先週は静岡県で私たちの教会が所属する「日本バプテスト教会連合の年次総会」が開かれました。長年、宣教師として日本で奉仕をされた宣教師ご夫妻の歓送会がもたれました。私たちは宣教師夫妻の家庭形成や子育ての仕方から多くのことを学ばせていただきました。男性は家庭よりも仕事が中心になりがちで、一方女性は夫よりも子供が中心になりがちな日本の家庭とは異なり、夫婦が一体となって生活する姿には教えられることが多くありました。
今日の聖書箇所となっている箴言は旧約時代の格言集と呼ばれ、古代のヘブル人がどのような人生の知恵をもって生きたかを教えています。箴言5章全体は「結婚に関する教えと知恵」となっています。特にユダヤではモ−セの10戒において「姦淫をするなかれ」(出エジプト20:14)と厳しく戒められています。
「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。」(レビ記20:10) このように結婚関係以外の性関係は罪であり、神の祝福ではなくのろいの下に置かれると戒められていました。したがって繰り返し、箴言においても夫婦の正しい関係や神のみこころに適った家庭生活について教えが記されています。
箴言5章は大きく3つの主題にまとめることができます。
1−6節では、独身者の性の純潔さ。7−14節では、既婚者の性の倫理。15−23節では、結婚生活における性の祝福が教えられています。
このような文脈の中で、「私たちの歩む道はすべてが神の目の前にあり、私たちの歩む道のすべてに神は心を配っておられる」(21)との教えを読んでゆかなくてはなりません。
1 まちがった「性」のとらえ方
性に関してこの世のには、極端な考えがあります。その一つは「禁欲主義」です。性を汚れた不潔なものをみなし、性的な関係を持つことを拒み、独身を高潔で美しい生き方とみなす考えです。生涯、結婚をせず独身ですごす人々も多くなっています。それも一つの人生の選択であり価値のある人生だと思います。しかし、聖書がそのような独身主義を教えているわけではありません。むしろ、聖書は結婚を祝福し、性をいのちの創造主である神からのすばらしい贈り物として教えています。
「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。 地を満たせ。」(創世記1:28)
神が創造された被造物の中で人間だけに生殖に関して祝福のことばが与えられています。性の交わりがただ単に「子孫を残す本能的行為」ではなく、愛を基盤に据えた人格的な行為であることが強調されていることがわかります。
「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」 (創世記2:24)
さて、もう一つの極端な方向は、「フリ−セックス」の風潮です。性を軽く扱い、商品化してしまい、快楽を満足させる道具と見なしてこれを金銭売買するといった性風俗の氾濫や性産業のすさまじいほどの広がりです。日本ではあいかわらず女子高校生や中学生たちによる援助交際が社会問題化しています。彼女たちの性をお金で買う男性たちが多く背後に存在していることが最大の問題といっていいでしょう。彼女たちを教育指導する学校の教師が未成年売春防止法で逮捕されるという時代です。彼女たちは補導されても「誰もきずつけていないんだからなにが悪いんだ」と開き直っているそうで、取り調べをする担当者も返す言葉がみつからないと嘆いています。
文化庁長官をされた臨床心理学者の河合隼雄さんが、この問題に対して「周囲の大人たちがはっきりと、「あなたの魂が汚れるから」援助交際はやめなさいと教えなければならない」と語られていたことばを思い出します。性の営みは、ただ単に身体の問題ではなく、人間の尊厳に係わるもっと深い本質的なことがら(魂)に属することだからです。開放された性のありかたやフリ−セックスは、聖書の教えから逸脱していますが、現代社会においては、すそ野の広い非常に大きな問題ともなっています。
2 家庭に対する神の祝福のまなざし
「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる」
このみことばを結婚生活の教えの文脈の中で学ぶとき、独身者の恋愛関係のありかたや既婚者の結婚生活のありかた、さらに性のありかたも含んだ家庭生活の全てに、神が心をとめておられ、ごらんになっておられ、心を配っておられると理解することができます。
神様は私たちのみじかな家庭生活に深い関心を寄せておられます。このことは、イエス様の最初の奇跡が「カナの村の結婚式」で行われたことからも明らかです。若い夫婦の門出である結婚式をイエス様は最初の奇跡の場とされました。台所に用意されていた宴会用の葡萄酒が飲み干されて底をついてしまった時、招待したお客に失礼にあたると困り果てた母マリアの願いにイエス様は答えて下しました。イエス様は台所に新しく水を汲んで縁まで一杯に水で満たされた6つの大きな水瓶の中の水を「最高の葡萄酒」に変えて提供してくださったのでした。これがイエス様のなさった最初の奇跡でした。死者をよみがえらせたり病気をたちどころに治したり、悪霊を追放するという奇跡に先だって、イエス様は若い夫婦の門出を最高の葡萄酒をもって祝福するという奇跡を行ってくださいました。イエス様のまなざしは新しい家庭の上に注がれ、男女の結婚と性の営みの始まりを豊かに祝福されたのでした。
家庭の生活が守られ、夫婦の性の営みが深められ、子供が与えられ、夫と妻が父となり母となり、新しい家庭を築いてゆく。この一見平凡な出来事こそが、神の最大の奇跡であり、神の祝福であることを私たちは気づいているでしょうか。祝福にふさわしい感謝が神様にお返しされているでしょうか。
3 見えにくい家庭問題だからこそ
一人一人の家庭の中の事柄は外からは見えにくいものです。プラバシ−の問題もあり、周囲の者がうすうす感じていても根ほり葉ほり聞きだすことができません。当事者である本人にとっても外部には言い出しにくいことが多くあります。ことばをかえれば、家庭の中で起きる出来事は隠れてしまいやすいわけです。したがって誰にも相談できず一人で抱え込み、悩んでしまいやすい領域でもあるわけです。周囲が気がつきにくいため、援助の手が差し伸べにくい領域でもあるのです。そのために孤立しやすく、事態がますます悪化しやすい環境に置かれているともいえます。
「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。」
人の目には隠れてしまいがちな複雑な家庭問題と深い悩みだからこそ、「主の目が置かれている」ことに平安を見いだしましょう。主が省みてくださらない家庭などは存在しません。たとえ、人に相談できなくても、神様は心にとめてくださっています。だから今、つらく苦しくても最善へと神様は全てを働かせて導いてくださると信頼しましょう。
4 家族の力を信頼して
家庭の中では夫婦の関係を主軸にして、親子の関係、兄弟との関係、親戚関係、嫁姑関係と複雑な人間関係が織りなされ、まさかと思うような多くの悩みが生じてきます。家庭の中のできごとは「家族の力」で解決するしかありませんから、なによりも夫婦がしっかり連合して解決にあたらなければなりません。ところが夫婦で考えが違ってしまい、対立し、そのことが新しい葛藤になってしまう場合があります。ノンクリスチャンとの結婚の場合には最初から価値観の違いが存在していますから葛藤が強くなることがあります。ではクリスチャン同士の夫婦ならばいつでも考えが一致してるかといえば、そうでもありません。クリスチャンホ−ムであっても考えが異なる場合が多々あります。そんな場合に、どちらが聖書的かと夫婦間で神学論争や宗教裁判を繰り広げ、挙げ句の果てには宗教戦争まで勃発させてしまいかねません。ついに「夫は妻に従うべきだ」と夫が強引に強権発動してしまい、不承不承ながら妻が夫に服従することが生じるかもしれません。
確かに聖書は、エペソ5: 22 「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」と教えていますが、主イエスに「人格上はなはだ疑問」を感じながら、「不承不承」ながら、従うというクリスチャンはいませんから、夫婦の間で「強権発動と服従」という従い方がはたして聖書的で適切かどうかはわかりません。私は「妻は夫に従え」という教えは、「家庭において夫のリ−ダ−シップを敬いなさい」という教えだと理解しています。言い換えれば、家庭の責任は夫の手にあるという夫への重要なメッセ−ジであるといえます。「仕事があるから」「忙しいから」「疲れているから」と言い逃れをしてはならないのです。もちろんリ−ダ−シップを持つことは、何もかも自分が支配することではないことは自明のことです。真のリ−ダ−は他の人を信頼して多くの権限を委ねることを学んでいる人を指します。家庭を守る夫のリ−ダ−シップが養われ、高められ、発揮されるために、時に妻は身を挺してでも夫をいさめることも必要となるのではないでしょうか。それこそが「互いに愛し合う」本物の夫婦の姿と言えます。
クリスチャン夫婦は「二人で一体だから」、生活リズムも考えも感性も全く同じでなければならない、ベットも枕も歯ブラシも1つでなければならないと考えるにはムリがあります。むしろ互いの相違点を多様性と認め、受け入れあい、尊重することが大事ではないでしょうか。自分の考えが正しい聖書的だと一方的に押しつけてはならないと私は思います。
私たち夫婦は次男の「不登校」で悩んだ時期がありました。本人が小学4年生で学校につまづき、登校をしぶりだしてからは無理矢理登校刺激を与えることはせず、家でゆっくり過ごさせ、「巣ごもり」の時を数年間大切にしました。この点では夫婦で一致できました。しかし、少しづつ回復した時に「づれ」が生じてきました。家内は徹底して「本人主体・本人任せ」のスタンスを取り、どこまでも「待つ」という姿勢でした。私は多少の負荷は乗り越えることができる心の強さを養う「社会的なトレ−ニング」は必要というスタンスでしたから、時には厳しくしました。したがって時々、夫婦げんかもしました。今、子供が成人し通信制大学に通って自分なりのペ−スで生活している姿を見ますと、夫婦で考えが違っていてむしろ「良かった」と思っています。対応がどちらか一方になっていたらかえって息子はつぶれていたかもしれません。
両親の考えが違うと子供は当初、混乱するかも知れませんが、ある時期からは自分の考えを育ててゆくことができます。父の考えを取り入れるか、母の考えに賛同するか、両方のいい部分を折衷するか、はたまた両親とは全く異なる第3の考えを見いだすかもしれません。多様な視点を持つことはすばらしいことだと思います。考えは異なっていても私たち夫婦の根底には、「きっと息子は自分の考えで自分の足で立つことができる」という信頼があり、私も家内も、息子を愛している点では一致していました。
すべての点で、夫婦が一致できなくてもそれも豊かさかもしれません。いつものようにキッチンで私はコ−ヒを飲み、家内は昆布茶をすすっています。リビングで家内は文学書を好んで読み、私は実用書を読みます。けれども、祈りの座では忍耐の限りを尽くしてかえがえのない子供の救いのためにお互いが祈っています。
そして私たちは心から信じています。「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。」ことを。
思い煩うことが多く、次々と心配事が波のようにおそってくる現場はほかならぬ家庭です。家庭は確かに「やすらぎの場」ですが同時に「戦場」ともなります。これが私たちが日常生活で経験しているうそいつわりのない実態ではないでしょうか。あなたはテレビドラマで描かれるような万人の理想を投影したような作られた家庭を夢見ていないでしょうか。そのために神が与えてくださった自分の家庭をどこかで否定してしまっていないでしょうか。それは悲しいことです。
どんな家庭であっても、どんな家族関係であっても、主のまなざしは一つ一つの家庭に注がれ、主の祝福はその家族全員に注がれています。それは主が導かれたあなたの家庭、あなたの家族なのです。家庭に主を迎え、いよいよ主に信頼して歩んでまいりましょう。
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなけれ ば、守る者の見張りはむなしい。」(詩篇127:1)
「私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24:15)
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心 配してくださるからです。」
(1ペテロ5:7)
2007年11月25日 主日礼拝
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