今日は久しぶりの野外礼拝です。美しいすがすがしい自然の中に身をおくことはすばらしいことですね。2000年前の春、ガリラヤ湖を見下ろす丘の上に人々を導き、イエス様は語りかけました。群集は時を忘れてイエス様の語ることばに耳を傾けました。彼らの足元には春の野の花が咲き乱れていました。
ユダヤの春は短くアネモネを中心とした野の花が咲く期間はわずか4−5日とも言われています。その短い期間に次々と芽が出てつぼみが膨らみ、花がこぼれるように咲くのです。今年4月下旬に家内がイスラエルを旅行した時の写真にはお花畑はもう写っていませんでした。以前私が同じ場所を旅行した4月上旬は一斉に花が咲き乱れ、一面御花畑の状態であったにもかかわらずです。改めて教えられます、いのちある世界は決して長くはないことを。私たちが思っているよりはいのちの世界は短いのです。 詩篇103:15「人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。」
1 人はなぜ悩み思い煩うのでしょう
限られた人生、いのちある短い期間、その時間を「思い煩って」過ごしているとしたら空しいことです。わかっていながら人はなぜ悩み、なぜ苦しむのでしょうか。
第1に、神様を見失っているからです
これを不信仰・罪といいます。傲慢になって神様を忘れ果て、自分が神様のようにすべてをコントロ−ルしようとする態度を聖書は「的外れ」(罪)と呼んでいます。ですから、いいかえれば、神様との交わりを回復することによって人は不要な思い煩いから解放され幸せになることができるのです。
第2は、こうありたいかくあるべきというとらわれが強すぎるからです
こうありたいという願望がいつしか、こうあらねばならないという律法になってしまう時、そうではない現実との間で葛藤が生じ、思うようにならない現実にイラダチや不満を覚えたり、ホンネと建前が分離してしまうような生き方が生じてきます。いいかえれば、我欲から解かれ、神に委ねることを通してままならない人生ですが、それでも自由と平安を得ることができるのです。
イエス様は、民衆を野外に導き、神が創造された自然世界の中で生きる「空の鳥」「野の花」を見させることによってこのふたつの真理を教えようとされたのです。
1 創造主なる神様を知り、その手のみわざを感じよう
今日私たちは、礼拝堂のイスの上ではなく宇治川のほとりの塔ノ島公園の芝の上に座っています。 野の花を見、空の鳥のさえずりを聞き、太陽のあたたかい光を浴び、青空を見上げ、風が川面をわたる音を聞き、春の野山の香りをかいでいます。「考えるな。感じろ」ということばがありますが、今日は十分「感じとりましょう」。「考える」ことが私たちの生きる手段のすべてではなく五感を通して「感じる」ことも、生き生きとした感性豊かな日々を過ごす上では欠かせない大事なことだと思います。
聖書は「神が天と地を創造された」(創世記1:1)と冒頭で創造主なる永遠の神の存在を明らかに示しています。世界万物は神が創造された作品であり、しかも「それはたいへん良かった」と神が満足され喜ばれたほどの完成された世界であったことが教えられています。ですから自然の中に創造主なる神の祝福と恵みの足跡を私たちは見ることができるのです。そして私たち人間もまた神の手によって造られた作品の一つであり一人一人が神様にとって最高傑作なのです。
イザヤ43:「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
マタイ6:30「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」イエス様は全世界中の花を寄せ集めても、あなたの高価さには及ばないことを知っておられ、そんな価値あるあなたに対する天の父なる神様の備えと装いは十分であることを教えて下さっています。
「空の鳥・野の花を見よ」「そしてわきまえよ」とイエス様は言われました。考えることは悪いことではありません。しかし、考える前に、よく観察し感じ取ることを忘れてはなりません。偉大な真理の数々は実験室の中の数字から生み出されたものではなく、自然をよくよく観察する中から生まれました。リンゴが落ちる姿からニュ−トンは万有引力の法則を発見しました。イタリアのパレ−ドという社会経済学者は蟻の集団を観察する中から「2−8理論」を見出したといわれています。思考力は観察力と切り離すことができないのです。観察すること、そして感じることの大切さを生活の中に取り込みましょう。
カウンセラ−として悩みを抱える人と出会ってお話を聴いていると、余っている時間のすべてを悩むために使っているすがたを観察できます。頭の中でぐるぐると堂々巡りを始め、悩みを考えるために多くの時間をつぎ込んでいることに気づかされます。悩むために悩み、悩みを考えるために考え続ける・・・これでは脳がエネルギ−切れを起して疲労困憊してしまいます。適切な解決策を考えることができない状況を自分から作り出してしまっていると思わされることがよくあります。
部屋から外に出て美しい自然の風景を静かに見渡しましょう。青空を見上げましょう。目を閉じて、光を感じ、風を感じ、手で土を触り、自分の呼吸を感じ、心臓の音を感じましょう。私たちは「生きているのではなく」生かされているのです。天地を創造された父なる神によって。自然に身を置き、創造主なる神の愛を「考える」のではなく「感じて」ください。
2 野の花、空の鳥はありのまま生きています。
創造主の摂理の中でありのままに花は咲き、鳥は生きています。イスラエルを旅行したときにガイドさんから聞いたお話しを忘れることができません。一斉に春に咲き乱れる野の花アネモネは、実は冬に雨が降った地域だけに咲くのです。もし雨が降らなければ次の年を待つことになります。何年でもただひたすら雨が降ることを待ちます。風の吹く向き具合で道路ひとつ隔てたら雨がその地帯には降らないということも起こります。赤茶けた砂漠のままとなります。しかしアネモネはだからといって腹を立てたり、不満をぶつけたり、いらだったりはしません。風と雨にすべてを委ねています。そして冬に雨が降ったのならば、精一杯花を咲かせそのいのち輝かせその香りを放ちます。いのちが短いことを知っているから、与えられた環境、与えられた時間、与えられた存在を精一杯生きようとします。 だからそこには後悔はありません。
天地を創造された神様は「あなたがたの天の父なる神様」であるとイエス様は弟子たちに教えてくださいました。イエス様は民衆に向って「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」と、神様がつねにご配慮してくださり、必要を満たしてくださるのだから「思い煩う必要はありません」とはっきり教えてくださいました。
してみると、私たちが思い煩うことの多くは「必要なこと」で悩んでいるというよりは、「必要以上のことを求めて」悩んでいることになります。必要以上のことを求めることを「欲」といいます。悩みは我欲なのです。ですから、「与えられたものに感謝する」ことで解決することが多くあると思います。
「かくあるべきだ、こうでなければならない」「こうであって当然だ」と、私たちは多くのことにとらわれています。こだわりを捨ててすなおに生きてみることもすばらしいことです。神様に委ねるとはそのような生き方を指しています。野の花がありのままに生きているように、天地を創造された父なる神様にすべてを委ね、与えられたものに感謝し、すなおに生きてみることできっと新しい視点があなたの中にうまれることでしょう。
なくてならないものは多くはありません。「まず神の国と神の義」(創造主なる神様との正しい関係)を求めましょう。創造主なる永遠の神を思い、神様の存在を五感を生かして感じ、神様の守りを信じ、安心して委ねきって、ありのまま素直に生きてみませんか。かけがえのないあなたの大切な日々を。
2008年5月18日
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