役員会では今年の年間行事の中に、久しぶりに野外礼拝を計画したいと検討しています。できれば観光バスを借り切って、それぞれご家族や友人を誘って一緒にでかけ、自然の中でメッセ−ジを聞いていただき、良いまじわりができればと願っています。
イエス様は春、眼下にガリラヤ湖が見下ろせる小高い丘に群集を集め、野外で説教をされました。イスラエルでは年に1度だけ春先に1−2週間というたいへん短期間ですが、草花が一斉に咲きだします。ガリラヤ湖畔も緑の草と美しい野の花で覆われます。この時期にイスラエルを旅行をすれば、ほとんどのツア−で、この丘にのぼってガリラヤ湖を見下ろしながら野外礼拝をすることが定番になっています。丘の頂上には山上の垂訓教会という美しい8角形の形をした教会堂が建てられています。私も2000年にイスラエル旅行をした時、ガリラヤ湖上とこの丘の上の教会でメッセ−ジをさせていただいたことをたいへん懐かしくうれしく思っています。
1 思い煩うな
イエス様は群集に向って「何を食べ、何を飲み、何を着るかと心配するな」と繰り返し語りかけました。「メリムナオ-」というギリシャ語は「思い煩い」とも訳されていますが、「心が多く乱れる」ことを意味することばと言われています。貧しい人々にとって「何を食べ、何を飲み、何を着るか」という衣食住に関することがらは、生活上の最大の関心事であったと思われます。そして2000年前も今も、多くの人々が同様に苦悩しています。発展途上の貧しい国々では、毎日4万人の子供たちが飢えと病で死んでおり、その国や地域に住む母親たちにとっては、「子供に今日一日どのようにパンを与え、ミルクを飲ませ、寒さを防ぐ一枚の毛布を与えるか」は、まさに命にかかわる緊急問題でありそのために毎日毎日祈るような思いで生活をしているのです。
裕福な人々の贅沢な悩みとは大きく異なります。彼らはクロ−ゼットの中にぎっしりつるされたブランド品のドレスの中から今日はどれを着てパ−ティに行こうかしら、一流ホテルの高級レストランでディナ−の前には何年産の高級ワインを飲もうかしら、神戸牛のステ−キの焼き具合はレアにしようかミディアムにしようかとぜいたくな「選択肢」の問題で悩むかもしれませんが、貧しい人々は生きてゆく上で思いわずらい苦悩しています。
イエス様はそのような貧しい群衆にむかって「思いわずらう必要はない」と語りかけておられます。実態をわかっていないひどいことばだと反発される人がいるかも知れませんが、私には実にチャレンジに満ちたすごいことばだと思わされています。イエス様は単なる同情で人々に接しているのではありません。今日、食べるにも事欠く貧しい人々の本当の必要を満たそうと向き合ってくださっているのです。
イエス様の話しを熱心に聴く彼らの頭上を飛ぶ小鳥を指して、イエス様は「空の鳥を見なさい。神が彼らを養ってくださっている。ましてや鳥よりもすぐれたあなたがたのいのちを父なる神様がかえりみられないはずがありません」と説得されました。もちろん鳥は鳥で一生懸命、朝から夕方まで餌を捜して飛びまわり、巣を作り、雛を養っています。怠けているわけではありません。ちょっと一服といって休憩している鳥を見たことがありませし、思い煩って頭を抱えている雀やカラスを私はいまだに見たことがありません。あなたはどうですか。どこかの動物園ではメスの熊とうまくいかなくて頭を抱えて悶絶する熊が人気者になっているようですが・・。
イエス様はさらに、群集の足元に群生している野の草花を指差し「一日で枯れてしまう花でさえ、栄華を極めたソロモン以上に神様が美しく装って下さるのだから、思い煩ってはなりません」と語りかけておられます。野の花とはいたるところで一斉に咲き乱れる、赤いアネモネ、白い百合、グラジオラス、チュ−リップなどを指していますが、これらの花は3月から4月に掛けて一斉に咲き出します。しかしもともとはユダヤの国は砂漠の乾燥地帯ですからほとんどが1−2日で枯れてしまいます。ですから住民はこの時期、朝パンを焼くために火力を一気に強める時に、集めたこれらの枯れた草花を炉に投げ入れるそうです。たった1日のいのちの野の花でさえこのように神様はソロモンにまさって美しく装ってくださるのです。ましてや、野の草よりもはるかに尊い存在であるあなたがたを神様が良くしてくださらないはずがありませんとイエス様はやさしく貧しい人々に話しかけておられるのです。イエス様の話を聴く人々はほとんど貧しく、きれいで高価な衣をまとっているような人々はほとんどいなかったことでしょう。イエス様は人々の内的な価値と輝きを見ておられました。
「私の目にあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」(イザヤ43:4)
2 信仰の薄い者よ
イエス様は神様の守りと配慮に気づかない人々を「信仰の薄い人たち」と呼んでいます。この言葉(ホリゴピストイ)は「信仰」と「小さい」ということばが組み合わされた独特のことばで、イエス様が作り出した新しいことばではないかと主張する学者もいるほどです。信じると口先では言いながら、現実の歩みにおいては神様に信頼していない状態をさしています。かれらは不信仰や無神論ではありません。でもその信仰が薄っぺらいのです、あるいは小さいのです。だから「心配したり、思い煩ってしまう」のです。昔から日本語でも「人間が小さい」とか「肝っ玉が小さい」と表現しますが、なにかと心配してしまう傾向が強いのです。心の根っこの部分に「不安」が横たわっている場合、どうしても不安から否定的消極的になり、よく言えば慎重、悪く言えば臆病になってしまいがちなのです。
では、「小さい信仰の人」はどうしたらいいのでしょう。イエス様は「心配するのをやめよ」(31)と命じました。不定過去命令形という強い禁止表現となっています。
「思い煩いや心配」はひきずりやすいものです。「はっ」と気づいたらまた悩んでいる。時間があればあるだけ悩むことにたっぷり時間を使っている。悩むために悩んでいるというような状態に陥りやすいのです。
心配症対策として4つの方法があります。
第一は、常識的なことですが、悩む時間を多く作らないことです。つまり他に意識を集中することを勧めます。せっぱ詰まったことがあればゆっくり悩んでいる時間がありませんのでいつしか悩んでいることをすっかり忘れていることがあります。悩むことよりは淡々と身の回りの作業をこなしてゆくことはとても有益です。
第二は、頭の中でぐるぐる悩まないで、もし悩みだしたら、エンピツと紙を持ち出し、何を悩んでいるのか書き出すことです。もしお金がないことで悩んでいるとしたら、お金がないことで何を悩んでいるのか、お金がないので何が手に入らないのか、それが手に入らないことで何が実際困るのか、その結果どうなるのか、最終的に何を恐れているのか。どんどん直線的に展開してみるのです。そうすることで悩みそのものを客観的に見つめることができ、感情と考えを少し切り離すことができます。その結果、いままで気がつかなかったアイデヤが浮かんでくる場合があります。
第三は、「どうどうめぐりの悩みのスパイラル」に落ち込んでいるなと感じたら、「ストップ」と自分で自分に大声で命じることです。声を出すことがコツです。貧乏ゆすりと同じで、人から「ゆすってる!」と言われるとぴたりと止まりますが、言われないといつまでも無意識でやっています。声を出して意識化することでコントロ−ルすることができるのです。
イエス様は「心配するのをやめよ!」と命じました。「悩むことをやめよ!」とイエス様が命じたのですから、そのまま大声で「復唱」しながら自分に命じてください。イエス様が「思い煩うな」とストップされたのですから「はい」と従うのです。たいへん効果があります。みことばの力をきっと経験できることでしょう。 悩むことは大切なことだと私は思いますから、悩むべき時には十分悩んでもらいます。何も悩まない極楽トンボよりは、悩む人のほうが人間的に豊かに成長します。その思索も人柄も深まります。けれども「過分な悩み」「不必要な悩み」には意味がありません。悩むだけの価値がないのです。ですから、「また悩んでいました。イエス様、あなたのおことば通り、悩むことを今、ストップします!」と大声で宣言してみましょう。私もこの手をしばしば使ってイエス様に助けていただいています。
第四は、もっと積極的で信仰的な方法です。「神と神の国を求める」ことです。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:38)
3 神の国を求める
心配しているその問題そのものをいくら見つめていても、問題が問題を解決してくれるはずがありません。解決してくださるのは父なる神様なのですから。中沢啓介先生が「マタイの福音書注解」の中で、「神と思い煩いとは共存できない」と記しておられます。私の心に残りました。あなたの隣の席には「神様」が座っておられるのか、「心配さん」が座っておられるのでしょうか。「ここにお座り下さい」とあなたはどちらを招いておられますか。わざわざ「心配さん」に席をあけていないでしょうか。神様と思い煩いは同席できません。「心配することをやめなさい」と強く命令されるイエス様とどうして心配や思い煩いが共存できるでしょうか。
「先ず」とありますが、このことばを「優先順位」ではなく「遠近法」の観点から考えてみましょう。「私」と「問題」と「神様」との位置関係を考えてみましょう。もし私と神様との間に問題をおけばどうなるでしょう。小さな問題でも大問題になってしまいます。目の前に10円玉をもってきて近づけると、小さな10円玉でさえ太陽を隠してしまうことができます。小さな問題でさえ大きくなって、神様さえ隠して見えなくしてしまうことがおきてきます。神様よりも大きな問題などこの世界には存在しません。神様よりも巨大な問題を人類が解決できるはずがありません。ですから、神様を通して「問題」をみるという位置関係を正しく保つことが大切になります。 まず、「私」次に「神様」そして最後に「問題」という順番をいつも保ちましょう。
あなたの前にはまず「神様」を置いてください。神様とあなたの間に「問題」をおいてはいけません。いつでも、神様を通してその問題を見ましょう。
「まず神の国を求める」とは、「地上のことはもうどうでもよい」と現実の世界を否定したり現実の世界から逃避することではありません。いうまでもなく地上の生活において果たすべき責任や義務をしっかりと果たすことはクリスチャンとしても社会人としても基本的な努めです。信仰に名を借りて、無責任で非常識な行動を取ることは慎まなければなりません。現実をちゃんと見据えましょう。イエス様が語られた次のことばによっていつも私は支えられています。悩みはあるのです! 消えてはなくなりません。しかし、イエス様は悩みにまさる勇気を与えてくださるのです。これが喜びであり力です。
「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)
「神の国」とはギリシャ語では「神の主権」を指すことばです。天国という一般的概念よりは神の国とは神様の恵みを基調とするご支配を指すという理解をしっかり持ちましょう。すべてのことに神様の主権は及んでいます。神様の主権が及ばない領域はありません。すべての営みの中で神の主権、恵みの御支配、愛の摂理を認めることです。 旧約聖書と新約聖書にそれぞれ記されています。
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5−6)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」 (ロ−マ8:28)
神様の恵みに満ちた愛を知るならば、過度な思い煩いは不要となります。単に心配が心配を招き寄せてるだけなのですから。イエス様は「明日のことは明日が思い煩う」と言われました。このことばはユダヤ人の間で良く知られた格言を用いた可能性が高いそうです。「明日のことは何が起きるかわからないのだから思いわずらうな。あなたは明日生きていないかもしれない。そうすれば自分のいない世界のことで思い煩うことになるのだ」とユダヤ人のサンヘドリン議会書には記されています。たいへん合理的な考え方だと思います。
神様を信じるならば、明日のことは、神様に委ねきることが安心してできます。空の鳥や野の草花をかえりみてくださる天の父なる神様がおられ、私たちを愛して十字架の上でいのちまでも惜しまずにささげてくださった救い主イエス様がおられるのですから、安心して明日の心配はお委ねましょう。イエス様は明日の備えをしてはならないといったのではなく、もうこれ以上思い煩うことをストップしなさいと命じられたのです。イエス様のもとに行って、今日1日の労苦をおろし、新しい力、御霊のいのちに満たされましょう。
「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。 労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:34)
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイ11:28)
2008年2月17日 主日礼拝
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