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2006年5月7日 主日礼拝説教
「荒野で叫ぶ者の声」(ルカによる福音書3:1〜17)
■はじめに
今日からゆりのきキリスト教会の礼拝がスタートしました。これから、今日お読みしました、ルカの福音書を中心にイエス様のご生涯をたどっていきたいと思います。
1皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、2アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
さて、このヨハネは、2節で「ザカリヤの子ヨハネ」と紹介されています。ザカリヤという人は、ルカの福音書1:5に「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった」と出てまいります「ザカリヤ」のことです。このザカリヤと妻エリサベツの間に生まれたのが、このヨハネであります。このエリサベツとイエス様の母マリヤとは親類同士であった、とあります。
ですから、イエス様とヨハネとは、幼いころいっしょに遊んだのではないかと考えることができます。先日、上野の美術館で開かれています、スペインにありますプラド美術館展に行ってきました。そこに、幼子のイエスとヨハネがいっしょにいる、ムリーリョの絵がありました。
■時代背景
さて、ルカの福音書の3:1冒頭には、当時の時代背景が描かれています。それは分裂と混乱の時代でありました。 ローマ皇帝は「テベリオ」、イエス様の誕生の時の皇帝アウグストの次の皇帝、「テベリオ」になっていました。その「テベリオの治世の第十五年」とあります。それは、紀元29年ごろと言われています。
ユダヤの国はというと、イエス様が誕生された時の、ユダヤ全体を治めていたヘロデ大王が死んで、国は4つに分割されます。そのごたごた続きの中で、ローマはユダヤに総督を置くことになります。それが「ポンテオ・ピラト」でした。「ポンテオ・ピラトがユダヤの総督」であった期間は、紀元26-36年。
分割された「ガリラヤ、イツリヤとテラコニテ、ルサニヤ」の地方を、それぞれヘロデ大王の子どもたちが国主として治めていました。その中でも、「ヘロデがガリラヤの国主」であったのは、紀元39年までであります。
一方、ユダヤ教の世界はどうなっていたでしょうか。このとき、「アンナスとカヤパが大祭司であった」とありますが、本来は大祭司は一人であり、終身制でありました。それが、この当時は、その終身制がくずされ、60年の間に28人もの大祭司が次々と立てられたということです。
この時はカヤパが大祭司でした。カヤパのしゅうとであったアンナスは、すでにローマによって罷免させられていましたが、今なお勢力を持ち続け、民衆には二人の大祭司が立てられているように思われていました。イエス様が十字架につけられる前に裁判を受けるとき、このアンナスとカヤパの前に引き出されることになります。
このように国土は分断され、エルサレムの治安はローマの総督ピラトのもとに置かれていました。民衆の不満、不安、ユダヤ教の指導者への批判が高まっているときでした。このような時に、バプテスマのヨハネが現れたのでした。
■悔い改めのメッセージ
「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下りました。」ヨハネは、旧約聖書の最後の預言者マラキ以来、400年ぶりに現れた預言者でした。マラキまでの預言者は、救い主がやがてこの世界に来てくださることを待ち望み、そのことを神から示されるままに語ってきました。ヨハネは、もうすぐいらっしゃる救い主のために道ぞなえをし、イエス様を救い主として人々に指し示す最後の預言者の役割を担ったのでした。
神様のことばは「荒野でヨハネに下りました」。ヨハネは、荒野で神からのことばを聞き、それを人々に伝えたのでした。
3そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。
ヨハネは、ヨルダン川のほとりで、罪が赦されるための悔い改めを語りました。悔い改めとは、自分が神の前で罪人であることを認め、神様のほうを向くことです。そして、神様のほうへ向きを変えたしるしとして、洗礼を受けました。ヨハネのことばを聞いた多くの人が洗礼を受けました。
この洗礼というのは、もともとは、異邦人がユダヤ教に改宗する時に行った儀式でした。ヨハネは、それを神のほうへ向きを変えたしるしとして、ユダヤ人にも求めたのです。
問題は社会が悪いのではなく、支配者たちが腐敗しているのでもない。あなたたちはそのことを問題にしているが、本当の問題は自分たちの心の中にある罪なのだ。その罪を神様に赦していただきなさい。そして、救い主がおいでになるのを待ちなさい、と説いたのでした。
4そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『
主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。「谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。」5すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。6こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」
4節からのことばは、紀元前700年ごろに書かれた旧約聖書のイザヤ書40:3-5にあることばです。バプテスマのヨハネの出現は、このイザヤの預言の成就であったことを告げます。
■ヨハネのメッセージを聞いた人たち
7節から、ヨハネは「バプテスマを受けようとして出て来た」群衆に対して語ります。ヨハネの罪に対する指摘は厳しく、神様の怒りが必ず来るのだと語ります。
「われわれの父はアブラハムだ、などと心の中で言い始めてはいけません。」神の民だからといって安心してはいけない。「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」それを聞いて、群衆は深く心を動かされ、ヨハネに問いかけます。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう」かと。ヨハネは、群衆にこう答えます。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」と。
12節で、取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、こう尋ねました。「私たちはどうすればよいのでしょう。」ヨハネは答えます。「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけませ。」と
14節で、兵士たちもヨハネに尋ねます。「私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは答えました。「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい」と。
ヨハネは、取税人には取税人、兵士には兵士と、それぞれの生活の中でできることを教えました。
私たちも、いま置かれている場所で、それぞれが生活の中でできることをしていくわけです。何も特別なことをヨハネは要求しているのではありません。
ただし、気をつけなくてはならないことは、そうしなければならない、という律法や義務感からするものではないということです。それが救われるための条件ではありません。それは、救われた喜びから生まれ出てくるものです。
すでにイエス・キリストの十字架によって、私たちが救われる道が開かれました。私たちは、イエス様が私たちの代わりに十字架で死んでくださったことを信じるだけで、救われるからです。こうして救われた者は、神さまが与えてくださった恵みに励まされて、自然と良い実を結ぶようになるのです。そう歩めるように聖霊なる神様が導いてくださるのです。
■さらに力あるお方を示す
ヨハネから、このような悔い改めのメッセージを聞いた民衆は、このヨハネが救い主・キリストではないかと考えました。しかし、ヨハネは、自分は救い主ではない。
自分は救い主を指し示すために遣わされた者であると、告白します。
16ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
靴のひもを解くというのは、たとい弟子であったとしても、ここまではしなくてもよい、と言われていた低い仕事でした。ヨハネは、「自分はその仕事さえもする値打ちもありません」と答え、これからやってくる救い主のほうへ皆の心を向けさせたのでした。
ヨハネは、これから来られるお方が「私よりもさらに」力を持ったお方であることを示しました。そして、そのお方、イエス・キリストは「あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けに」なると語りました。
この「聖霊と火とのバプテスマ」は、イエス・キリストが十字架にかかり、3日目によみがえり、天に昇られてから起こったペンテコステの日に実現しました。
弟子たちは、天に昇って行かれるイエス様から、こう告げられました。「わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」と。そのお約束どおり、ペンテコステの日に、「炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまり、みなが聖霊に満たされた」のでした。今年は6月4日がペンテコステの日になります。
■まとめ
さて、今日のところから、いくつかのことを見てみたいと思います。
まず、ヨハネに与えられた役割についてです。ヨハネはこのあと、イエス様にも洗礼を授けますが、イエス様が神の国を宣べ伝え始めると、イエス様のもとにたくさんの弟子や群衆が集まっていきました。それを見た、ヨハネの弟子たちが、ヨハネに「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます」(ヨハネ3:26)と語ります。
そのときヨハネは、ヨハネの福音書3:30のところにあるように、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」と語りました。ヨハネは、神様から託された自分の役割をわきまえていました。それはキリストを証しすることでした。
キリストを証しするというのは、人の目をキリストのほうへと向けさせることです。人の心を自分に引きつけてしまったら、キリストを証ししたことにはなりません。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」ということばの中に、ヨハネの、「自分ではない」、「キリストを指し示すのだ」という、強い決心が現れていると思います。
2つ目は、人々がヨハネに「私たちはどうすればよいのでしょうか」と尋ねたのに対し、自分の任務を離れず、なすべき仕事の中で神に仕え、そこで自分のなすべきことを全うしなさい、と教えました。
神様がどうして私をこの場所に置かれたのか。それはその置かれたところで、ひとりひとりが神様の栄光を現すことができるからです。何も特別なことを求められているのではありません。職場で家庭で、日ごとの当たり前の歩みの中でこそ、神様に最も良く仕えることができるのです。
最後に8節のことばを見てみましょう。「それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」
ここの「こんな石ころ」ということばです。「こんな石ころ」とはだれでしょうか。「こんな石ころ」とは、アブラハムの子孫でない異邦人、すなわち私たちのことであります。
神様は、「こんな石ころ」のような私たちにも福音を知らせてくださいました。そして私たちをアブラハムの子孫、アブラハムの信仰を受け継ぐ者としてくださったのです。
神様のみわざは、イエス・キリストの十字架の死によって完成されました。イエス・キリストが私たちの罪を背負い、十字架で死んで下さった。そのことを信じる者……イエス・キリストを救い主と信じる者が、罪を赦されてアブラハムの子孫、神の子とされたのです。「こんな石ころ」が神様によって救われ、神様のもとに帰ることができたのでした。
私たちが救われたことを心から感謝して、受け入れます。今日、聖餐式の恵みにあずかることができることを感謝します。イエス様が私たちの罪のために裂かれた御体と流された御血を覚えたいと思います。
私たちは、救われた喜びと感謝をもって、日々神様の導きに従い、ひとりひとりが置かれております生活の場で、良い実を結ばせていただけるよう祈っていきたいと思います。今日から始まったゆりのきキリスト教会は、そのような者たちの教会でありたいと願います。
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