説教 コラム 2022年6月 

   6月5日 ペンテコステ礼拝  小林光生
  
   「新たに生まれるとは」 ヨハネ3章1〜6節

それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
    ヨハネによる福音書3章15節
                                   小林光生
 ヨハネによる福音書で主イエスの最初の1週間は、異邦人の地、暗闇の地と言われてい
たガリラヤで出来事が書かれてあった。そうして過ぎ越し祭の時に主イエスは、信仰の中心地エルサレムに行かれ「宮きよめ」をなされた。その続きとして今日の聖書箇所では、ニコデモというユダヤ人の指導者と主イエスとの信仰問答が登場する。この所では、ニコデモが主イエスの所に来て主イエスと面談しているが、人目をはばかってか「夜」にやってきた。
 
 ニコデモは主イエスに「 先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」と語りかけている。いわば持ち上げている感じではないか。

 それに対する主イエスの答えは、救われるには(ここでは神の国を見るという表現でもある)知っているだけではダメで、「新しく生まれる」ことが必要ですと言われたのだ。

 新しく生まれるとは、どういうことか。
 イエス・キリストを信じて永遠の命が与えられることが、いのちの誕生に譬えられている。
「新しく生まれる」とはある人の注解によると
@根元的に人生をやり直す、
A来世に生まれ変わるではなくて、「今」である
B上からの良いもので、人間の努力や頑張りではない。

 Bは、「水と霊とから生まれなければ」ということばにつながるのではないか。これは、イエス・キリストにある洗礼(バプテスマ)を連想させる。
 そうして、ここで主イエスは、一つのたとえを用いておられ、わたしたちにも「新しく生まれるように」決断を迫っておられるのではないか。

「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは
信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」3章14、15節

 
6月12日 「幸いな歩み」 

詩編119編  1〜8節               小林和子

 「幸いな者、完全な道を行き主の律法を歩む人は。」共同訳「おのが道を全くして、主のおきてに歩む者はさいわいです。」口語訳 詩編1191

 おはようございます。先週はペンテコステ 礼拝でした。12弟子を中心に、祈りの集まりの中に主から遣わされた聖霊が降られたのでした。弟子たちは旧約聖書で約束されたメシヤであり、みことばの成就である主イエス・キリストの十字架の証人として新しい歩みを始めたのです。

 今日の詩篇119篇は、私達に幸いな歩みとはどのような歩みかを教えてくれます。

 主のお声に心を開いてお聞きしましょう。詩篇第1篇にも同じように幸いな者という言葉が出てきていましたね。119篇ではどのような幸いと言っているでしょうか?

 私の心にとまったのは「歩み」という言葉です。ヘブル語では、この「歩み」は「行く,歩く,来る,動く,出発する,離れる,死ぬ,生活する」という生活のすべてをあらわすようなことばだそうです。私たちの歩み、行動、死ぬことまでも主の幸いの中に入れられるためにはどうしたらよいのでしょうか。

 恩師である小林和夫牧師の本に、神さまが、私たち人間がどういうことが幸せかとお考え下さったときに、『みことばに根ざして、みことばの上に、みことばに従って、歩んでいくならば、幸せになることができる。その第一は救いだ。罪から救われて、救われた人生を歩んでいくことはすなわち、みことばによる。』とありました。

 私たちの人生のすべての歩みの土台は御言葉にあり、その御言葉に向き合って生きるかにかかっているのです。幸いな歩みとは御言葉に生きる歩みです。そうして、わたしたちの生死も主にゆだねることができるのです。


  6月19日   小林光生

「水を飲ませてください」 ヨハネ4章

 しばらく前に「妻のトリセツ」という本を読んだ。「トリセツ」とは「取り扱い説明書」という意味で、妻にとっては失礼千万な題だ。でも書いたのは女性で脳科学の立場から、妻の不機嫌や怒りの理由を説明しに、夫側からの対策をまとめたものである。

 今日は父の日である。その日曜日に「イエスとサマリアの女」(共同訳の小見出し)からのメッセージであるが、主イエスがいわばスキャンダラスな女性をどのように導かれたかという視点から見てみたい。

 まず、アプローチ(近づき)である。当時、サマリアの人とユダヤ人は犬猿の仲であった。そのような中で、まず主イエスが一対一で「水を飲ませてください」とこの女性に声をかけられた事に注目したい。水がなければ人間は死んでしまう。主イエスは、体が必要とするこの「水」を霊的な意味でも使われた。

「しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」ヨハネ414

 次に対決と言える場面である。イエスは、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」16節と言われた。実はこのサマリアの女性は夫が5人いた。今、連れ添っている男性も夫ではなかったのだ。このような男性遍歴の中で、「かわかない本物の水」を求めていたのではないかと思う。

 最後に、主イエスの「救いの提示」である。サマリアの女性にとって「泉となる水」は真の礼拝にあることが告げられている。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。23節 十字架と復活を通じて、男と女の壁、差別の壁、場所の壁を越えた真の礼拝が備えられているのだ。



 「偉大な救いへのみことば」

ーヨハネ3章16節を通じて 個人伝道してみませんか。
                                小林光生


 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネによる福音書3章16節
 

この聖書のことばはは、イエス・キリストにある救い、福音の中心を明確に記した箇所であると言われます。
 今回、この所を通じてみなさんが個人的にだれかに話して伝えることが出来る事を目標にして「神、罪、救い」というポイントでのメッセージです。 
 
まず「神についてどのように書かれているでしょうか」
 
それは、神が愛の神であられるということです。世を愛されたとあります。どこを見れば神の愛がわかるでしょうか。それは、御子(イエス・キリスト)をお与えになった(口語訳では賜<たまわ>った)とありますように、主イエスの十字架を見ればわかるのです。

次に罪についてどのように書かれてあるでしょうか。

直接「罪」ということばは出てきませんが「世を愛された」とあります。<世>とは、闇と苦しみと憎しみの中にある私たちです。このヨハネ3章に出てきます、ニコデモさんが「夜イエスのもと来て」とあります。あなたにとって「夜」はどのようものでしょうか。「闇」はどんなものでしょうか。

 最後に救いについてどのように書かれているでしょうか。

 最初に、イエス・キリストの十字架を通じての救いであるいうことです。
自分の努力で救われるのではなくて「与えられる」ものです。私たちにとって必要なものは何でしょうか。 それは、 「御子を信じる」ことです。

 闇の中にある自分を見つめるだけでは救いはありません。
 主イエスは、ニコデモにこのように言われました。ちょうど火の蛇の毒に冒された人がモーセが掲げた青銅の蛇(十字架を意味する)を見上げて助かったように、主イエスの十字架を見るのです。わたしたちにとっては、この約束のみことばを信じ見上げていくのです。
 「あなたもこの主イエスの約束のことばを信じていきませんか。」