ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2006年5月14日


2006年5月14日 主日礼拝説教
「イエスは答えて言われた」(ルカによる福音書4:1〜13)

■はじめに
 先週は、3章1節から17節までをお読みし、荒野に現れて、人々にイエス・キリストがおいでになることを知らせたバプテスマのヨハネについてお話ししました。ヨハネは、イエス様を人々に指し示して、イエス様を証しするという役割を果たしました。
 そのヨハネのもとに、人々が続々とやってきて、洗礼を受けました。そこにイエス様がいらっしゃって、イエス様は、ヨハネから洗礼を受けられました。

ルカ3「21さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、22聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」」

 今日、お読みしました4章は、イエス様がヨルダン川で洗礼を受けられて、そのヨルダンから帰られたところから始まります。イエス様は、御霊に導かれて、荒野に出て行かれました。荒野とは、ヨルダン川を渡ってさらに南に下ったユダの荒野であると言われています。

1さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、2四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。

 「聖霊に満ちたイエス」様が、「御霊に導かれて」とありますように、聖霊なる神様がイエス様を荒野へ導かれたのでした。イエス様が荒野で悪魔の試みに会うということは、神様の導きであり、神様のご計画の中にあったことでした。
 父なる神様は、人となられたイエス・キリストを救い主として歩む道へと導いていかれましたが、悪魔の目的はこの逆のことでした。それは、どうやってイエス様を父なる神から引き離すか。どうやったら、イエス様を十字架による救いという道からはずすことができるか、ということでした。

■第一の試み
 40日の断食の後、イエス様は空腹を覚えられました。人間としてのイエス・キリストは、40日も断食していたならば当然なるであろう、空腹という状況の中で、悪魔は最初の試みの矢を放つのでした。

3そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」

 悪魔はイエス様に、あなたが神の子なら、とささやきました。本当にあなたが神の子なら、自分のいのちのために全能の権限を与えられているのではありませんか、とささやくのです。だったら今、その空腹を満たすために、あなたはこの石をパンに変えることができるはずですし、石をパンに変えてもいいのではありませんか、と。それに対して、イエス様は答えられました。

4イエスは答えられた。「人はパンだけで生きるのではない」と書いてある。」

 これは、旧約聖書、申命記8章3節のことばです。

3それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」

 この申命記8章のことばは、どのような背景で言われたのでしょうか。申命記は、出エジプトから40年、いよいよカナンの地に入るという時に、モーセによって語られたものです。それは40年間の恵みの回顧であり、これからの約束の地に入ってからどうするか、どうやって歩むかを改めて示したものです。
 モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民たちは、荒野に出たときに、すぐに食べるものがなくなり、飢えに苦しむようになりました。 そのとき人々は、エジプトでの苦しかった生活を忘れ、また、その苦しさから解放してくださった神様を忘れ、「食べるものがない」「エジプトにいたほうが良かった」「エジプトでは肉が食べられた」と不平を言ったのでした。
 そのとき、神様は天からマナという食べ物を降らせてくださいました。そのときから、イスラエルの民は、旅をしている40年間、毎朝マナをいただきながら、神様は確かに生きておられる。いつも顧みて助けてくださることを体験したのでした。
 イスラエルの民は、パンは大切だが、パンを与えてくださる神様を知ることはもっと重要であるということを、マナをいただきながら教えられたのでした。
 イエス様に対する悪魔の試みである「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」は、神様との関係を抜きにしてパンを得ることができる。そのことへの誘いだったのでした。父なる神にパンを祈り求めたらどうか、ではなく、あなたが神の子なら、「神の子としての力があるのなら、その自分の力で、石をパンに変えたらどうか」ということだったのです。
 イエス様は、それに対して、石をパンに変えることはなさいませんでした。イエス様は、みことばをもって答えられました。「人はパンだけで生きるのではない」と
 人間は、確かに食べ物なしでは生きられません。しかし、食べ物を与えてくださる神様を知らず、そこに神様の祝福があることを知らなかったならば、食べ物も、いのちもむなしいものに思えてくるのです。人間の生きる目的が、食べ物だけを得ることではなく、食べ物を下さる神様を知ることなのだ、と言うことが分かれば、主の祈りの中にある「私たちに日ごとの糧を与えてください」という、お祈りの意味がよく分かってまいります。
 イエス様は、父なる神様に限りない信頼をよせることと、神様のみことばによって生きていくのだという姿勢を示して、第一の試みに勝たれました。

■第二の試み
 そして、2つ目の試みです。

5また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、6こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。7ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」

 悪魔は、イエス様を、世界のすべての国々を見ることができるところに連れて行きました。悪魔は、「この国々のいっさいは私に任されている」と言いました。
 確かに、この世において、神など、いないのではないか……悪の力が人々を圧倒しているかのように見えます。しかし、けっして、神様は悪魔に、この世の支配権を渡しているのではなく、自由に任せているのでもないのです。すべての背後には神様の絶対的なご支配があることを忘れてはなりません。
 愛の神様が、この世界を治めておられる。そのことが、イエス様のお答えによって明らかにされていくのです。
 悪魔は、このようにイエス様に対して試みました。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。……もしあなたが私を拝むなら」と。
 これは悪魔と手を結ぶなら、この世の政治的権力や栄光を手に入れることができる、という試みです。あなたが、貧しい人々、苦しんでいる人々を助けるためにおいでになったのなら、彼らを救うにはこれが手っ取り早い道ですよ、と誘うのです。
 それに対してイエス様は答えられました。8節です。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」これは申命記6:13のことばです。
 イエス様は、この世の権力や栄光によって人を救おうとする誘惑に勝たれました。ただ神だけを拝み、神だけに仕えるのだ、という決意を明らかにして、神のご支配がすべてのものの上にあるということをお示しになられたのでした。

■第三の試み
 さて、悪魔の3つ目の試みです。

9また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。10『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、11『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです。」

 悪魔はイエス様を、ユダの荒野からエルサレムに連れて行き、神殿の頂きに立たせました。悪魔はイエス様に、ここから飛び降りなさい、と言います。あなたが神の子なら、神はあなたを守ってくれるだろう、と言うのです。しかも、この時は、悪魔も聖書のことばを出してきて、その根拠を示して見せます。
 「神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。」「あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。」詩篇91:11、12のことばです。
 それに対して、イエス様はこうお答えになりました。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」申命記6:16のことばです。
 神を試みるというのは、自分が神様よりも上に立つということです。こういうことを見せてくだされば信じますとか、こういうことをしてくだされば従いますとか、私たちもどうかすると、神様を自分の思いどおりにしようと、試すのであります。
 奇蹟を起こすかどうかは、神様が決めることであります。私たちはただ神様に信頼し、ゆだねることが求められています。しかし、神様は、私たちに、決して失望を味わわせることはなさいません。なぜなら、神様はあわれみ深いお方であり、主権をもってすべてをご存じのお方でありますから、必ず私たちに最善のことをしてくださるからです。すべての道で、必ず私たちを守ってくださるお方だからです。

■まとめ
 イエス様は、このあと救い主としての道を歩み出されるのですが、今日のこの荒野における試みによって、イエス様がどのような道を歩んで行かれるのかということが、はっきりと示されていることが分かります。
 それはまず、第1に、父なる神様のみこころに徹底して従うという道です。ヨハネの福音書6:38の「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです」というイエス様のおことばにあるとおりです。イエス様は父なる神様の救いのご計画を実現するために、全くご自分を明け渡して従って行かれるのです。
 第2に、イエス様は、この世の権力や栄光を用いて人々を救いに導くことをなさらなかったということです。私たちの問題は、目に見えるところにあるのではなく、目に見えない心の中にあるからです。私たち一人一人の心の中にある、罪の問題が解決されない限り、
私たちは滅びをまぬかれることはできません。
 イエス様は、この世の力をもってしてはどうすることもできない罪の問題……すべての人が聖なる神様の前では等しく罪人であるという、動かしがたい事実から、私たちを解放してくださるために、私たちのところへ来てくださったのです。
 第3に、イエス様は、父なる神様に従うと同時に、私たちに仕えてくださる「しもべ」としての道を歩まれた、ということです。神の御子という尊い身分を捨てて、ベツレヘムで産声をあげ、布にくるまれて飼い葉おけに寝かされていた幼子。そのイエス様は、30年近く、家族に仕え、残る生涯をあらゆる人を助けながら、十字架への道を歩まれました。
 このあと、悪魔は、一時的にイエス様のもとを離れます。13節に「誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた」とあります。しかし、悪魔は最後までイエス様を試みるために、たびたび現れています。
 私たちの罪の身代わりとなって十字架にかけられたイエス様に、道行く人々や、祭司長や律法学者たちがこう言いました。「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。……イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。」これも悪魔が語らせたことばでした。
 「神の子ならこうすればよい。ああしてみろ」という声は、今もイエス様や、教会に向けて発せられる問いかけであります。しかし、イエス様が与えようとしておられる神の国は、この世の権力を得、富を人々に分け与えることによって実現する地上の王国ではありません。十字架の死によってのみ赦される罪。一人一人の罪が解決されて、神様と私たちの間に和解が成立して初めて実現する神の国なのであります。
 イエス様の御救いを受けることのできた私たちは、何と幸いなことでしょうか。このイエス様の愛と導きの中で、今週も歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2006年5月14日