先日、慢性リュウマチのために4度目の手術を受ける信徒さんを病院に見舞いました。帰り際に、「牧師さん、だいじょうぶですよ。イエス様におまかせしていますから」と笑顔を見せて玄関まで見送ってくださいました。「がんばります!」「我慢します」ではなく、「イエス様にお任せしてますから、大丈夫です」とは何と平安に満ちたことばでしょう。このようなことばを心に与えてくださるイエス様を見上げて感謝しました。
今日の箇所は、聖書の中の福音と呼ばれているヨハネ3章16節の前段部分の箇所となっていますが、イエスキリストの十字架の救いを理解するためには、しっかりと押さえておかなければならない大切な聖書箇所だと思います。
1 誰も天にのぼったものはいません
天に昇ったものは誰もいません。ここに聖い神と罪人である人間の明瞭な区別があります。永遠の神と有限な人間の境界線が引かれています。創造主なる神様と被造物、全能の神と無力な土の器にすぎない人間との越えられない一線が存在しています。
イエス様も「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」(ヨハネ3:6)と、はっきりとこの「聖なるバンダリ−」(境界線)について語っています。
私たち日本人は「人は死んだらカミ・仏」になるという漠然とした宗教観を抱いていますから、「人は人、神は神」という峻別に対しては抵抗感を覚えると思います。そもそも佛教用語である「仏」とは生きている間に修行を積み、この世の我欲・我執・執着から解かれて涅槃の境地に達した「悟りを得た者」(覚者)を指すことばですから本来、死者や神を指すものではありません。日本人は「神様を作り出す名人」ですから、生きている人まで神様に祭り上げてしまい、川上巨人軍元監督は野球の神様、松下幸之助は経営の神様と呼ばれ、演歌歌手の三波春男さんはとうとう「お客様は神様です」とまで言い切りました。これからどれだけ多くの神様が誕生するかもしれません。
聖書は、人が神になることも、人と神とが混じり合うことも認めていません。人は人であり、永遠に神は神であることを教え、その境界線を明確に示しています。私たち現代人は特に、聖なる方を聖なるお方として、「畏れ、崇め、敬う」ことを謙虚に学び、聖なる神の御前で「おそれおののきひれ伏す」という礼拝の心を回復する必要があると思います。
信仰の父と仰がれるアブラハムは、神様の導きを受けて、信仰によって行き先を知らずに約束の地を目指して出発した「信仰」の人でした。と、同時に彼は神を恐れる人物でした。モリアの山で一人息子イサクを神への供え物としてささげよとの命令を受け、山頂でまさに我が子にナイフを振り下ろそうとしたときに、「わらべに手をかけてはならない。あなたが神を恐れる者であることが分かった」(創22:12)と神はアブラハムをとどめました。信仰の人であるアブラハムは「神を恐れ敬う人」であったことを忘れてはなりません。
モーセが神様から二枚の石の板に刻まれた十戒を神様から頂いた時、その目的がはっきり告げられました。「世に生きながらえる日の間、常にそれを自分のもとに置いて読み、こうしてその神、主を恐れることを学び、この律法のすべての言葉と、これらの定めとを守って行わなければならない」(申命記17:19)
聖書は神様からの「愛の手紙」と呼ばれ、神の愛の大きさ真実さ深さを伝える手紙ですが、聖書は同時に私たちが神と人間の違いを明確に知り「神を恐れ敬う」ことをへりくだって学ぶ手紙でもあるのです。
「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。」
(箴言1:7)
「少しの物を所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる。」 (箴言15:16)
「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」(箴言29:25)
神を恐れなければ、人を恐れるようになります。人を恐れていれば不安が心を支配します。しかし、神を恐れ敬う者はいつでもその心が神の平安で満たされる幸いに招かれます。
2 天から下った方がいる
人が境界線を越えて天の世界に入り込むことは許されていません。しかし、神が人となってこの世界にただ1度だけ下って来られました。おとめマリアを母として聖霊によって身ごもり、神の御子がベツレヘムの家畜小屋の飼い葉おけの中にお生まれになったというクリスマスの出来事です。決して超えることができない境界線を神様のほうから越えて、私たちの世界に来られました。失われゆく罪人を愛する神の愛の真実さのゆえでした。
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:6-8)
神の御子は、天の栄光の全てをかなぐり捨てて、無になり裸になり、この地上に降り、マリヤとヨセフと若い夫婦の手の中にご自身を委ねられました。御子の降誕は、罪のゆえに失われゆく私たちを神が憐れみいとおしみ、最大の愛を示してくださったしるしでした。
ヘブル人の手紙の中でキリストの十字架の死の意味について解説がなされていますが、「ただ1度」ということばがキ−ワ−ドになっています。ただ一度とは、それが特別なミッションであったことを指します。神の永遠のご計画に基づいた特別な使命、特別なみわざを指します。また、ただ一度とは、何度も繰り返す必要がない完全性を意味します。キリストの十字架の贖いは完全であり、繰り返す必要も付け足す必要も全くない十分なものです。さらに、ただ1度とは、それが決定的な出来事であることを意味しています。
「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)
「もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」(ヘブル9: 26)
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(9:27)ヘブル人の手紙は「一度」ということばを人間の死と死後の審判の決定性・確実性にも使用しています。人は必ず肉体の死を迎え、神の審判の御座の前に立ち、自らの人生の総決算書を報告して神に言い開きをしなければなりません。天の法廷ではいっさいの嘘、ごまかしは通用しません。すべての言動が神によって正確に記録されているのですから、すべての事実が明らかにされます。その時、あなたは神と天の会衆の前で、「自分には罪は何一つない。自分は完全で真実である」と胸を張って言い切れるでしょうか。神の御子キリストの弁護なくして、キリストの十字架の罪の赦しなくして、その審判の座に立ち続けることができるでしょうか。神と人とは異なります。聖なる神に罪ある人間はそのままでは近づくことはできません。この境界線があいまいになってしまうと、キリストの十字架の赦しの恵みの大きさもあいまいになってしまいます。神の御子が「ただ一度」人となってこの世界に来てくださったという恵みの持つ重さをじっくりと味わいたいものです。
3 神の右にあげられたお方
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」 (3:14-15)
ヨハネは、神と人間の聖なる境界線について語り、その境界線を突破して神が人となって来られたキリストの誕生を示し、さらにキリストの十字架の贖いについて語ります。
民数21:4−9を読みますと、モ−セがエジプトの奴隷生活からイスラエルの民を解放し、先祖の地カナンに帰るまでの40年間の荒野の生活時代に、イスラエルの民は三度、モ−セにつぶやき逆らったことが記されています。三度目のつぶやきは朝ごとに神が用意してくださったマナにもう飽きた、「こんなみじめな食べ物に飽き飽きした」というつぶやきでした。毎日1日もかかさず提供され続けた神の恵みでさえ、「こんな惨めなもの」と激しく非難しつぶやきました。神の恵みを私たちはいかに忘れやすく、そして恵みを恵みと感じなくなってしまうことでしょう。神の恵みを過小評価することは、それだけ自分がいつしか尊大で傲慢になっていることにほかなりません。信仰的傲慢さはクリスチャンが犯す大きな罪です。キリストの十字架の赦しを疑う罪、神の恵みを軽んじる信仰的傲慢さ、愛を忘れた罪は、未信者ではなくクリスチャンが犯す3つの大きな罪であることを覚えましょう。
神は燃える蛇(毒蛇)を荒野に放ち、毒蛇にかまれて多くの民が死にました。神はモ−セに「青銅で蛇」を鋳り、竿の先につけ、民の頭上に高く掲げ、毒蛇にかまれた者も「仰ぎ見る者は生きる」と語りました。毒が全身に回ってもモーセのことばを聞いて信じ、彼らの頭上に高く掲げられた青銅の蛇を仰ぎ見たものは救われ命を得ることができました。
このできごとは、キリストの十字架の救いを予表しています。都エルサレムの郊外の小高いカルバリの丘、そこに高く立てられた3本の十字架の真ん中に、キリストは釘づけにされました。イスラエルの群集の頭上に高く掲げられた十字架上のキリスト、このお方こそが、人類の罪をその身に背負って身代わりの死の刑罰を引き受け、永遠の赦しをもたらしてくださった贖い主、救い主でした。キリストの十字架を仰ぎ見る者は、罪の赦しと永遠のいのちを得ることができることを神はご計画し約束してくださったのです。
「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、
いやされたのである。(1ペテロ2:24)
十字架で死なれ墓に葬られたキリストは、3日後に復活され、カルバリの丘よりもさらにはるかな天の栄光の御座に王として着座されました。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)
このような神の御子の誕生と十字架の死、そして栄光に満ちた復活を通して、イエスキリストを信じ仰ぎ見るものは、滅びることなく永遠のいのちを持つことができると、ヨハネは世界最大のグッドニュ−ス・福音について簡潔に力強く書き記したのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
私たちの現実的なクリスチャン生活も決してパ−フェクトなものではありません。時にはつぶやき、時には神様に不満をもらし、時には神様に背くこともあり、罪を犯してしまいます。しかしそのたびごとに悔い改めて、十字架のキリストを仰ぎ見させていただきましょう。カルバリの丘に高く掲げられた十字架を仰ぎ見るものは生きることができるのですから。
「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、 神の力である。」(1コリント1:18)
2007年7月15日 主日礼拝
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