神の人モーセの祈り「 主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。」 (詩篇90:1)
今日は「私たちの永遠住まいです」という題で学びましょう。1節は英語聖書(TEV)では「O Lord, you have always been our home.」(あなたはいつもずっと私たちのホームでありつづけてくださいました)と訳されています。たいへん興味深いことばです。神様が私たちの住まいとなってくださるとは、どのような意味でしょうか。
昨年2月に私たち家族は宇治市の南浦にある古屋を購入し6月に引越しをしました。長年、空き家になっていたため汚れや痛みも激しかったのですが、半年以上、住むとそれなりに家も美しくなってきました。建物に人が生活する時、そこは単に建物「ハウス」ではなく「家」(ホーム)という性質をおのずと持ってきます。つまりホ−ムということばは「そこに住む者たちの交わり」の存在を前提にしています。
モーセの時代には礼拝所として「会見の幕屋」と呼ばれた聖所が建てられました。ダビデ・ソロモンの時代には神殿が建てられましたが、神殿は「祈りの家」と呼ばれるようになりました。イエス様も神殿を「私の父の家」と呼んでおられます。祈りを通して神と神の民が交わる場として「家」ということばが用いられていると思われます。考えてみればキリスト教会の教会堂も礼拝の場という基本的な性格と共に、神の家、神の家族の家、交わりが豊かに機能する霊的な家庭(ホ−ム)としての大切な要素を有しています。そして私たちがキリストへの信仰を告白し教会に結び合わされたことは、御互いがホ−ム作り上げる共同作業に携わることを意味すると思います。
1 永遠なる神が私たちの「住まい」である
1節で「あなたは代々にわたって私たちの住まいです」と訳されています。英語では「ホ−ム」という言葉が用いられていましたが、ここで用いられているヘブル原語は、「マオ−ン」つまり「避けどころ、避難所」という意味をもっています。ですからただ単なる「住まい」というよりは、「守られ、保護される特別な避難場所」という意味が込められています。
さらにこの詩にはモ−セの祈りと題がついていますので、出エジプトの出来事と関連づけると「避難所」の意味がいっそうよく理解できると思います。エジプトにおいて彼らの住まいは「奴隷の家」でした。そこには何一つ人間らしい自由はありませんでした。神が遣わされたモ−セによって彼らは過酷な奴隷生活と奴隷の家から解放されたものの、荒野での40年間のさすらいの旅を経験しなければなりませんでした。自然の脅威にさらされ続けた厳しい旅の日々のために、第1日目から神様は「夜は火の柱、昼は雲の柱」をもって保護されました。粗末な仮の天幕を住まいとする生活であっても、神様が大きな火の柱、雲の柱となって保護し続けてくださいました。神様がイスラエルの民の「避けところ」となってくださったのでした。
詩篇 46: 1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
詩篇 91: 9 それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方をあなたの住まいとしたからである。
一方、避けどころと表現されるわけですから、そこには、私たち人間の無力さが前提となっています。聖書は天地を創造された全能なる神、永遠の神の存在を教えていますが、神を知ることは同時に私たち人間がいかに小さな存在であるかを知ることに通じます。人間は土から造られたのだからやがて「土のちりに帰る」被造物に過ぎません。永遠なる神様の前では、地上の1000年もわずか1日に過ぎず、人の命は一瞬の存在に過ぎません。
「あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。」(90:5-6)
そもそも人の命そのものが、一日の命の草花に等しいはかない存在なのです。そのような無力ではかない存在であるからこそ、永遠なる神が「避けどころ」としての住まいとなって下さるというのです。なんと感謝なことでしょう。
2 罪とさばきからの避難所
12節には「教えてください。おのが人生の日々を」とあります。
どんなに健康であったとしても80歳までの人生であるとするならば、残された限りある日々をそのように生きてゆくかをよく考えることが私たちには求められます。あなたはあなたの人生があと6ヶ月と宣告されたらどのように過ごしますか。今までのように考え今までのように生きてゆくと答えることができる人はわずかではないでしょうか。今までの生き方がまちがっているというわけではありませんが、時間が限られればおのずと生き方や人生の価値観つまり人生の質(QOL)を高めてゆくことを真剣に考えるようにならざるをえないと思います。
京阪電車の中で二人の初老のご婦人の会話が耳に入ってきました。ご主人がガンにかかり半年の宣告を受けたそうです。死の宣告を受けると同時にご主人は仕事をさっとやめて、自分がライフワ−クにしていた研究の論文を書き始め、毎日のように書斎に入って執筆し、ついに1本の論文を書き上げたそうです。その後ろ姿を見ていた息子が「おやじはすごい」と、心から父親を尊敬したというお話でした。私はそれを聞いてたいへん感動しました。りっぱにご自分の人生をまっとうされたなと思いました。
さて、生活の質という点からもう一つ考えなければならないことがあります。それはクリスチャンが生活の質を考える際には、もう一つの霊的な構成要素を考えなければならないことです。それは、私たちの罪・咎・罪悪・不義に対する神の裁きにどのように備えるかという要素です。
モ−セはここで祈っています。13節14節を見ると、「立ち帰ってください」「慈しみをもって望んで下さい」とのモーセの叫びが記されています。
ここでは、神様のもとに悔い改めて立ち返ろうと呼びかけているのではなく、むしろ「神様、どうぞあなたが私たちのもとに立ち帰ってください」と懇願しています。不思議な表現ではないでしょうか。モ−セは徹底的に自らを受身の立場に身をおいています。もはや自分たちから立ち上がるなどとはおこがましい。もはや私たちは徹底的に罪の力の前に無力な存在であり、神様から哀れみを注いでいだだき、神様から罪人である私たちのもとへ訪ねて来ていただく以外にもう手がない。ですから「神様、あなたが私たちのもとを訪ねてください」と神様に主導権を明け渡しているのです。
旧約の人々は、罪に対する神の怒りとさばきからの「避難場所」、「安心できる場所」を知りませんでした。ここに彼らの限界がありました。彼らが求めた避難所、それは「罪に対する神の怒り」からの避難所だったのです。罪人の罪は誰によって、そしてどのように赦され解放されるのか、わからなかったのです。そして後の時代には「罪の赦し」という神の恵みの方向ではなく、正反対である「罪を犯さないような人間的な努力の方向」、つまり「戒律を守ることによって救われる」という歪んだ方向へと進んでしまったのでした。
イエスキリストの福音を聞くまでの「生粋のヘブル人、旧約の律法に生きるユダヤ人パウロ」の最大の苦悩もここにありました。戒律を守る道の先には破綻が待っていることを知っていたからです。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ロ−マ7:24)
だれがこの死のからだから救ってくれるのだろうか?と苦悩したパウロでしたが、ついに彼はキリストの身代わりの死、十字架の贖いの中に答えを見つけたのでした。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・ イエスにある永遠のいのちです。」(ロマ6:23)
3 カルバリの丘は永遠の避難所
神は罪深い者たちをあわれみ、神みずから立ち上がって行動してくださいました。御子をこの世に遣わし、御子を身代わりに立てて罪びとたちの罪の刑罰を執行されたのでした。御子はカルバリの丘の十字架にかかり、ご自身の死をもって私たちの罪を償ってくださいました。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4:9-10)
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(1ペテロ2:24)
キリストの十字架の死によって私たちに完全な罪の赦しがもたらされました。罪人にとってイエスキリストの十字架のもとこそが、永遠の隠れ家、避難所となったのです。十字架のもとこそが罪に対する神の裁きから逃れることができる唯一のそして確かな永遠の避難所なのです。
みなさん、落雷が激しい時、どこに避難されますか。私は高校生の時、自転車で下校する途中に激しい空雷に襲われ、死ぬ思いでとにかく自転車をこいで逃げて帰った思いがあります。今、振り返るとたいへん危険なことをしていたようです。落雷時に一番安全な場所は車の中だと言われています。たとえ雷が直撃しても電流が車体を通って地面に流れてしまうからだそうです。
キリストの十字架はまさに神の怒りと裁きが直撃した場所ですが、キリストの十字架がまるで避雷針のようになって落雷の直撃を受け止め、私たちを裁きから守って安全を保証しているのです。
「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」
(コロサイ1:14)
4 キリストが用意してくださる永遠の住まい
今日は詳しくは語ることができませんが、罪の赦しには永遠のいのちの約束がともなっています。罪の赦しを受けたものは、最後の審判の時にも安らかに神の前に立つことができます。キリストによる罪の赦しは神の国に入るためにキリストが発行してくださる「パスポ−ト」ととして絶対的な価値を持っています。あなたは自由に外国へいけるパスポ−トをお持ちですか。そのパスポ−トには有効期限があることをご存知ですか。日本政府が認める有効期限は最大で10年ですね。しかし、キリストが発行してくださるパスポ−トの有効期間は永遠なのです。イエス様ご自身が、十字架の死と復活を前にしてすでに、天の国に、住まいを備えに行くと約束してくださいました。
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14:2)
私の父の家には住まいがたくさんあると、父なる神のもとにはイエス様が用意してくださった永遠の住まいがあることが確かに約束されています。キリストにある罪の赦しを確信したパウロも、天には永遠の住まいがあることを心から喜び感謝しています。
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」 (2コリント5:1)
私たちには地上の家があり、教会という神の家があり、天には永遠の住まいがあります。教会はこの地上において神の家族がともに住む家であり、教会の中心は「イエスキリストの十字架」にあることをこの朝、再確認さしていただきましょう。
キリストの十字架こそが、私たちの永遠の隠れ場であり、 魂の平安が満ちる神が備えられた場所なのです。
2008年2月10日 主日礼拝
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