イスラエルの将来と希望(2)
約1年間、聖書旅行記を連載しました。今回から「イスラエルの将来と希望」について数回連載します。詳しい全文はインタ−ネットの宇治教会のホ−ムペ−ジにアップしていますのでご覧下さい。
1 聖書倫理によってチェックされる大切さ
旧約聖書の中に、イスラエルの将来に関する多くの預言があります。預言を理解する大切な神学的なポイントがあります。それは、神の啓示は漸次的性質を持ち、イエスキリストのことば、つまり新約聖書のことばをもって完成したことを理解しているかどうかということです。「 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1−2) ですから、旧約聖書の預言は、イエス様のことばとの関連性の中でとらえ理解する必要があります。
さらに、聖書の教えとユダヤ民族主義、宗教的なユダヤ原理主義とを区別する必要があります。イスラエル政府の政治理念や国内・国外政策、対パレスティナ対策などは、聖書の倫理、キリストの愛の戒めに照らしてチエックされる必要があります。神の選びの民イスラエルといえども、聖書の倫理と矛盾する行動を正当化することは許されません。このように、キリストのことばと聖書倫理に照らして、旧約聖書の預言とイスラエルの行動を注意深く考察する態度はたいへん重要なことだと思います。
2 異邦人の時の終わるまで
「異邦人の時の終わるまでエルサレムは異邦人に踏み荒らされます」(ルカ21:24)
「異邦人の時の始まり」は、バビロンのネブカデネザル王により南ユダ王国が侵略され、エルサレム神殿が崩壊した紀元前586年とみなされています。では、「異邦人の時の終わり」とはいつなのでしょう。第3次中東戦争で、イスラエルがついに東エルサレムと嘆きの壁を奪還した時とみなす人々もいます。
黙示録11:1−2では、終末の艱難時代に神の聖所と祭壇がエルサレムに再建されるものの、聖なる都は3年半の間、海からの力ある獣(自らを神と称し、礼拝を強要する異邦人の世界統治者)によって踏み荒らされることが預言されています。さらに異邦人によるエルサレム支配は、艱難時代の最後まで続きます。黙示録19:9−20によれば、キリストが地上に再臨される時、この獣と地上の王たちは団結してキリストに対して戦いを挑みますが、敗北し最終的に火の池に投げ込まれると記されています。したがって、キリストが再臨される時が「異邦人の終わりの時」ではないかと私は考えています。異邦人の終わりの時は、キリストによる千年王国の始まりの時と一致します。
3 平和と共存と対話
イスラエルの中心街の交差点には、やがて神殿の丘からイスラム教のモスクが除かれて、新しいユダヤ教神殿が建設される時に使用される予定の基礎石が展示されているそうです。ユダヤ人たちがいかに神殿再建を夢見ているかがこのこと一つ取ってみてもよく伝わってきます。聖書の預言によれば確かにエルサレム神殿の建設は成就します。しかし、その宮も再び異邦人によって荒らされることになります。したがって、イスラエルがエルサレムと神殿の丘の完全主権と領有権を得ることができるのは、千年王国がキリストによって成就する時を待たなければなりません。神殿の丘を巡る主権問題は政治的解決ではなく、キリストのよる神権的統治によってのみ、イスラエルにもたらされるといえるのではないでしょうか。
貴重な歴史遺産が埋没している神殿の丘一帯の地下が、パレスティナ側によって無造作に発掘され、破壊されているそうです。許されない行動であり、即刻の中止を望みます。こうした暴挙や無差別的なテロ活動は許されるものではありません。両者の敵対意識を先鋭化し、結果的に武力行使とテロ活動を助長させ、対話の芽を摘み取ってしまうからです。力によって平和をもたらそうとする試みは結局成功しません。なかなか進展しないパレスティナ自治政府との交渉、指導力にかげりが見えているアラファット議長のもとで統制がとれないテロ活動など、イスラエル側には繰り返し忍耐が要求され、過激な行動に走ることを自制しているなと感じています。神の民にはいつでも忍耐と知恵が求められます。主権者なる神の名において忍耐し、知恵を尽くして政治的交渉に力を注いでいただきたいと願っています。
「異邦人の時の終わるまで」と神は最終的な日を設定しておられます。つまり、「完全な解決がある」という約束が提示されているのです。キリストの再臨の日まで、エルサレムはユダヤ教、イスラム教、キリスト教という3つの宗教が共存する聖都として、エルサレムの名にふさわしく平和と共存と対話を中心として、経済的繁栄、政治的安定と成熟に向けて、政治主導ではなく、市民主導で取り組んでゆくことが、キリストの御心にかなうことではないでしょうか。
「エルサレムの平和」のために、そのように私は祈っています。
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子と呼ばれます」(マタイ5:9)
2001年7月4日