく存在しません。浮き輪がなくてもからだがぽっかりと浮かぶことができるほどの濃度ですからどんないのちも生存できません。なぜそのようになったのかといいますと、海面下数百メ−トルにある死海は周囲の川から塩分を含んだ水が流れ込ばかりで、死海からっそとに向かって流れ出る川が一つもないためといわれています。死海は美しいけれど巨大な「ため水」であり、あふれ流れ出る「生きた水」ではないのです。ヘルモン山の雪解け水がヨルダン川を通して流れ込むガリラヤ湖とは好対象といえます。

私は死海の辺に立って考えさせられました。見かけがどんなに美しく大きくても、また人々に観光地的なこの世の喜びを与えたとしても、その中には何一ついのちが存在していない「死の海・死の水」もあるのだということを。それゆえ、どの水が人生において最も価値がある「生きた水」なのかを吟味する真の知恵が求められるということを改めて痛感しました。イエス様の御霊は、すべて信じる者にとって「いのちの水」そのものとなって、魂と生活を豊に満たすことができるのです。

「神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、
私たちに豊かに注いでくださったのです。」(テトス36

2007年9月30日 主日礼拝





  

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