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2006年5月21日 主日礼拝説教
「主の宮を建てる」(エズラ記1章)
■はじめに
今日は、旧約聖書のエズラ記をお読みしました。これから新約聖書2回で、旧約聖書を1回のペースで説教をしていきたいと思っています。
エズラ記は、旧約聖書に書かれているイスラエルの歴史の最後の部分です。エズラ記の前の列王記、歴代誌には、エルサレムがバビロニヤに滅ぼされ、バビロンに捕囚として連れていかれるところまでが、記されています。
エズラ記は、それから70年後、バビロン捕囚から解放されて、故郷のエルサレムに帰り、神殿を再建するという歴史です。ダビデ王様の時代から数えて、およそ500年後にあった出来事なのです。
■ペルシヤのクロス王
まず神様は、ペルシヤのクロス王を動かしました。
1ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。
この節の前半の主語は、主なる神様です。「主は、ペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせた。」
クロス王は、バビロニヤを滅ぼし、新しい世界帝国となったペルシヤの王でした。クロス王は偉大な王様であり、すべてが自分の思いのままになる絶対君主でありました。しかし、この偉大な王様を支配し、動かしていたのは「主」なる神様でした。
神様は、この天地の作り主であられ、歴史を支配しておられるお方です。神様がクロス王の霊を「奮い立たせ」、揺り動かされたのです。
「エレミヤにより告げられた主のことば」とは何でしょう。エレミヤ書25:11-12にこう書かれています。
「11この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。12七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、――主の御告げ――またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」
ユダヤの人々は、バビロンの地に捕らわれて、神様が自分たちを見捨ててしまわれたのだろうか、神様の約束のことばは成就しないのだろうか、と絶望していました。ところが、神様は、ペルシャのクロス王にバビロニヤを倒して世界を征服するという大事業を達成させました。さらにクロス王の霊を奮い立たせて、「ユダヤの民をエルサレムに帰らせる」という奇蹟を起こされたのです。
その「クロス王の第一年」、紀元前538年のことでした。クロス王はそのおふれを文書にして「王国中に」告げ知らせました。
2ペルシヤの王クロスは言う。「天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。3あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。4残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。」
クロス王の勅令です。「天の神、主」と、クロス王は、まずイスラエルの神をあがめます。
「天の神、その主なる神が、私に地にすべての王国を下さった。そしてユダにあるエルサレムに、神の宮を建てる仕事を私にお任せになった。主の民であるあなたがたは、神が共にいてくださるから、エルサレムに帰りなさい。エルサレムに帰って、主の宮を建てなさい」とクロス王は告げました。
さらにエルサレムに帰らずに、残る人々に対してもこう告げます。「残る人たちは、エルサレムに帰る人たちを援助しなさい。エルサレムに建てる神の宮のために、進んでささげ物をし、また「銀、金、財貨、家畜」などをもって、帰る人たちを助けなさい」と。
■エルサレムに帰ろうとした人々と回りの人々
クロス王の勅令に対して、2つのグループの人たちがいました。
5そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。
クロス王の勅令に対して、主のことばの実現を信じて最初に奮い立ったのは、「ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち」でした。
捕らえられた人々は、すぐにでもエルサレムに帰りたかったでしょう。しかし、捕囚後70年がたっていました。その70年の間、彼らは、そこで生活を築いていました。せっかく築いた、バビロンでの安定した生活、またクロス王の勅令があるとは言え、エルサレムへの帰り道に、そしてエルサレムでの生活に、どんな危険が待ち受けているか分かりません。
70年の歳月。
エルサレムを知っている人たちは、ほとんどいなくなっていたでしょう。今、エルサレムはどのようになっているのか。家族をあげて帰るには、よほどの勇気と信仰がなくてはできません。その時、神様は「ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たちの霊を奮い立たせました」。
彼らは決断し、立ち上がったのです。彼らは「エルサレムにある主の宮を建てる」ために上って行こうと、立ち上がりました。神を礼拝する場所を整えること、このことに向かって進もうとしたのです。
6彼らの回りの人々はみな、銀の器具、金、財貨、家畜、えりすぐりの品々、そのほか進んでささげるあらゆるささげ物をもって彼らを力づけた。
次に、彼らの「回りの人々」を神様は動かされました。「あらゆるささげ物を進んでささげる」ように導かれました。
「進んでささげるささげ物」とは、自由意志によるささげ物です。それはモーセの時代、幕屋と道具、祭司の装束のために、イスラエルの民たちが持って来たささげ物と同じでした。出エジプト35:21に「感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た」とあります。
この時も、多くのささげ物によって、神様の幕屋が建てられたのでした。
■持ち帰る用具
クロス王は持ち帰る品々も用意しました。
7クロス王は、ネブカデネザルがエルサレムから持って来て、自分の神々の宮に置いていた主の宮の用具を運び出した。8すなわち、ペルシヤの王クロスは宝庫係ミテレダテに命じてこれを取り出し、その数を調べさせ、それをユダの君主シェシュバツァルに渡した。
クロス王が用意したものは、バビロニヤのネブカデネザル王がエルサレム神殿から持ち出したものでした。クロス王はそれを「宝庫係」に命じて、取り出させました。そしてそれを「ユダの君主シェシュバツァル」に渡しました。
新改訳聖書の欄外の注によると、この「シェシュバツァル」という人は、2章2節に出て来る「ゼルバベル」のことだとあります。「ゼルバベル」は、ダビデの血統を受け継ぐ人でした。
クロス王が、「シェシュバツァル」に渡した物は、次のようなものでした。
9その数は次のとおりであった。金の皿三十、銀の皿一千、香炉二十九、10金の鉢三十、二級品の銀の鉢四百十、その他の用具一千。11金、銀の用具は全部で五千四百あった。捕囚の民がバビロンからエルサレムに連れて来られたとき、シェシュバツァルはこれらの物をみないっしょに携えて上った。
すべての用具を数えると、全部で「五千四百」ありました。彼らは、返された用具を、一つ一つ丁寧に数え、感謝をもって記録したであろうと思われます。
「捕囚の民がバビロンからエルサレムに連れて来られたとき、シェシュバツァルはこれらの物をみないっしょに携えて上った」のでした。
70年ぶりに帰る故郷。その喜びはどれほどだったでしょうか。
■まとめ
エズラ記1章から、いくつかのことが教えられます。
まず第1に、歴史の大きな変わり目の時に、神様は異教徒であるクロスの心を動かされました。ここに歴史を支配しておられる神様を知ることができます。
神様の祝福は、個人的なものから大きな歴史の流れの中で見られるものまで、多様にあります。身近な祝福も、大きい歴史的な祝福も見ることのできる目を与えられたいと思います。
第2に、このとき二種類の人がいたということです。
主の宮を建てるために、エルサレムに帰ろうと立ち上がった人と、帰らずに残った人たちでした。
故郷のエルサレムの神殿、それを再建して自由に神を礼拝したい。しかし、そのためには犠牲を払う必要がありました。帰ろうと立ち上がった人たちは、祈りの中で「神にその霊を奮い立たされた者」たちでした。
そのとき、いっしょに帰ることのできない人がいました。いろいろな事情があったでしょう。しかし、彼らも共に、エルサレムを思う気持ち、神の宮を慕う気持ちに変わりはありません。
そこで、彼らは、主の宮を建てるために、立ち上がった人たちを背後で支える役割を担いました。
神様の事業には、自らの生涯をかけて献身する者と、その人たちを物心両面にわたって支える人たちが必要だということがわかります。
第3に、神様は、捕囚の民をエルサレムに帰らせることによって、もう一度、やりなおすチャンスを与えられたということです。
このエズラ記の出来事は、第二の出エジプトと言われています。モーセに導かれて、荒野をさまよった40年の間に、神様から、十戒に代表される律法を授けられ、その律法を守る民としてイスラエル民族が形成されていきました。やがて、国としての形が整い、ダビデ王、ソロモン王が立てられ、イスラエル王国の繁栄が続くと思われたところで、分裂が起こり、また王自ら神の律法を守らず、偶像の神を礼拝するという状況が起こってしまいます。
その行き着く所がバビロン捕囚でした。彼らは神様との約束を忘れて、滅ぼされました。しかし、70年たった今、神様はもう一度、エルサレムに帰り、神殿を再建し、信仰を立て直すというチャンスを与えてくださったのです。
ゆりのきキリスト教会が始まり、これから私たちの教会がどのようになっていくのか、どうしたいのか、そのことについて考えることが山ほどあります。
これから、いっしょにエズラ記を開きながら、イスラエルの人たちがどのように神殿を建て、礼拝を充実させていったのかを、また、そこにどのような失敗が潜んでいたのか、そして、そこからどのように回復させられたのかを読んでいきます。
その中から、神様が私たちのゆりのきキリスト教会に示そうとしておられる、みこころをさぐりたいと思っています。
今日の招きのことばで読みましたところを、もう一度読みます。エレミヤ書29:11-13です。
「11わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。12あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。13もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」
イスラエルに与えた神様のご計画、それは、70年後に補囚から帰らせるというものでした。 それは、将来に対して平安を与えるものでした。
同じく私たちの教会に対する神様のご計画は、間違いなく将来に対して平安と希望を与えるものです。それは変わることがありません。そのことを信じたいと思います。
「ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。」
神様によって奮い立たされて、これからのゆりのきキリスト教会の歩みのために、皆様と共に力を合わせていきたいと願っています。
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