7月22日(日)の午後、南京都地区にある7つのキリスト教会が協力し合って主催する第3回「ジョイフルコンサ−ト」が開かれます。約100名近い近隣諸教会のクリスチャンたちが集い賛美をささげますのでみなさんどうぞお越しください。どの顔にも大きな喜びが満ちあふれており、クリスチャン生活と賛美は切り離せないものだなと改めて思わされています。
「詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」 (コロサイ3:16)
音楽の起源は古く、創世記4章21節ですでに、アダムの子カインの子孫ユバルが「立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった」と記されています。古代世界に音楽のプロが存在しており、賛美が人々の心にも満ちていたことを思うとき、音楽は神様から人類への贈り物だと思わされます。だから人々は昔からうれしいときもかなしいときも歌を口ずさみながら人生を歩んできたのです。今朝、私たちはワ−シップ礼拝をささげますが心から賛美を主イエスキリストに向かっておささげいたしましょう。私たちの主イエスキリストこそ「ほまれと栄光と賛美を受けるにふさわしいお方」(黙示録5章12節)なのですから。
1 苦しんでいる人がいますか、祈りなさい。
聖書は様々な困難な問題や病気や障害で苦悩する人々に「祈りなさい」と教えています。苦しむ人はつぶやきがちになります。「どうしてわたしだけが」と自分の置かれた境遇を嘆き、自分の過酷な運命をのろい、時には周囲の人々に心ならずも八つ当たりしてしまうことがあります。過去の不摂生や自堕落な生活が原因で健康を害してしまったような場合には「どうしてあんな愚かなことをしてしまったのか」と自分を激しく責めることもあります。
聖書の中に一例を見ることができます。現代風に表現すれば、ミネラルを豊富に含んだ間欠泉がわき出る温泉に病気の癒しを求めて人々が湯治に訪れるように、ベテスダと呼ばれる地下に掘られた池のほとりに多くの病人が奇跡をもとめて横たわっていました。イエス様は彼らのもとを訪ね、病気で足が不自由になり38年もの長い期間、苦しんでいた人に近づき、「治りたいのか」と尋ねました。すると彼は「誰も池の中に私を入れてくれる人がいないのです」と身の不遇を嘆き、周囲の仲間はみな冷たい人間だとばかり非難しました。彼は「治りたい」という希望を失っていたのです。希望を失った者はしばしばつぶやきや不満ばかり口にすることで心の均衡を保とうとする傾向があります。
聖書は私たちが信じる神が「希望の神」でることをはっきりと教えています。
ローマ15: 13「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」
私たちの神は「望みの神」なのですから、希望を失うことは神様を失うことと同じです。また、望みの神を見失ってしまう時に、私たちは希望そのものさえ見失ってしまうです。私たちが信仰の父と仰ぐアブラハムは99歳にもなって子供が妻から生まれないにもかかわらず神の約束を疑わずに信じました。「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。」(ロ−マ4:18) これがアブラハムの信仰であり、神はアブラハムのこの信仰を義と認められたのでした。信仰によって私たちは「望みの神」にしっかりとつなぎとめられるのです。信仰が私たちを希望の神としっかり結び合わせてくれるのです。だから聖書は私たちを励ましています。
ローマ
12: 12 「
望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。」
イエス様のお弟子であるヤコブは、「苦しんでいる人がいますか、その人は祈りなさい」と教えました。このことばを、祈るならば神様が祈りに応え、問題を解決してくださると理解するならばそれは表層的な理解だと私は思います。もちろん神様は私たちのどんな祈りにも耳を傾け豊かな哀れみを注いでくださる恵み深いおかたであることは言うまでもありません。しかしながら、祈りは問題解決のための手段やツ−ルではなく、祈りは私たちと希望の神をつなぐ唯一の橋であることも理解しなければなりません。そうでなければ祈りが応えられない場合、祈りに応えてくださらない神様を恨んでしまったり、神様が私を見捨てられたと自己否定したり、祈りが足りないからだと「行いの信仰」へ進んでしまうことさえ起こりかねません。苦しむ人に必要なのは、問題の解決そのものである以上に、望みの神ご自身をしっかりと苦難の中に見いだすことではないでしょうか。希望の神に向って祈ることを回復することではないでしょうか。祈りは私たちが信じる神が「望みの神」であることを新たに思い起こし、祈りが地上で苦しむ私たちと恵み深い神とをつなぐ希望の「橋」となっていることに気がつくのではないでしょうか。
祈りによって神に希望を置くことを学んだ多くの人々がいます。一般の人々にも詩集が愛読されている星野富彦さんもそのお一人ですね。重度の身体障害そのものは祈っても祈ってももはや回復は望めません。しかし星野さんの希望は地上の希望を越え天の希望に信仰によって結びあわされています。天にある希望とは、復活の希望であり、永遠のいのちを受け継ぐ希望であり、キリストの御国に住む希望です。神は決して朽ちることのない永遠の資産を受け継ぐという大きな希望を星野さんに与え、彼の魂を輝かせ喜びを増し加えてくださっているのです。
1テサ
4: 13「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたその ように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。」
2 喜んでいる人がいますか神を讃美しなさい
さて、喜んでいる人は何をしがちでしょう。悲しんでいる人がそばにいることを忘れがちです。神に感謝することをいとも簡単に忘れてしまいがちです。そして達成した成功と満足のゆえに神ではなく自分を誇りがちです。
聖書の中に例を捜すことができます。ユダヤにもサマリヤにも居場所を見いだすことができず国境ぞいに住むことしかできなかったハンセン氏病の患者たちの集落がありました。病気と社会的差別を受けて苦しんでいた10人の患者がイエス様によって奇跡的に癒されました。完治を証明してもらうために祭司のもとへ大きな喜びをもって駆け出しました。しかし感謝の祈りをささげるためにイエス様の元にもどってきたのはただの1人でした。「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」(ルカ17:16)と聖書はそのようすを記しています。残りの9人はもうすでに感謝の心を失ってしまっていたのでした。
喜んでいる人は喜びぱなしではいけません。救い主イエスのもとに戻り、神を讃美し、感謝することを忘れてはなりません。神は祈りに答え私たちに喜びをもたらしてくださいます。神は見返りを求めてはおられませんが、望んでおられることがあります。それは神への賛美と感謝です。
賛美と感謝は礼拝の中心でもあることを覚えましょう。神の恵みをいただき喜んでいる人はイエス様の足元にひれ伏すことつまり礼拝を決して忘れてはならないのです。「あとの9人はどこへ行ったのか」とイエス様は神の恵みをたやすく忘れ、人間中心の世界へ飲み込まれてゆく罪人の姿を悲しまれました。恵みを受けている私たちもまた、イエス様のもとに賛美しながら帰ってきた10人の中の「ひとり」であり続けたいと願います。
病が癒される、問題が解決する、自分の願いがかなえられる、それがすべて救いになるとはかぎりません。イエスのもとにこなければ病気からの回復はあっても、「罪の赦し」はありません。罪の赦しを受けたものをイエスは神の御前に導き、「賛美と感謝の生活=礼拝生活」へと招いてくださるのです。
1テサロニケ5:16−18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と記されていますが、「これが」と単数形で表現されているのは、「喜び・祈り・感謝」は切り離すことができずいつも1セットになっていることを教えるためです。さらに、「すべてのことについて」ですから喜ばしいことばかりでなく辛く悲しいことの中にも感謝を見いだすことを教えています。なぜならば感謝することは喜びの中にも辛い中にも同じようにあるからです。ただ私たちが「感謝を探し出すことが上手じゃない」ために辛いことの中にうまく感謝を見つけだせないだけなのです。
昔、結核で長い闘病生活を余儀なくされた方の証をきいたことがあります。夜眠るとそのまま永遠の眠りにつきそうでこわくてこわくて眠ることができない。疲れ果てて眠ってしまった時はおそるおそる朝、目を開くそうです。いつもと同じ部屋のいつもベットから見上げている天井だとわかると「ああ、今朝も生きて迎えられた」とほっと安堵するそうです。無事、朝を迎えることができた、こんな当たり前のことでさえ大きな大きな感謝となるのです。朝、目覚めたらそばに夫がいる、妻がいる、どんなに見飽きた顔であってもこんな幸せはないのです。感謝することがないと不平をこぼす前に、感謝することを見つけることが上手じゃない自分自身を振り返ってみましょう。そうすれば小さなことの中に大きな感謝を、平凡な事柄の中にスペシャルな出来事をきっと見いだすことができるのではないでしょうか。
喜んでいる人がいますか、その人は神を讃美しなさい
もう一度、今朝賛美をささげたいと思います。十字架の身代わりの死をもって私たちの罪を赦し、永遠のいのちの希望へと招いてくださった主イエスキリストの前にひれ伏し、賛美と栄光をささげようではありませんか。彼こそ賛美を受けるにふさわしいお方なのですから。
「彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと 栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」(黙示録5:12)
「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる くちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(ヘブル13:5)「また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい 者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」(黙示録19:5)
2007年6月24日 主日礼拝
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