論壇:
「ウエストミンスター信条を学ぼう」 2/16/2003
 東部中会青年会の、今年の学びのテーマはウエストミンスクー信条(以下り信条と略)です。横浜中央教会青年会も、今年はり信条を学ぶことになりました。り信条藷文中の信仰告白、大教理問答、小教理問答の三つに「前文」を加えたものを、私たち日本キリスト改革派教会は「信仰規準」として採用しています。キリスト教会ができるためには、またできた教会が間違った組織にならないためには、信仰の中身を規定した信仰規準のほかに、具体的な教会政治のあり方を規定したものが必要で、これが『教会規定』です。この二つをもって、私たちの教会は「憲法」としています。 『教会規定』の中身は三つあり、それらは教会の政治のあり方を定めた「政治規準」、礼拝の中身と様式を定めた「礼拝指針」、信徒の生活のあり方と裁判の方法を示した「訓練規定」から出来ています。教会に起こってくるすべての閏超は、この憲法を指針にして判断されます。り信条を学ぶということは、正しい信仰と正しい教会生活を学ぶということです。青年の皆さんは、自らの信仰の成長とともに、将来自分の子供たちに正しいキリスト教を伝えるために、今大いに学んでください。
 さて聖書があるのにどうして信条が必要なのか、という疑問を持つ方もおられるでしょう。聖書には信仰の教理が箇条書きで書かれているわけではなく、人々が具体的な生活の中で、どのように自分の罪を悔い改め、神の愛を知り、神を礼拝してきたかを、ある時は歴史記述で、ある時は詩文や讃美歌で、また物語で記録しているのです。ですからそれらの記述を、現代の生活に単純に当てはめることはできません。現代の私たちが礼拝をする時、犠牲を献げなくても良いのはなぜでしょうか。それらは「やがて来るものの影にすぎず、実態はキリストにある」(コロサイ2:17)と解釈されたからです。旧約聖書には戦争が命令されている箇所がありますが、イエスは敵を愛せよと教えました。信仰と救いを得るのは神の一方的な賜物(ローマ3:24、Tヨハネ4:10など)ですが、「貰を得るように走りなさい」(Tコリント9:24)とも書いてあります。あちらに書いてある事とこちらに書いてある事が矛盾するように見える箇所もあります。
 聖書は解釈されねばなりません。そこには私たちの信仰の応答があります。「ここにこう書いてある」と声高に叫ぶだけなら、その信仰は教条主義に陥るでしょう。信条とは、現実の歴史の中で生きてきた信徒たちの信仰告白であり、聖書を岨噂して自分の肉にしようとしてきた人々の戦いの記録です。私たちも聖書と信条を読み、いつか他人の言葉ではなく自分の言葉で信仰を告白するのです。

論壇:
「ウエストミンスター信条を学ぼう その2」 2/16/2003

1517:ルターの95カ条の堤題

1526:ルター、ツヴィングリ聖隻論争
1529:マールブルク会談
1531:シュマルカルデン和約
1534:ヘンリー[「首長令」
    ルター、ドイツ語訳聖書発行

1545:トリエント総会憩−ケi563
1549:(ザビエル日本到着)
1558:エリザベスT即位
1561:『ベルギー信条』
1562:ユグノー戦争→1598
1563:『ハイデルベルグ問答』『39カ条」
1577:『和協信条』
1581:オランダ、スペインから独立



1597:(26聖人の殉教)
1600:(閑ヶ磨の戦い)
1611:KJ聖書完成
1618:ドルト教会会議→1619
1620:清教徒のメイフラワー号、アメリカ上陸
1633:ガリレオの宗教裁判
1640:長期議会招集→1653
1643:ウエストミンスター会議→1647
1648:ウエストフアリア条約
1649:クロンウェル、チャールズTを新宅
1660:王政復古(チャールズ)

『ウ告白』は宗教改革運動最後の時期1646年に完成しました。この信条は「偉大な神学時代の最後を飾った文書」(『改革派神学の光と影』リース著)と言われます。リースは宗教改革時代を二つに分け、前期は神学の復興、新しい理解と発見が生み出した期待と興奮の時期。後期は注意深い定義と精確化、すなわち革新より保存の時期と語ります(同書9頁)。数多くの戦争を伴う宗教改革のエネルギーが爆発した後、それらをまとめる作業でした。迫害のさなかで「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問う『ハイデルベルグ信仰問答』から83年後の事です。


論壇
「ウエストミンスター信条の時代背景、その3」 3/9/2003
 宗教改革時代は信条が大量に作られた時代です。・『改革主義信条の神学』(ヤコプス著)によりますと、60もの信条が作られたということです。この時代以前の信条は「古代信条」とか「基本信条」と呼ばれます。3世紀頃の『使徒信条』、325年の『二カイア(ニケア)信条』、381年の『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』、451年の『カルケドン億条』、5世紀頃とされる『アタナシオス信条』です。これ以降16世紀の宗教改革に至るまで、重要な億条は作られませんでした。
 宗教改革者ルターは1529年『大教理問答書』と『小教理問答書』、1537年『シュマルカルデン条項』を書きました。アウグスブルグ国余でプロテスタント最初の信仰告白として公にされたアウグスブルグ信仰告白(1530年)は、ルターの同労者メランヒトンが、ルターの承認をえて作成したものです。『スコットランド信条』(1560年)はジョンリッタスによって、また『ハイデルベルグ信仰問答』(1563年)はフリードリッヒ3世の命によって、ウルジヌスとオレヴィアヌスが書きました。これらは個人の作品で、彼らの宗教的天才と情熱が発揮されたものです。カトリックに対するむきだしの批判も目につきます(ハイデルベルグ信仰問答80問など)。
 宗教改革運動が広まり、より詳細な神学問題が議論されると、信条作成は国王や教会によって招集された神学者や委員会に委ねられ、複数の著者による共同作業的なものになっていきます。『フランス信条』(1559年)はカルヴァンとその弟子の草案に基づくもので、パリの第1回全国総会で承認されました。殉教者ギィ・ド・プレが友人の助けを得て作成したFベルギー信条』(1561年)は、オランダとベルギーの改革派教会の信仰告白となりました。スイスの改革派教会で作られた『第一スイス信条』(1536年)はプリンガーとその他の神学看たちの作品です。1577年の『和協僑条』は、ルター派内部での神学論争を解決するために作られました。改革主義信条では範囲は限定されず、次々と信条が生み出されるのですが、ルター派ではこれで信条作成はストップしました。17世紀になり、宗教改革運動はまとめの時代に入ります。信条には客観性と精確さが要求され、個人の情熱の赴くままではなく、冷静な余議で作られます。『ドルト信仰基準』(1619年)はカルヴァン派とアルミニウス派との神学論争を解決するために、オランダのドルトで開かれた神学会議によって作成されました。「ウエストミンスター神学者会議」(1643〜1653)は、英国教会改革のために、議会が招集した神学著151名の神学会議で、宗教改革運動最後の大規模な会議でした。この時英国は国王と議会が対立して争い、隣国スコットランドを交えての三つ巴の戦争中でした。この会議から『ウエストミンスクー信仰告白』『大・小教理問答』などが作られ、私たちの改革派教会はこれを信仰基準として採用しています。