イスラエルの将来と希望
2001/4/10
宇治バプテストキリス教会牧師 小出 隆
<目次>
序章 | イスラエル国家の誕生−聖書の預言の成就か−私の基本的な立場 |
1章 | イエスキリストの預言−神殿の滅亡と再興−神殿祭儀からの決別 |
異邦人によるエルサレム支配−選民の召集−オリ−ブ山への再臨 | |
2章 | 使徒ヨハネの預言−キリストの再臨−キリストの王国−メギド平野 |
サタンの束縛−千年王国−御座の裁きと永遠の神の国−新しいエルサレム | |
3章 | 使徒パウロの預言−ユダヤ民族回復 |
4章 | 旧約聖書の預言者−イスラエルの回復−国土の繁栄−エルサレム復興 |
神殿の復興−約束の地の相続 | |
結び | イスラエルの霊的回復の為に、私たちができること−祈りと愛と正しい情報 |
<序章>
エルサレムの黄金の門
T イスラエル国家の誕生
1948年5月14日、イスラエル国家はパレスティナの地に国家を樹立した。紀元70年にロ−マの将軍ティトスによってエルサレムが陥落され、ユダヤ国家が滅亡して以来、およそ1900年の歳月をへて、再びユダヤ民族は不死鳥のように国家を再興する事ができた。世界に離散したユダヤ人たちが約束の地に帰還するようになったのは、1880年頃、ロシアの迫害を逃れたユダヤ人を中心とした帰還運動がその始まりであった。以来120年間、アリア−(上ってゆくこと・移住)と呼ばれる帰還運動を通して大量のユダヤ人が移住し続けている。現在イスラエル共和の人口は約615万人、世界中のユダヤ人の1/3が住んでいる。1年で約13万人が増加し、今なお毎月5−6000人が帰還している。1948年の建国以来、イスラエル人口は6倍になった。シャロン・イスラエル首相は「今後12年間にわたり、離散先から100万人のユダヤ人をアリア−(帰還)させることを目標とする」と移民政策を積極的に推進することを表明している(BPFハイナイト2001年4月号)。
人口ばかりでなく、国家としての領土も特に1968年の第3次中東戦争によって拡大した。1947年にイギリスからバレスティナ統治を委託された国際連合はパレスティナの地を人口比率に応じてユダヤ人国家とパレスティナ人国家に分割し、エルサレムと周辺都市を国際連合の管理地区にするという「パレスティナ3分割案」を総会において採択した。この決議でイスラエルに割り当てられた地域はバレスティナの全土の57%であった。独立戦争で勝利したイスラエルはパレスティナの2/3を支配下におくこととなった。さらに、1968年の第3次中東戦争においてもイスラエルは圧倒的な勝利を収め、シナイ半島、地中海沿岸のガザ地区、ヨルダン川西岸地区、北のゴラン高原を含むパレスティナ全土を支配下に置くこととなった。最大の出来事は、神殿の丘を中心とするエルサレム旧市街をヨルダンから奪還し、管理下におくこととなったことである。こうして1900年ぶりにエルサレムがイスラエルに戻ったのである。イスラエル政府は直ちに法律を整備して東エルサレムを統合し、エルサレムを「統一された首都」と宣言をした。アラブ諸国は独立戦争後の休戦ラインまでの完全撤退を要求し、国際連合は東エルサレムの併合に対して反対決議を採択したが、イスラエルは「67年戦争の占領地からの全面撤退はあり得ない。防衛上も必要な地域を手放さない」ことを国家の基本政策としている。
第3次中東戦争の大勝利により領土が拡大し、エルサレムを奪還したことによって強い宗教的民族的覚醒が置き、獲得した「イスラエルの地」はもともとユダヤ人のものであり、1センチたりとも領土を放棄する必要はないとの「大イスラエル民族主義」が台頭するようになり、イスラエル主義に立つリク−ド政党が勢力を伸展させ、1977年にはついにベギン首相率いるリク−ド党右派政権が誕生するまでに至った。さらに約71万人と推定される46年の難民、約39万人と推定される68年の難民が今や約300万人に膨れ、未解決のまま国際問題となっている。バレスティナ自治政府とイスラエル間の和平交渉は行き詰まり、膠着状態が続き、緊張が高まっているのが現在の姿である。
U 聖書の預言の成就か否か
1800年代後半から始まったユダヤ人のパレスティナ帰還、1948年のイスラエル国家の樹立、1968年のエルサレム奪還、これらは聖書の預言の成就とみなしてよいのだろうか。それとも聖書の預言とは関係がない国際政治上の軍事行動とその結果にすぎないのだろうか。多くのクリスチャンがこれら一連の出来事を預言の成就と結びつけているが、その理解にはニュアンスの違いがある。
たとえば、1968年の第3次中東戦争によってイスラエルは神殿の丘を含む東エルサレムを占領し、統一エルサレム宣言を出したが、これは「異邦人の終わりの時」(ルカ21:24)の成就であると信じる、クレランス・ワ−グナ−師などの立場(イスラエルテ−チィングレタ−2000年11月号 エルサレムの重要性を理解するための「15の鍵」)がある。いっぽう、現在のユダヤ人の移住は、彼らがキリストを受け入れない不信行な民であるがゆえに、彼らの集結をパレスティナ契約(申命記30:4−6)の成就ととることは誤りであるとする山岸登師(「いつキリスは再臨されるか」p58)などの見解もある。また、「確かに現代は預言が成就しつつある時代といえるだろう。しかし、イスラエルの建国は終末時代における神の人類救済のドラマのほんの始まりにしかすぎない。これからさらにすばらしいことが起ころうとしている」と期待する中川建一師(「エルサレムのために祈れ−続ユダヤ入門−」p15)などの立場もある。
どのような立場をとるにしろ、一致している重要な中心点がある。最も希望に満ちた預言の成就は「主の再臨」であり、私たちは立場を越えて、みな大きな希望を抱いて「主の再臨」を待ち望んでいることである。
3 私の基本的な立場
この小考察を書き進めるにあたり、まず私の基本的な理解を述べたい。
1)終末に関する預言の確かな始まり
イスラエルにおけるこれら一連連の出来事は「終末に関する預言の始まり、しかも確かな始まりである」との信仰的立場を私は表明したい。聖書の終末に関する預言の「成就の入り口」に立っていることは確かである。終末におけるキリストの再臨と御国の完成という究極の預言の成就に向けて、大きく歴史は動き始めたと理解している。終末に関する預言のゴ−ルがここにあることをしっかりと見据えないと、「木を見て森を見ず」となり、全体像から離れて細部に首をつっこむことになりかねない。
「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。わたしは、北に向かって『引き渡せ。』と言い、南に向かって『引き止めるな。』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ」(イザヤ43:5−6)
私は、1880年代からのア−リア−運動のうねり、ヨ−ロッパ諸国とアラブ諸国連合が緊張をはらんでいた国際政治情勢下でイスラエルがバレスティナに国家を樹立するまでの過程、1948年のイスラエル国家再建、対アラブ戦争を通しておよそ1900年ぶりに神殿の丘を含む東エルサレムがイスラエルの支配下に置かれたプロセスなど、神の御介入がなくしてはありえない奇跡的御業の連続であったと信じる。そして歴史を御支配される主権者なる神は、ご自分の民イスラエル民族を基軸にしながら終末における神の国の完成に向けて力強く働き、これを導き、時を刻まれていると信じる。なぜなら、イスラエルに対する神の約束と賜物は不変であり、神の契約は決して捨て去られることはないからである。
この神の契約の不変性は、私たちの救いの確実性とも結びついている。なぜならキリストにある私たちの永遠の救いの根拠もまた、この神の真実さにあるからである。
「わたしの恵みを彼のために永遠に保とう。わたしの契約は彼に対して真実である。」(詩89:28)
2)預言を解釈する場合の謙虚さ
私は、聖書信仰に立つ一人として、「ある特定の歴史的出来事をある聖書箇所の預言の成就であると断言する態度」は、慎まなければならないと考えている。聖書預言の解釈に対して私たちは常に謙虚でなければならない。聖書の権威に服する従順さがここにあると思う。
1968年の中東戦争の大勝利と神殿の丘を含む東エルサレム奪還が、「異邦人の時の終わり」つまり「異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」(ルカ21:21−24)という預言の成就であると理解する指導者たちも多くおられるが、私はそのように断言することには同意できない。繰り返すが年代的な事件と聖書預言を結びつけることには慎重でなければならないと思っている。預言は必ず歴史が証明する。それは私たちの確信である。
預言の解釈と理解にはいつもある種の危険性が伴う。たとえばもし、異邦人の時が終わったのだから、現実的な異邦人の支配をエルサレムから政治的あるいは軍事的に完全に排除しなければならない、それが神の御心に仕えることだと主張したり錯覚してしまうならば、それは「預言の誤用」という危険に陥ってしまうことになりかねない。神のことばがそのように政治的に利用されては決してならないと思う。
3)聖書の真理とイスラエル民族主義と区別する感覚を持つこと。
クリスチャンである私たちがイスラエルを理解しようとするとき、聖書が示す真理と、宗教的・政治的イスラエル民族主義とは区別する必要があると思う。イスラエル政府の政治理念、対パレスティナ対策、イスラエル国会内の政党間の駆け引き、イスラム原理主義と相対するようなイスラエル原理主義の台頭などの現実をしっかりと見据える政治的視点がクリスチャンには必要である。イスラエル民族は過去の悲劇的な歴史を背負っている。そして今も現実にアラブ諸国に包囲され、平和は武力で守らねばならないとの強い防衛意識を持ち、国家予算の多くが軍事費に計上され、徴兵制が徹底している国である。国民生活はテロリストに対する緊張関係の中に置かれており、政治姿勢はタカ派的と言える。国内の政治的基盤も不安定で、難しい政局運営をどの歴代首相も強いられている。
神殿の丘はいぜんとしてパレスティナの管轄下にあり、エルサレムを国連管理下に置くと採択された国連議決は効力を失ったわけではなく、国際世論の支持を受けるまでにいたっていない。パレスティナ人による民衆蜂起・インティファ−ダ−の嵐が吹き荒れ、武力には武力でという抗争が繰り返されている。和平交渉は暗礁に乗り上げ、難民問題はその陰で放置され彼らは貧困の中で苦悩している。
父なる神は平和と秩序の神であり、ユダヤ人の神であり、異邦人の神ともなられている。主イエスは、「剣をもとにおさめなさい。剣をとるものは剣で滅びます」(マタイ26:52)と言われた。主のことばをしっかりと聞いた上で、私たちは現実のイスラエルを理解し、聖書を解釈し適応しなければない。イエスが説かれた愛の戒めは旧約におけるモ−セの律法を廃棄するものではなく完成に導くものである。したがって聖書の倫理、イエスの愛の戒め、平和の君として主権を用いられる神の御心に反するような行動は、イスラエルに対しても認められるものではない。聖書の倫理に照らされて政治的行為は厳しくチェックされねばならない。
このことは1989年4月に採択された「クリスチャンの福音とユダヤ民族に関するウィロ−バンク宣言」の5章27項において確認されている。「私たちは、ユダヤ民族とイスラエルの地との聖書的な結びつきが、聖書的倫理と矛盾し、人々の集団もしくは個人を圧迫する行為を正当化するという主張を否定する。」
4)神の御心は教会の完成にある
「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」 (エペソ3:6)
神の御心はキリストの体としての教会の完成にある。神の御心はそのように完成した教会をキリストの花嫁として迎えることにある。前者は、異邦人クリスチャンの共同体であるキリスト教会とイエスをメシアとして受け入れたユダヤ人・メシアニックジュ−の共同体が一つになって、真のキリストの教会を完成することを意味している。後者は、そのようなキリストにある一つの教会が携挙されることを指す。
ユダヤ民族に対する神の契約は不変であるが、ユダヤ民族がキリストの十字架の購いを信じる信仰抜きで救いに預かることはない。いわゆる「2契約説」を私はとらない。
一方、ユダヤ民族はその歴史的役割を完全に終えてしまい、イスラエル民族への契約は、教会という新しい霊のイスラエルにすべてとって替わったと主張する「置換神学」にも同意しない。
イエスをメシアとして信じたユダヤ人が自分たちのユダヤ人としての民族的ル−ツやアイデンティテ−を捨てて、欧米キリスト教の文化習慣を身につけなければならないという考えにも同意できない。福音は唯一不変であるが、信仰生活と文化は多様であり、それぞれの民族的なアイデンティテ−は尊重され、豊かに表現されるべきであると信じる。
異邦人クリスチャンの数が満ち、今やクリスチャン人口は約15億、世界総人口の1/3を占めている。主の宣教命令に従い、世界宣教が20世紀に大きく伸展し、聖書翻訳作業は2261言語に達した(2001年4月1日 クリスチャン新聞)。ラジオ・テレビ・インタ−ネットを媒体としたマスメディアによる宣教は全世界をカバ−するまでに至っている。このように異邦人教会は大きな祝福を受けてここまで成長してきた。その祝福はさらに継続するであろうが、神様の恵みの御心と御力はイスラエルの回復、つまりイスラエルが悔い改めてイエスをメシアと信じるユダヤ人が起こされて信仰の共同体を形成しイスラエルの神を崇める方向に大きく注がれるであろう。異邦人教会が「真の教会の完成」を目指して、イスラエルの霊的回復を切に祈る時代へ進むのではないだろうか。
1世紀の初代教会において、エルサム教会はほとんどがユダヤ人信徒であったにもかかわらず、アンテオケ教会さらにはエペソ教会の隆盛ともに衰退し、ロ−マ軍によるエルサレム崩壊ともにユダヤ人教会は失われてしまった。しかしイスラエルの建国後、今、国内におよそ4000人のメシアニック・ジュ−が生活し活動していると報告されている。まだ一つ一つの会衆は組織的な連帯やネッワ−クの形成までには至っていないようである。
彼らの信仰共同体はユダヤ人にとって忌まわしい過去と恐怖を連想させる「キリスト教会」という表現を避け、「十字架」をシンボルとして掲げることもしないが、キリストのからだである、ひとつの真実な教会を構成するために絶対不可欠な存在である。異邦人教会とメシアニック・ジユ−共同体(会衆)が、御霊によって一つのからだとなったときに、教会は完成する。そして、キリストの花嫁として、キリストの空中再臨を迎えるのである。したがって、キリストの真実な教会の完成のためにも、神は、大きな規模でのユダヤ民族の霊的回復、メシアニック・ジュ−の誕生と共同体の形成という終末的祝福の御業を進められるであろう。
「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」 (エペソ2:13−16)
この聖句には、異邦人クリスチャンとメシアニック・ジュ−の二つが一つにされ、一つの体とし、一人の人に造りあげられることが、はっきりと啓示されている。これが真実なキリストの教会の完成の姿である。
ユダヤ人伝道は、世界宣教において、終末の時代における新しい目標になりつつあると共に、教会の完成のためには絶対不可欠な宣教であると言える。そしてユダヤ人伝道は、ユダヤ民族の心の傷に配慮することを抜きにしては伸展しないと言われている。反宣教法案が国会にたびたび提出され右派勢力からの宗教的プレッシャ−が強まっている国内政治状況も考慮しなければならない。なによりもユダヤ人の伝道はユダヤ人が担うという宣教上の原則を尊重しつつ、私たち異邦人キリスト教会は祈りと支援のネットワ−クを形成して、多面的にユダヤ人宣教にコミットしてゆくことが求められていると思う。
5)私の神学的な立場は、「千年期前再臨説」である。
以上の記述からも明らかなように、私は「千年期前再臨説」を終末に関する神学的ポジションにしている。従って、キリストの空中再臨、異邦人とユダヤ人からなる一つの教会の空中携挙、7年間の艱難時代、オリ−ブ山への地上再臨、キリストが支配される千年王国、大審判、そして永遠の神の国の完成を信じている。
主の再臨、特にクリスチャンにとって、予兆が多く記されている地上再臨とは異なり、突然起きる空中再臨と教会の携挙に対して、目を覚まし、身を備えて、待ち望む者でありたと願っている。初代教会は再臨を待ち望むダイナミックな信仰を保っていた。健全な信仰生活は、今日明日かもしれない主の再臨と携挙を待ち望む信仰によって支えられていたと言えよう。
「というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」 (テトス2:11−13)
「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。」(黙示録22:17)
<第1章> イエスキリストの預言
聖書の預言とイスラエルとの関係を、新約聖書に記されたイエスの預言、ヨハネの預言、パウロの預言、そして旧約聖書における預言の順で考察する。
イエスの預言は最優先されるべき神の真理である。旧約の預言を完成するものでもある。なぜならば漸次的啓示の完成者として御子が世に来られたからである。
「神はむかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろんな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって私たちに語られました。」(ヘブル1:1−2)
1) エルサレム滅亡の預言
「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せそしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日がやって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
(ルカ19:41)
紀元70年、ロ−マ将軍ティトスによってエルサレムは包囲され、ついに陥落した。テトス軍の包囲は4月、アントニア砦の陥落は7月24日、神殿の門の炎上は8月27日、全体の陥落は9月26日までに完了と言われる。ユダヤ人歴史家ヨセフスによれば、過ぎ越の祭りに都に集った巡礼者たちもそのまま籠城したため、 100万人の住民が虐殺され、大量のユダヤ人奴隷が市場に流出したので奴隷の値段が大暴落したという。神殿は完全に破壊された。その時にわずかに残った城壁の一部が今日、ユダヤ人が聖所としている「嘆きの壁」である。
2) 神殿滅亡と再興の時
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません」(マタイ23:37−38)
「神の家」である神殿は、もはや神の栄光を失い、「あなたがたの家」と呼ばれている。不信仰で不従順なユダヤ人がイエスをメシアとして喜び、「主の御名によって来られる方に祝福あれ」と受け入れる時までは、「わたしを見ない」つまり、キリストの再臨はなく、神殿の再建もなく荒れたままに残される。したがって、真の意味でのエルサレム神殿の再建はキリストが再臨した千年王国の時代に成就すると思われる。
いわゆる第3神殿がキリストの再臨を抜きにしてそれ以前に、人間の手で建てられ、旧約時代の神殿祭儀が再現されるならば、それはイスラエル民族主義の復古と呼応し、全イスラエルはユダヤ教徒化され、 イエスキリストの福音はますます排除されるであろう。そもそも旧約時代の神殿祭儀はヘブル人の手紙に啓示されているように、キリストの十字架と復活の御業のひな型としての象徴的意味をもっている。ひとたび神殿が再建されれば、すでにイエスキリストにおいて贖罪が完全に成就し、福音として差し出されているにもかかわらず、再び神殿祭儀、動物犠牲という行いが繰り返されるであろう。
「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。・・彼らは聖なる都を42ヶ月の間、踏みにじる」(黙示録11:1−2)と、黙示録には、千年王国以前に、エルサレムに神殿が建てられることが確かに預言されているが、そこはやがて世界を支配する総督が自らを神と宣言し、異邦人が聖所を汚すことになるとも預言されている。彼は竜から権威を与えられ、神を汚し、聖徒たちに戦いを挑んでこれを破り、世界を支配する権威を持ち、42ヶ月つまり3年半の間破壊を繰り返す(黙示録13:4−7)。したがってエルサレムも神殿も最終的には異邦人に荒らされてしまうことになり、エゼキエルで預言されている真の神殿の姿とはほど遠い。
大イスラエル主義に立つユダヤ人にとってエルサレムの奪還に続いて期待される大事業は、神殿の丘からモスクを排除し、荘厳な第3神殿を建築することであるとも言われている。事実、エルサレム市街の円形交差点上に、第3神殿建設の際に礎石として使用される予定の岩が置かれているという。しかしクリスチャンとメシアニックジュ−にとって、それはイエスの福音にユダヤ人が、再び耳を固く閉ざすパウロの痛みの日(ロマ9:2)の始まりとなるであろう。イスラエルに住むメシアニック・ジュ−にとっても霊的苦悩と政治的締め付けが強化される厳しい非寛容な時代となるであろう。人間の手による神殿の再建は、黙示録13章に描かれている終末における世界の支配者(海からの獣と地からの獣)を歴史の中に呼び込むことにもなろう。
エゼキエル書で預言されている神殿は、キリストの再臨後の千年王国で建てあげられるであろう。そのときに神殿で行われる動物犠牲や諸祭儀は、ちょうどプロテスタント教会の聖餐式のように、、イエスキリストの十字架の死を象徴する記念的礼典としての意義を持つことになる。この場合にのみ、イエスキリストの福音とエゼキエル書で預言されている神殿再興とそこで行われる神殿祭儀との整合性を説明することができる。
3) 神殿祭儀からの決別
「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。」 (マタイ24:15)
預言者ダニエルによって語られた「荒らす憎むべき者」(ダニエル11:31 12:11)の預言は、紀元前167年12月にギリシャのアンテオコス王がゼウス神の像をエルサレムの神殿内に安置した事件を第1義的に指すと思われる。イエスはこのダニエルの預言を、30数年後に起こるロ−マ軍によるエルサレム侵略・神殿滅亡の預言とされ、さらに終末における艱難のしるしとして語られた。この時、ユダヤ教徒たちは神殿に上り籠城し、神の助けを仰いでロ−マ軍と戦ったが、ユダヤ人クリスチャンたちはロ−マ軍の包囲が緩んだ66年にエルサレムの都と神殿を捨て、北のヨルダン川東岸のペレア地方に逃れ住んだ。そのために生き残ったユダヤ人同胞からは「メシュモッド」裏切り者と呼ばれたそうだ。
しかしこの出来事は、キリストを信じたユダヤ人たちが、すでに都エルサレムにも、ヘロデ王によって建立された第2神殿にも捕らわれない信仰をもっていたことを示唆する。地上のどんな建物に対しても、偶像化しない信仰に立っていたことを表している。神殿中心の祭儀信仰からイエスの十字架の購いを中心とする福音信仰へと解放されていたことを示している。イエスを信じる者たちの共同体・群・教会こそが、聖霊の宮(第1コリント6:9)であり、神の宮であると信じ、地理的物理的エルサレムと神殿にもはや捕らわれていなかったのである。
エルサレムを1度でも訪問した経験がある者は、エルサレムがどれほど私たちの心を強く惹きつけてやまないことか、不思議なほど霊的な高揚感と神の臨在を感じさせられることか実感できると思う。エルサレムシンドロ−ムと呼ばれ、自分が聖書の時代にタイムスリップしてしまったような感覚に襲われて精神に混乱をきたす観光客が年間700人近く出るそうだが、納得できる気がする。しかし私たちは、地上のいかなる存在も絶対化したり美化・偶像化してはならないことを心に留めたい。
現実のエルサレムとイスラエル国家はパレスティナアラブとの流血の抗争の中にあり、政治的勢力は右派から左派まで分裂しており、精神的支柱のユダヤ教も一枚岩ではなくリベラル派から超正統主義まで多様であり、自らを「サボテン」と自称するユダヤ人は長所短所をもっており、時代に左右され、その価値観や政治政策・軍事行動が必ずしも聖書倫理に即した正義であり真実であるとは限らないからである。
4) 異邦人によるエルサレム支配
「そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」 (ルカ21:21−24)
イエスは、ロ−マ軍によるエルサレム滅亡の預言を語りつつ、エルサレムは異邦人の時の終わるまで、異邦人によって踏み荒らされる状態にとどめられることを預言している。「異邦人の時の始まり」は、バビロンのネブカデネザル王によって南ユダ王国が侵略され、エルサレム神殿が崩壊した紀元前587年とみなされている。では「異邦人の時の終わり」とはいつを指しているのだろうか。
黙示録11:1−2では、艱難時代に、神の聖所と祭壇がエルサレムに建てられるものの、聖なる都は3年半の間、異邦人によって踏みにじられると語られている。「それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。」この聖句は、艱難時代の前にエルサレムに神殿が建てられ礼拝がささげられていることを預言している。しかし同時に、結果的には再び異邦人によって3年半の間、踏み荒らされることが預言されている。したがってもし神殿の丘からモスクが排除され第3神殿が建てられたとしても、それでもまだ「異邦人の時が終わった」ことにはならない。
異邦人のエルサレム支配は艱難時代の最後まで続き、最後に地を荒らす獣と地上の王たちは団結して、白馬に乗り「王の王、主の主」(黙示19:11 16)と着物に記されている方、つまり再臨のキリストに対して戦いを挑むが、ついに敗北し、火の池に投げ込まれてしまう。したがって、この時がイエスが預言された「異邦人の終わりの時」であると思われる。異邦人の終わりの時は、同時にキリストによる千年王国(黙示20:4)の始まりを意味する。
「また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。」(黙示19:19−20)
使徒ヨハネの預言によれば、異邦人はキリストの再臨によって千年王国が建てられるまでは、エルサレムを荒らし続けることになる。このことは、エルサレムから異邦人の政治支配が完全に排除され、ユダヤの完全支配の中にエルサレムがおかれることは期待できないことを示唆するかもしれない。
国連総会で議決されたパレステイナ3分割案ではエルサレムは国連の管理下におかれることが採択された。現在のエルサレムの神殿の丘はパレスティナ管理地域となっており女性が礼拝する岩のド−ムと男性が礼拝するアクサ寺院が建っている。ユダヤ人はこの聖域に入ることが許されない。クリントン前米大統領が仲裁した和平交渉案は、地上の主権はパレスティナに、地中の主権はイスラエルに認めようとする「主権共有」プランであった。実現には高度な政治的判断と政策が必要とされる「共有」案であり、便宜的な「分割案」ではない。バラク前首相は基本的に合意を表明したが、そのためにエルサレムの完全主権と支配を主張する右派ユダヤ教徒の大規模な反対デモが繰り返され、労働党政権が倒れたことは記憶に新しい。しかし、聖書の預言によれば、イスラエルがエルサレムと神殿の丘の完全主権と領有を得ることができるのは、千年王国がキリストによってうち立てられる時を待たねばならない。繰り返すが、再臨前にもし神殿の丘からアラブパレスティナが完全に排除され、モスクに代わってユダヤ教神殿が再建されたとしても、使徒ヨハネの預言によれば、その神殿もやはり異邦人に踏み荒らされることになり、完全な主権は実現しないことになる。
ユダヤ主義的発想ではなく、新約聖書のイエスの教えに聞くとするならば、キリストの再臨の日までは、エルサレムの絶対的主権を争うことよりも、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教という3つの宗教が存在する聖都として、尊重と共存を願い、真の平和の町・エルサレム建設を追求してゆくことを希求し、共存と平和と対話を中心として、経済的繁栄、政治的安定に取り組んでゆくことが、キリストの御心にかなうことではなかろうか。
それは地道な取り組みであり、草の根的な民衆運動の高まりなくしては実現しない。少数ではあるが、イスラエルとパレスティナの平和を希求する人々によってそのような取り組みがなされていることもレポ−トされている。「エルサレム」(立山良治 新潮選書 1993年)は、一読に値する良書として推薦したい。
「エルサレムの平和のために祈れ」(詩122:6)と主は願っておられる。
5)再臨と選民の召集
「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。」(マタイ24:30−32)
イエスは栄光と威厳に満ちたご自身の再臨について預言されている。その時、全世界からイスラエルに選民を呼び集めると語られた。今、世界中のユダヤ人のおよそ1/3に相当する615万人がイスラエルに移り住んでいる。さらに帰還民の数は今後も増加すると思われる。
さらに留意したいのは、再臨に際してイスラエル全部族が地の果てから呼び集められるとエゼキエルは預言していることである。1800年代の後半から始まったイスラエルへの帰還運動と建国は終末における再臨に向けての神のご計画の一環であり、重要な舞台設定となっていると思われる。そしてイスラエル民族の帰還は、再臨の日まで続く継続的な神の召集の業であり、再臨の日にその召集はクライマックスに達するであろう。
この時には、紀元前721年、アッスリアによって滅ぼされ奴隷として連れ去られて離散した、失われた10部族のイスラエルの民も帰ってこよう。神の御心が、イスラエル12部族からの召集であるならば、歴史の中に埋没した失われた12部族の子孫たちもこの日不思議な方法で呼び集められることであろう。エゼキエルの預言はバビロン捕囚からのユダヤ民族の解放と帰還を直接的には預言しているが、終末におけるイスラエル12部族の帰還と回復を明らかに示している。
「彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族とを取り、それらをユダの杖に合わせて、一本の杖とし、わたしの手の中で一つとする。あなたが書きしるした杖を、彼らの見ている前であなたの手に取り、彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。」 (エゼキエル37:19〜21)
「わたしは、力強い手と伸ばした腕、注ぎ出る憤りをもって、あなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集める。わたしはあなたがたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地の荒野でさばいたように、あなたがたをさばく。・・神である主の御告げ。・・わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地にはいることはできない。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」 (エゼキエル20:34−38)
この世界からの帰還は「背く反逆者を選り分ける」ことになり、「イスラエルの地に入ることができない」者も多く生じる。機械的な帰還ではない。全能なる神は、キリストの再臨の日に、失われた北イスラエル10部族の子孫を全世界から呼び集めることができよう。神には不可能なことは何一つないからである。しかし呼び出されたイスラエルが御国にそのまま入るのではない。神の裁きを受けて、千年の御国に入る者とふるわれる者とに選り分けられる。無条件で全イスラエルが救われるのではない。
イエスをメシアとして受け入れるか、御国の福音を聞いて悔い改めて信じるかいなかが問われる。イスラエル民族だけは、福音を聞いて信じる以外の別な方法で救われると主張する「2契約神学説」が支持されることはない。聖書は福音を信じる信仰による救いを啓示している。「福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です。」(ロマ1:16)。ペテロは大祭司アンナス、カヤパ一族が出席していたユダヤ議会で大胆に証しをした。「皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が治って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:10−12)
高木慶太師は、マタイ25章の10人の明かりを灯した乙女と油を切らした乙女のたとえは、帰還したイスラエルのふるい分けを指し、山羊と羊のふるい分けは、艱難時代を生き延びた異邦人が裁かれてふるいわけられることを指していいると解釈している(「これからの世界情勢と聖書の預言」 P160 P162)。
イスラエルが約束の土地に召集されるのは、イエスの福音を聞き、信じて救われたイスラエル12部族の者たちがこの地上で、神が約束された土地にそれぞれの譲りの地を受領し、各部族がその地を王むなるキリストと共に治めるためである。こうしてイスラエルに対する神の約束は成就し、神はご自身の真実をご自身の選びの民と世界に証しされるのである。
6)メシアがオリ−ブ山に立たれる時
「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。」(使徒1:9−11)
イエスが昇天された場所はオリ−ブ山である。御使いは弟子たちに「あなた方が見たときと同じ有様でまたおいでになる」(使徒1:11)とキリストの再臨を預言した。旧約聖書においても、オリ−ブ山にメシアが立たたれることが、ゼカリアによって預言されている。
「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る」(ゼカリア14:4−5)
主とともに来るすべての聖徒たちとは、キリストによって購われた代々の聖徒たちで携挙に預かった人々である。彼らはキリストとともに御国を治めるために天から下ってくる。地質調査によればオリ−ブ山には大きな活断層が走っていることが報告されている。このオリ−ブ山への再臨の日はキリストによる1000年間の御国の統治が始まる日である。「主はすべての王となられる。その日には主はただ一人、御名もただ一つとなる」 (ゼカリア14:9)
オリ−ブ山に関してはヨハネも預言している。「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」(黙示録1:7)キリストは7年間の艱難時代の最後にオリ−ブ山に再臨され、サタンから「世界のあらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた」(黙示録13:7)海からの獣と地の獣をとらえ、「この二人を硫黄と火の池に生きたまま投げ入れ」(黙示録19:20)、イスラエルとエルサレムを完全に回復し、エルサレムを都とする千年間の王国(黙示録20:4)を確立される。エルサレムはここにおいて完全にイスラエルのものとなり、完全な主権と支配に置かれ、世界の中心となる。エルサレムの平和はこにおいて成就する!のである。
<2章> 使徒ヨハネの預言
パトモス島に流刑になったヨハネは数々の幻を啓示され、終末に関する預言を記した。このヨハネの黙示録は、ロ−マ皇帝による迫害が局地的なものから次第に政治的組織的な弾圧へと移行し、小アジア地方においても迫害による苦難と殉教が始まった時代に記された。苦難の中にある教会が希望に満ちた霊的な励ましと力を受けて、主の再臨を待ち望みつつ、主の証しに生きることを目的として教会に与えられた啓示の書である。イスラエルと関係する預言だけを抜粋して考察する。
1)キリストの再臨と諸国民の嘆き
「また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった 方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。見よ、 彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を 見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。神である主、常 にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたし はアルファであり、オメガである。」(黙示録1:6−8)
地上再臨の預言である。万物の主権者としてキリストが来られる。その日は艱難時代に生き延びたイスラエル人と全異邦人に対する裁きの時であり、ユダヤ人の間にも異邦人の間にも大規模な悔い改めがなされる。再臨のキリストを仰ぎ、イエスをキリストあるいはメシアと信じ購われた者たちだけが地上の王国を受け継ぐ。購われたイスラエル人は約束の地に住み、キリストは王としてエルサレムから諸国を治める。空中携挙によってすでに栄光の姿に変えられた聖徒たちは、ユダヤ人はイスラエルを、異邦人は世界の部族を御国の祭司また王として、キリストと共に治めることになるであろう。
2)キリストの王国を治める人々
「小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(黙示録5:7−10)
あらゆる部族、国語、民族の中から、キリストの十字架の血によって購われた人々がここに記されている。彼らは、キリスト教会に集う多くの異邦人クリスチャン(この中には多くのアラブ人クリスチャンも含まれることを忘れてはならない)と少数ではあろうがナザレのイエスを約束されたメシアであると信じるメシアニック・ジュ−と呼ばれる人々であり、この両者は「真の意味でキリストのからだである完成された教会」を形成する。これらの聖徒たちは、新しいキリストの王国では、祭司のつとめを果たし、地上のキリストの王国を治める者とされている。聖徒たちはキリストの御国において、祭司としての特別な職務を持ち、神の御心に従うように地上の民を治める立場にあり、奉仕に励むのである。この御国での職務と奉仕のために復活の体が与えられていることを覚えたい。第1コリント15章では復活の体について「朽ちない・栄光の・力ある・御霊に属する・天的な」からだと証しされているが、御国での奉仕にふさわしいからだである。御国での働きの違いは、地上の信仰生活における奉仕の報いであり、神は小さな働きをも心に留めて下さっている。
3) メギド平野での結集
「彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。・・見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。・・こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。」(黙示録16:14−16)
「また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。」(黙示録19:19−20)
サタンと獣と偽預言者の口から出る悪霊は神に背き逆らうために、世界中の支配者たちを、ハルマゲドンに呼び集める。ハルマゲドンとは、「ハル・メギド(メギドの丘)」という意味であり、エズレル平原に位置するイスラエルのメギドの山を指している。メギドは地中海のフェニキアへ行く街道とエジプトからシリア・メソポタミアに行く街道とが交差する要塞都市であり、軍事上も重要な拠点であった。ソロモンは紀元前10世紀に「戦車の町」とした(1列王9:5)。古代において、広い平原はしばしば戦場(2列王2:27)となり、紀元前840年にはユダの王アハジア(2列王9:27)が、610年にはヨシア王がエジプトとの戦いで戦死(2列王23:29)した。イギリス軍のアレンビ−将軍は1918年にトルコ軍をメギドで破った。「新約聖書によればここで世界最終戦争が行われる」という看板がこの地には立てられているそうである(「イスラエル・ガイド」 ミルトス p146)。
4) サタンの束縛と1000年間のキリストの統治
ハルマゲドンにおいて世界の支配者は滅ぼされ、サタンは1000年の間縛られ、キリストと聖徒たちによる地上の王国が支配される。
「また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。」(黙示録20:1−3)
「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間、王となった」(黙示録20:4)
「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間、王となる。」(黙示録20:6)
私は「千年期前再臨説」の立場をとっている。したがって、空中再臨によって携挙された聖徒たちと7年間の厳しい艱難時代にキリストを信じ殉教した人々が第1の復活に預かり、キリストとともに御国を祭司的な王として治めると理解している。 この1000年間の地上の王国の祝福に関して多くの預言が旧約聖書において語られている。荒廃した土地の回復と繁栄、ユダヤ国家による世界の支配、新しいエルサレム神殿の再建などは、聖徒の大きな希望となる。
5)地上の1000年王国の終了
しかしながら、地上の千年王国は、神の人類救済の最終ゴ−ルではない。神は聖徒のために「永遠の御国」(黙示録21:1−2)を備えておられる。1000年間のキリスト統治を経験しても、再びサタンが解かれると(黙示録20:7−8)、神に背く反逆者が起きる。堕落した人間の原罪のゆえである。永遠の御国が完成する前に、神は「白い御座の裁き」(黙示録20:11−13)と呼ばれる永遠の審判をされる。この時、全人類は裁きを受けるために復活させられる。これが第2の復活である。
「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示録20:7−10)
サタンは世界中から惑わされた諸国の民をイスラエルに結集させ、神が「愛する都」エルサレムを包囲する。しかしゴグ・マゴグと呼ばれる神に敵対するサタンに惑わされた勢力は、その時、神の最終審判を受け、神により根こそぎ焼き尽くされて滅び、ついに悪魔も火と硫黄の池に投げ込まれる。人類の歴史はここにおいて、新しい天地の創造、永遠の神の御国を迎えるのである。
5)白い御座の裁きと新しい天と地の到来
全人類が裁きを受けるために復活させられ、「行いの書」が開かれて各自に永遠の審判がくだる。「いのちの書」に名前がしるされていない者は「第2の死」と呼ばれる火と硫黄の池に投げ込まれる。
「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」 (黙示録20:11−15)
「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。」 (黙示録21:27)
7)新しい天と地の到来・新しいエルサレム
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」(黙示録21:1−2)
古い天と地、世界は焼け尽くされて消滅し、新天新地が出現する。もはや死も病も存在せず、悲しみも嘆きもそこでは見られない。古い創造世界と秩序は終焉し、新しい創造世界が創出するのである。私たちの太陽系宇宙は未来永劫存在する宇宙ではなく、太陽の膨張と爆発をもって消滅することは今や天文学上の常識になっている。以前の天と地は過ぎ去るのである。新しい聖なる都エルサレムが人の手によらず、神によって建設されて、天からくだってくる。「また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。」(黙示録21:9−10)
新しいエルサレムには大きな特徴がある。
1 キリストの妻、花嫁としての本質を持つ都である。
キリストがエルサレムを愛されるのは、キリストとの愛の交わりがその町に満ちているからである。妻と呼ぶほどの親密な愛をもってキリストはそこに臨在される。したがってキリスト不在のエルサレムは空しい町である。今日においてもこのエルサレムの本質を見落としてはならない。エルサレムの住民がキリストを心から慕い求める信仰こそ、エルサレムの真の美である。エルサレムの輝きは、朝陽を受けて輝く黄金のド−ムでもなく、エルサレムスト−ンの家々でもなく、キリストへの愛こそが、エルサレムの真の輝きとなるのである。キリストを愛する信仰者でエルサレムが満たされること、それが神が願うエルサレムの花嫁たる姿ではないか。
2 城壁の12の門にはイスラエル12部族の名、12の土台石には12使徒の名が印されている。
「都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。」(黙示録21:12−14)
神は選びの民イスラエルを決してお忘れになることはない。イスラエルの名は覚えられ、神に変わらずに愛されている。神の愛がエルサレムから離れたことはない。都はキリストの購いを受け入れたイスラエル部族と異邦人クリスチャンによって構成されている。どんな時代であっても、ユダヤ人の救いが忘れられることがあってはならない。しかし12使徒に代表される「福音」が土台石に据えられていることにも着目しなければならない。イエスキリストの福音、つまり十字架の購いこそ、全人類の救いの力である。この救いは福音を聞いて信じることによって始まる。「福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です。」(ロ−マ1:16)と純粋なユダヤ人であるパウロは確信に満ちて語った通りである。
3 都の中に神殿は存在しない。
「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。」 (黙示録21:22−25)
キリストが「新しいエルサレムの神殿」であると明言されている。標高800mの高台にあるエルサレムの神殿で灯す明かりは、夜間エルサレム市内を明るく照らしていたそうだ。丘にある神殿の明かりは遠くからもくっきりと見えたであろう。しかし今や、エサレムを照らす光はキリストの栄光であり、太陽や月の輝きにさえ勝るものである。この光は物理的な照明ばかりではなく、永遠の神の国において聖徒を導くいのちの光でもあった。
私たちはここからも大切な真理を学ぶことができる。神の国の民は、地上の神殿に固執する必要はない。地上においては再臨の時までは、エルサレムにたとえ人間の手で神殿が建設されることがあったとしても、艱難時代には、異邦人に踏み荒らされるからである。1000年王国時代にエルサレムに建てられると思われる第3神殿にしても、もちろんそれは動物の犠牲が再び捧げられるような祭壇が存在する神殿ではない。キリストの王座が中心となろう。しかしその神殿でさえ、古い天地とともにやはり廃れてゆく。地上の神殿は、小羊なるキリストがまことの神殿であることのひな形、影にすぎないのである。
4)都の中心には「神の御座」がある。
「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」(黙示録22:1−4)
ソロモンの神殿の奥は至聖所と呼ばれ、契約の箱が安置され、そこに神は臨在された。しかし新しいエルサレムの中心には神と小羊の御座があり、いのちの水が川となって流れ出ている。もはや渇く者は一人も存在しない。
<3章> 使徒パウロの預言
ロマ書においてパウロは9章から11章までユダヤ人問題を論じている。なにゆえにユダヤ人はイエスを拒んで受け入れようとしないのか。ユダヤ人たちの持つ特権は奪われもはや無効になってしまっているのか。
パウロは、神の召しと賜物とは決して変わらないことを確信し(11:29)、御子イエスを拒んだユダヤ人は、オリ−ブの木からおられた枝であり、キリストを信じた異邦人たちは、接ぎ木された野生種のオリ−ブである (11:17−20)と表現し、「神は彼らを再び継ぎ合わすことができるのです」(11:23)とユダヤ民族の救いの希望を語っている。 パウロの理解によれば、ユダヤ人がイエスを拒んだのは、救いが異邦人に及び、世界が神との和解に導かれるためであった。イスラエルが不信仰であったという理由ばかりでなく、そこに神の絶対的な主権が働いていたことをパウロは認めていた。
「そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。」(ロマ11:11)。「しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。」 (ロマ11:12)。「もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか。」(ロマ11:15)
パウロは次のような結論へと導かれ、神を崇めたのである。
「兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。神の賜物と召しとは、変えられることがない。」 (ロマ11:25−29)
ユダヤ人はアブラハムとの契約のゆえに、今もなお神に愛されている民族であり、異邦人がみな救われるときまで頑なにされているが、その時には神の哀れみが注がれて「イスラエルはみな救われる」のである。もちろんここで異邦人にもユダヤ人にも用いられている「みな」という言葉は、「文字通り一人残らず」「例外なく、全員が」という意味ではない。圧倒的に多数の者がというヘブル的表現法である。
しかし、異邦人の救いと同様、無視できないほどの多くのユダヤ人がイエスキリストを彼らのメシアとして受け入れる日が終末の時代には備えられているのである。 それはユダヤ民族の霊的回復の時である。
西洋キリスト教社会において、ユダヤ人は長年にわたり「キリスト殺しの民族」「呪われた民族」と見なされ、ヨ−ロッパ各地で迫害され、十字軍によって虐殺され、宗教裁判で改宗を強制され、非人間的なゲット−生活を強いられたことは周知の事実であり、大きな民族的悲劇であった。
反ユダヤ主義がイスラエルに関する聖書の健全な解釈を歪めてしまったのである。宗教改革者のルタ−でさえ、 「我々、クリスチャンはこの神に見放された呪いの民に何をなすべきか。私は真実な思いをもってあなたに忠告する。まず、我らの主とキリスト教界の栄光のために、彼らのシナゴ−グに火をつけるべきである。そうすれば、神は我らがクリスチャンであることをごらんいただけるであろう。・・ユダヤ人はイエスを信じないで十字架につけた。その彼らにイエスは「あなたがたはまむしの末、悪魔の子であると語られたが、まさにその通りである」(「ユダヤ人と彼らの虚偽について」 1543年 )と書き記していることを中川師は指摘している(「エルサレムの平和のために祈れ」 P61)。
神の御心は変わることなくイスラエル民族の上に注がれている。ユダヤ民族に対する迫害の歴史を振り返り、彼らが受けてきたキリスト教会のへの恐怖と心の傷が癒されてゆくために、愛をもって祈り、仕えることは、神の御心にかなうことである。
<4章> 旧約聖書におけるイスラエルの復興預言
イスラエル民族はダビデによって王国を樹立して以来、4度の諸外国からの侵略を受け、国家的な危機や滅亡を経験している。
1 アッシリアによる北イスラエルの滅亡と10部族の離散
2 バビロンによる南ユダの滅亡と捕囚。
ペルシャによる解放と帰還。神殿の再建。
3 ギリシャによるエルサレム支配
4 ロ−マ帝国による支配とエルサレム陥落。国家滅亡と世界離散。
アモス、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言者たちは、バビロンからの帰還と神殿の復興を預言しているが、さらにはるかに時代を越えて、 終末におけるイスラエルの希望と回復について重ねて預言しているのである。聖書の預言の特徴がここにある。ある特定の出来事を預言しつつ、終末の出来事をそこに重ねて預言するのである。
1 イスラエルの民の帰還についての預言
「そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り 過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。そこには、し しはおらず、飢えた獣も、その道にのぼることはなく、その所でこれに会うこと はない。ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。主にあがなわれた者は帰って きて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼 らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」
(イザヤ35:8−10)
「そのとき、エルサレムは『主の御座』と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名 のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むこと はない。その日、ユダの家はイスラエルの家といっしょになり、彼らはともども に、北の国から、わたしが彼らの先祖に継がせた国に帰って来る。」(エレミヤ3:16)
「わたしはあなたがたをこの国から投げ出して、あなたがたも、先祖も知らなかった国へ行かせる。あなたがたは、そこで日夜、ほかの神々に仕える。わたしは あなたがたに、いつくしみを施さない。』それゆえ、見よ、その日が来る。・・ 主の御告げ。・・その日にはもはや、『イスラエルの子らをエジプトの国から上 らせた主は生きておられる。』とは言わないで、ただ『イスラエルの子らを北の 国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言 うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
(エレミヤ16:13−15)
「わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉 大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたし の聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。・・神 である主の御告げ。わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての 国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。」(エゼキエル36:23−24)
2 荒れた国土の復興と繁栄について
「その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくず れた所を興し、これを昔の時のように建てる。これは彼らがエドムの残った者、 およびわが名をもって呼ばれるすべての国民を所有するためである」とこの事を なされる主は言われる。主は言われる、「見よ、このような時が来る。その時に は、耕す者は刈る者に相継ぎ、ぶどうを踏む者は種まく者に相継ぐ。もろもろの 山にはうまい酒がしたたり、もろもろの丘は溶けて流れる。わたしはわが民イス ラエルの幸福をもとに返す。彼らは荒れた町々を建てて住み、ぶどう畑を作って その酒を飲み、園を作ってその実を食べる。わたしは彼らをその地に植えつける。 彼らはわたしが与えた地から再び抜きとられることはない」とあなたの神、主は言われる。」(アモス9:11−15)
「荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのようにさ かんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、 カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれ の神の麗しさを見る。」 (イザヤ35:1−2)
3 エルサレムの復興
「シオンの義が朝日の輝きのようにあらわれいで、エルサレムの救が燃えるたい まつの様になるまで、わたしはシオンのために黙せず、エルサレムのために休ま ない。もろもろの国はあなたの義を見、もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。 そして、あなたは主の口が定められる新しい名をもってとなえられる。また、あなたは主の手にある麗しい冠となり、あなたの神の手にある王の冠となる。あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、あなたの地はもはや「荒れた者」 と言われず、あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、あなたの地は「配偶ある者」ととなえられる。主はあなたを喜ばれ、あなたの地は配偶を得るから である。若い者が処女をめとるようにあなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶようにあなたの神はあなたを喜ばれる。エルサレムよ、わたしはあなの城壁の上に見張人をおいて、昼も夜もたえず、もだすことのないようにしよう。主に思い出されることを求める者よ、みずから休んではならない。」(イザヤ62:1−5)
4 神殿の復興
「彼が私を聖所の東向きの外の門に連れ戻ると、門は閉じていた。主は私に仰せ られた。「この門は閉じたままにしておけ。あけてはならない。だれもここから はいってはならない。イスラエルの神、主がここからはいられたかだ。これは 閉じたままにしておかなければならない。ただ、君主だけが、君主として主の前でパンを食べるためにそこにすわることができる。彼は門の玄関の間を通っては いり、またそこを通って出て行かなければならない。」彼は私を、北の門を通って神殿の前に連れて行った。私が見ると、なんと、主の栄光が主の神殿に満ちていた。そこで、私はひれ伏した。」(エゼキエル44:1−4)
「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほう へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の 右側の下から流れていた。ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、 東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。」(エゼキエル47:1−2)
5 約束の地の相続
「神である主はこう仰せられる。あなたがたがイスラエルの十二の部族にこの国 を相続地として与える地域は次のとおりである。ヨセフには二つの分を与える。あなたがたはそれを等分に割り当てなければならない。それはわたしがかつてあ なたがたの先祖に与えると誓ったものである。この地は相続地としてあなたがたのものである。」(エゼキエル47:13−14)
<5章> 結び
1 目を見張る回復と繁栄
約束の地イスラエルへのユダヤ人の帰還、ヘブル語の復活、人口の増加、国家の独立と主権の樹立、安全に暮らせる領土、肥沃な土地と農業生産物の祝福、コンピュ−タ−テクノロジ−を中心とした電子産業による経済的な繁栄、中東第一の近代的軍事力、そして何よりも美しくよく整えられたエルサレム市街など、聖書が預言する「イスラエルの回復」についての預言が成就しつつあることは明らかである。 荒れ果てた不毛の土地が今や欧米への農作物や花の輸出国となっている姿を、100年前にこの地に住んでいた誰が予測できたであろう。まさに奇跡である。世界の諸民族は、イスラエルの中に、生きて働かれる神を見ることができるであろう。
2 イスラエルの霊的回復のために
「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それ は、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時ま でであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれ ているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り 除く時である。」(ロ−マ11:25−26)
使徒パウロの願いと希望は「イスラエルがみな救われること」であった。イスラエル民族が悔い改めイエスをメシアと信じ、神に立ち返ること、すなわちイスラエルの霊的な回復であった。
私たちが純粋なユダヤ人であったナザレのイエスの中に、救い主キリストを見いだし、イエスの中に神を見いだしたように、彼らイスラエル民族がナザレのイエスの中にメシアを見いだし、イエスの中にユダヤ人の王を見いだされるようにと心から願う。イエスこそ来るべきお方、イスラエルの主であることを彼らが知り、神を崇めることができるようにと心から祈る。神の愛された民が霊的な回復の時代を迎えること、それがイスラエルのために祈ることであり、エルサレムのために祈ることであると私は信じている。
3 そのために、私たち異邦人クリスチャンは何ができるのだろうか。
1 メシアニック・ジュ−の証しの祝福を祈る
ユダヤ人にはユダヤ人が福音を証しすることが聖書的原則である。2000年前、「福音」はユダヤ人によって、まず、エルサレムから証しされた。1世紀の初代教会の時代と比較して、今日、世界宣教は大きく伸展し、異邦人がキリストの恵みを受けることができた。異邦人の救いの完成へと大きく近づいているとするならば、もちろんその判断は神の御手の中にあることだが、今度は再び、神のご熱心さはユダヤ人の霊的回復へ向けられるであろう。
今、イスラエルにはメシアニック・ジュ−と呼ばれる信仰者が4000人近くいると推定されている。「レブ・アヒム」機関の推定によれば約7000名に及ぶとも言われており、全国56の都市で彼らは活動している(1999年 フリ−ダムリポ−ト NO69)。彼らの存在は大きな鍵である。彼らの働きがイスラエルの地の塩、世の光として輝くように、祝福を祈る者でありたいと願う。
世界中に派遣されている多くの宣教師たちが本国の教会の祈りの支援が、宣教という霊的戦いの場における最大の霊的な力とし慰めとなっていることを証している。ましてや「反宣教法案」が繰り返し国会に提案され、右派的傾向がいっそう強くなりつつあるイスラエル国内において、異端視、危険人物視されているメシアニック・ジュ−の人々が御霊に満たされ大胆に福音を語ることができるように祈ることは急務を要する。私たち異邦人クリスチャンは、御国の祭司として奉仕する「とりなしの祈り」の中に、同胞への彼らの証しが祝福されるように常に覚えたい。
2 イスラエル帰還民のための愛の支援
ユダヤ人たちは過去の悲劇的歴史を決して忘れない。ヤド・バシェム(虐殺記念館)を見学した時に、大庭の2つの大きなレリ−フを指して、ガイドのスティ−ブン栄子先生が、この国には「過去を覚える者は解放を得、過去を忘れる者は奴隷となる」という格言があると教えてくれた。
ユダヤ人にとって、十字架は過去の悲惨な迫害と虐殺の歴史を思い起こす偏見、恐怖、怒りの対象になっている。十字架はユダヤ人にとって、愛と赦しのシンボルではなく、恐怖と死を思い起こさせる忌まわしいシンボルである。十字架を掲げて愛を語ることはできないのである。そんなことさえ、私は知らなかった。
イスラエルで働くキリスト者たちの中には、直接伝道に携わるよりは、イスラエル国内に移民してくる多くの貧しいユダヤ人に愛をもって仕え、彼らの心の傷が癒されることを願って社会福祉的な奉仕活動に仕えることを選んでいるグル−プも多くある。「ブリッジス・フォ−・ピ−ス」はその代表的団体と言える。その他の多くの団体の働きの祝福のためにもとりなしの祈りを捧げ、献金をもって仕えてゆきたいと願う。
イスラエル国内の治安状態が悪化しているため、観光客が激減している。観光収入は大きな外貨獲得手段であり、経済活動の繁栄に不可欠である。イスラエル人にとってばかりでなく、観光客相手の土産物を営んだり、そこで働いたりしているアラブ・パレスティナ人にとっても大きな経済的な打撃となっている。
イスラエルを訪問し、ありのままのイスラエルを知るならば、イスラエルのための祈り、エルサレムのための祈りが深まることであろう。昨年の秋、今年の春にも聖地旅行グル−プがイスラエルを訪問して歓迎されたという。
3 イスラエルの政治情勢のために最新情報を得る
イスラエルに関する最新の情報をインタ−ネットで知り、祈りに覚えることも意義深い奉仕である。以下のアドレスにアクセスするならば、最新情報を送ってくださる。このような地道な働きに献身しておられる兄姉にも心から感謝したい。特に、イスラエルに関する最新の政治情勢を知り、メシアニック・ジュ−のために、バレスティナ和平への前進のために、アラブ人クリスチャンのために、神の導きと祝福を祈ることは重要である。
★ BFPJAPAN ブリッジスフォ−ピ−ス日本支部局
東京都千代田区神田駿河台2−1 OCC5階 http://www.bfpj.net
★ 発行:「シオンとの架け橋」 編集:石井田直二 naoji@zion-jpn.or.jp http://www.zion-jpn.or.jp/
以上
参考文献
ユダヤ入門 中川健一 いのちのことば社 1992年
エルサレムの平和のために祈れ 中川健一 ハ−ペストタイムミニストリ−ズ
聖書の預言 高木慶太 芦田拓也 いのちのことば社 1985年
新しい一人の人 ルベン・ドロン ハ−ベストタイムミニストリ−ズ 1998年
聖書の世界とイスラエル クレランス・ワ−グナ− いのちのことば社 2000年
エルサレム 立川良司 新潮選書 1994年
イスラエルガイド ミルトス 1999年
イスラエルティ−チィングレタ− BFP
いつキリストは再臨されるか 山岸登 エマオ出版 1998年
組織神学 ヘンリ−・シ−セン 聖書図書刊行会 1961年