第4回  エルサレム編 −オリ−ブ山周辺−

1 エルサレムを眺めて

第8日目、3月29日の午前中、私たちはエルサレムの東側に位置するオリ−ブ山の麓にあるゲッセマネの園、そしてペタニア村を訪ねました。朝陽に輝くエルサレム市内を眺めていよいよ胸は高まりました。



  エルサレムの全景       

エルサレムは人口約46万人、標高800mに位置するイスラエルの都です。エルサレムスト−ンと呼ばれる白い石灰岩で統一された建物が朝陽や夕陽を受けて茜色に染まるところから「黄金のエルサレム」と呼ばれるようになりました。エルサレムは4000年の歴史を持つ古い都であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖都とされています。私の住む京都も1000年以上の歴史を持つ古都であり、日本最大の宗教都市です。しかしエルサレムに今も宗教的な熱気が息づいているのにくらべて、宗教がやはり風景化・観光化している感をぬぐえません。エルサレムを一望する標高815mのオリ−ブ山の展望台に立った時に、霊的な深い感動がこみ上げてきました。どのように表現したらいいのかいまだにわかりませんが、神の臨在を覚え時を忘れるような感激でした。いつまでもここを離れないで見つめていたい、ここにいれば神が共におられることを実感することができる永遠の都、それがエルサレムです。


       黄金の門        

エルサレム旧市街は8つの門を持つ全長約4kmの城壁に囲まれています。私たちは嘆きの壁に通じる糞門や神殿の北側にありステパノが殉教した場所とされるライオン門などを見学しました。城壁の上を歩く遊歩道があるそうですが、再びエルサレムを訪れる時にはぜひ歩いてみたいと思います。ゲッセマネの園と向かい合う場所に荘厳な構えの「黄金の門」があります。伝説によれば、終末の日にメシアがこの門から入城することを恐れてイスラム教徒が門を閉ざしてしまったと言われています。イエス様はベタニヤ村からオリ−ブ山を越えて、この黄金の門から民衆の歓迎を受けてエルサレムに入城されたと思われます。主の入城にふさわしい堂々とした構えの美しい門です。

2  オリ−ブ山の麓にあるゲッセマネの園

黄金の門のほぼ正面に国道をはさんでオリ−ブの樹が茂るゲッセマネの園があります。十字架にはりつけになる前夜、イエス様が徹夜の祈りをされた場所です。この園には樹齢が2000年と推定されるイスラエル最古のオリ−ブの樹が茂っています。園に茂る8本のオリ−ブの樹はみなこの古いオリ−ブから根別れしたものだそうです。このオリ−ブの樹は、夜を徹して祈るイエス様の姿をそっと見守っていたのでしょうか。

ガイドのスティ−ブン・栄子先生がたいへん印象的なメッセ−ジをこの園で語って下さいました。「イエス様が取り除いて下さいと願われた杯の中には何が入っていたのでしょうか。多くの注解書には十字架の苦しみであると記してあります。しかし私は違う考えを持っています。十字架の苦しみではなく、私たち人間のおぞましい罪や汚れが満ち満ちていたのです。皆さんは、蛆がわいているくみ取り式のトイレの汚水や汚物をお猪口一杯でも飲み干すことができますか。罪を知らない聖い神の御子イエス様は私たち人間のおぞましい罪と汚れに満ちた杯をすべて飲み干して下さったのです」と。もしイエス様が、父の御心に従われなかったら、私たちは永遠の滅びに墜ちる罪人の一人のままだったことでしょう。


ゲッセマネの園 

イエス様が徹夜で祈られたとい岩の一部を祭壇にした「ゲッセマネの教会」「苦悶の教会」が園に隣接して建設されています。各国からの献金によって建てられたので「万国民の教会」とも呼ばれています。入り口の壁の上方には、病める人々と貧しい人々を祝福されるイエス様の美しいモザイク絵が描かれています。

今回は訪ねることができませんでしたが、オリ−ブ山地域には、マリアの墓、マグダラのマリアの墓、主の涙の教会、主の祈りの教会などがあります。


3  ベタニア村のマルタ一家

続いて私たちはオリ−ブ山を右に回り込んで東側の麓にあるベタニア村を訪ねました。バビロン捕囚から帰還したユダヤ人によって再建された小さな村ですが、この村には、イエス様がしばしば訪ねて親しい交わりを持っていたマルタ・マリア・ラザロ一家が住んでいました。ところが弟のラザロが突然の病気で亡くなり、葬式も終わった後でイエス様が戻ってこられました。深い悲しみと絶望感に打ちひしがれていたマルタに向かってイエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と復活の希望と信仰について語りました。イエス様のことばを信じたマルタとマリアはイエス様が弟ラザロをよみがえらせて下さるという栄光を見ることができました。

なだらかな坂道の左側にラザロの墓があります。身をかがめなければ入れないような小さな狭い入り口から中に入ると、内部は以外と広い洞窟になっています。石段を下に降りてゆくと底に平たい場所があり、ここにラザロは安置されたと言われています。すでに1世紀にはこの洞窟がラザロの墓であると言われていました。17世紀にフランシスコ会が整備したと言われています。坂道に沿ってマルタとマリアの教会、復活したラザロを記念した「ラザロの教会」が建てられています。ビザンチン時代の教会跡と十字軍時代の教会後を併合して1952年に建築されました。現在この小さなラザロの村は、ラザロの名にちなんで「エル・アザリエ」と呼ばれています。

  
   ラザロの教会                         ラザロの墓

イエス様は何度もベタニアの村を訪れました。旅の疲れをとり、マルタの歓待を受けるためではありません。実はこの時代、ベタニアは神殿にささげる羊たちの集積場となっていました。ですから羊飼いたちがベタニアに羊の群を導いてきました。神殿から派遣された祭司は、神殿の祭壇にささげるいけにえの羊をこま村で選んだそうです。イエス様が何度もこの村を訪れたのは、イエス様ご自身が「神の子羊」であることを民にお示しになるためでした。十字架で死なれたイエス様こそ、罪の赦しのための完全な供え物だったのです。

ベタニアのマリアはたいへん祈り深い女性でした。イエス様のことばを静かに黙想する霊性に富んだ女性でした。マリアだけがただ一人、イエス様が「神の子羊」であることを信仰によって理解することができまたのではないでしょうか。彼女は高価なナルドの香油の壺を割ってイエス様の足を涙ながらに髪の毛でぬぐいました。イエス様はそのようなマリアの信仰を理解して「マリアはわたしの葬りの日のためにそれをとっておこうとしていたのです」(ヨハネ12:7)と語っておられます。

ユダヤの国では女の子が産まれると、ナルドの香油を買うために貯金を始めるそうです。普通の労働者の1年分の給料に相当するほど高価な香油でした。ですから女の子が7歳〜8歳頃になってやっと両親は買うことができたそうです。ユダヤの女性は結婚式の日にナルドの香油が入った石膏を石で割って体に注いだそうです。女性にとって一番幸福な結婚の日のためにではなく、神の救いの御計画が成就する日のために、御子の十字架の死を覚える日のために最も良きものをささげたのでした。

ナルドの香は、神に良きものを捧げようと願う者たちから薫りたちます。十字架を背負ってカルバリの丘へ向かうイエス様からもかすかにナルドの香油がかおったことでしょう。イエス様もまた十字架の上で私たちのためにすべてをささげて下さったのです。イエス様のために良きものをささげて歩んでゆきたいと願います。小さなベタニアの村ですが、なんと大きな信仰に満ちた村でしょうか。受けるよりは与えることが幸いです。


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