説教コラム 2022年5月から
                 51日  
   ヨハネによる福音書13542節 
「あなたを岩と呼ぶことにする」
          小林光生

  創世記のはじめに天地創造の1週間が出てくる。ヨハネによる福音書では、「ことば」としての主イエス主イエスの宣教のはじまりの1週間が書かれてある。@は第1日目、Aは第2日として紹介してみたい。

 @第一日目ではバプテスマのヨハネが登場する。エルサレムから祭司やレビ人とからの「あなたは何者なのか」という質問に対して、「わたしは、メシア(救い主)ではなくて、荒野で叫ぶ声である」と証言した。20

 Aその翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と証言した。29

 B三日目は、バプテスマのヨハネの弟子であった二人(アンデレともう一人は多分、この福音書を書いたヨハネだと思われる)と主イエスとの出会いが記される。

 バプテスマのヨハネは、自分の弟子を手離すように主イエスを紹介している。その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と共に立っていた。イエスが歩いておられるのに目を留めて言った。「見よ、神の小羊だ。」二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。3537

 主イエスはこの二人に「何を求めているのか」と問いかけると、もう夕方が近い午後4時ころのことであったこともあるだろうか、「彼らが、「ラビ(先生)どこに泊まっておられるのですか」と問うと、「来なさい。そうすれば分かる」とのおことばであった。アンデレともう一人は、主イエスの弟子となり宿を共にしたのである。

 C「その翌日」とは書いていないが、次の日のペトロと主イエスとの出会いが次に書かれている。アンデレが自分の兄弟を主イエスのもとに連れて来たのである。「 私たちはメシアに出会った」と言った。41

 イエスは彼に目を留めて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ『岩』と呼ぶことにする」と言われた。42

 創世記では、「光あれ」とのことばで天地創造を始められた。ここで主イエスは、一人が一人への語りかけで救いの働きを始められる。そのことばはどのようであったか。

来なさい。そうすれば分かる」「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ『岩』と呼ぶことにする」という主イエスの招きと約束のことばから今日、メッセージを受けたい。

             
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            詩編118編 18節 
      「主はわたしの見方」

                           小林和子

 「苦難のただ中から私は主を呼んだ。主は答えて、広い所に、私を解き放った。」詩篇118篇5節

共同訳の「苦難のただ中」は、口語訳や新改訳聖書では「悩み(苦しみ)の中から」となっており、「主を呼ぶと、広いところに置かれた」となっています。

  苦難の中、苦しみの時も私たちは主に叫び求めるとき主のお答えはまず私たちを広いところに置いてくださる幸いです。問題や苦しみにぶつかると、私たちは視野や心の向き方が狭く偏りがちになり易いのですね、共同訳は広いところに、私たちを、心を解き放ってくださるというのです。

 先週、日曜日の夜から水曜日まで長男と三男が蒲郡での礼拝後に来てくれました。久しぶりです。一緒に生活しますと、食生活が前の肉中心ではなく野菜を多く取り入れて健康的になっていて一安心でした。

この三男の誕生の事は前にもお話ししたことがあります。それこそ今日の苦難の日に主に呼び助けていただいたのでした。担当医師にも看護婦さんにももう無理ですよといわれて、涙の内に主に祈ったときに、次男の出産の時にお世話になったクリスチャンの医師のことを思い出したのです。事情をお話しいたしましたところ安静にしていたら助かる可能性があるとの言葉を聞いてその日からベットでの生活でした。

3ヶ月後、少し早産でしたが1980グラムで無事出産しました。今は35歳です。目の前の答えで判断していたらと今は主の深いあわれみに感謝です。

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     ヨハネによる福音書13642節 

   「あなたを岩と呼ぶことにする」        
                      小林光生

  創世記のはじめに神は7日間で天地を創造された。創世記に「光あれ、すると光があった」とある。13

 ヨハネによる福音書では、主イエスの宣教の始めの7日間、弟子となる人に「来なさい、そうすれば分かります」と声をかけられた場面から始まっている。ペトロに対しては「あなたをケファ(岩)と呼ぶことにする」と声をかけられた。

 今日はその続きで5日目にあたる。「その翌日、イエスはガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「私に従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。143,44

 これらの弟子への召しがガリラヤで地方であり、フィリポ、アンデレ、ペトロの出身がベトサイダであったことが記されている。

 今日の説教を「辺境の地からの光」とした。ガリラヤやベトサダが当時の中心都市のエルサレムから遠くはなれた所であったのだ。最初、「辺境」ではなく「田舎」という言葉を使おうとも思った。しかし、「田舎」は「のどか」という意味で使われており、「辺境」は政治的にみても話題にもならないような場所をあらわすのでないかと思った。

 しかも、ベトサイダは「いわく付き」である。 主イエスは、「災いあれ、ベトサイダよ。お前たちのところでなされた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたことだろう。」マタイ1121

 このような辺境の地において、また暗闇が支配するような所で主イエスは弟子となる者たちに声をかけられた。

 「ゼブルンの地とナフタリの地 湖沿いの道、ヨルダン川の向こう 異邦人のガリラヤ 闇の中に住む民は 大いなる光を見た。」マタイ41516

 今日は、主イエスの弟子の中であまり登場しない、ナタナエルが弟子として召し出される場面からメッセージを受けたい。イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。それよりも、もっと大きなことをあなたは見るであろう。」1:50

 これはどのようなことであろうか。

          5月22

      ヨハネによる福音書2111節 
    「水がめに水を満たしなさい」

                      小林光生

 ヨハネによる福音書で、主イエスの宣教の始めの7日間の最後の日に、ガリラヤのカナで主イエスが水をぶどう酒に変えられた奇跡が書かれてある。その中で「これどういう意味?」というような場面が多く出くる感じがする。

 創世記では、神は天地を創造された。「第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた」とあり、七日目が安息日となった。このヨハネ伝では、カナの婚姻でこの奇跡が出てくる。「これは、何か意味があるのか?」

 カナの奇跡では多くの登場人物がでてきて、「だれが主人公?」と思ってしまう。主イエスとその弟子たちも婚礼に招かれた中で、ぶどう酒がなくなってしまったとき、母がイエスに、「ぶどう酒がありません」と言った。主イエスの母マリアが登場する。3節(当時女性は、裏方で婚姻の祝いの席には登場しなかったようである)

 主イエスの「わたしとどんなかかわりがあるのです」という、いわばつれないことばの後に、母は召し使いたちに、「この方が言いつけるとおりにしてください」と言った。5 召使いたちが登場して、主イエスの奇跡の証人として登場する。

  料理長のことばも印象的である。「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました」10

 そのような中でこの奇跡が、「異邦人の地、辺境の地」とも表現されるガリラヤのカナで行われたことを、忘れてはならない。そうして、この奇跡が 、ヨハネの福音書での「最初のしるし」であったことが記されている。

 このカナで行われた奇跡の意味、弟子たちにとって私たちにとってのメッセージはどのようなものかを探っていきたい。

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ヨハネによる福音書2章1322
 
キリストの体である神殿とは」 
                         小林光生

   ヨハネによる福音書で、主イエスの宣教の始めの7日間、ガリラヤでの出来事の後で、信仰の中心地エルサレムに行かれる。場所は、礼拝するところの神殿である。

 主イエスが宮の外国人が礼拝するところで、商売をしていた人たちを追い出したという出来事で、主イエスの「宮きよめ」と言われるところである。主イエスはここでは怒っておられる。縄でむちをを作り、羊や牛を追い出し、両替人のテーブルをひっくり返しはじめたのだ。一般常識からいえば「とんでもない、ひどい」ことであった。

 ヨハネによる福音書の特色の会話の所を通じてこの所からのメッセージを頂きたい。ユダヤ人は主イエスに言う。

こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」この宮きよめのできごとが、主イエスを十字架につけたとも言えるのである。

 主イエスの答えは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」というものであった。当時のエルサレムの神殿は、ヘロデ大王が建築中で、ユダヤ人たちはこのように言った。「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、三日で建て直すと言うのか」主イエスが言われた「三日で立て直す」神殿は、見える建築物ではない。

 後に、主イエスが十字架に引き渡される時、訴えられた「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。マタイ2660

 この「建てる」ということばは、「目を覚ます」「よみがえる」という意味をもっている。主イエスは、十字架と復活により、建築物でない、私たちが礼拝する神殿を預言されたのだ。十字架の後、三日目によみがえられたのだ。