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2006年6月11日 主日礼拝説教
「深みに漕ぎ出して」(ルカによる福音書5章1節-11節)
■はじめに
前回のルカの福音書からの説教は先々週でした。ルカ4章のところから、イエス様がご自分の育ったナザレに行き、安息日に会堂で聖書を朗読されたときのことをお話しいたしました。いつものように会堂に行かれたイエス様から、いつものように集っていた、そこにいた人たちに大きな祝福が語られたことを見ることができました。
今日は5章に入ります。1節から11節までのところから、イエス様のおことばを味わいたいと思います。
ここは、イエス様がシモン・ペテロと交わしたおことばが中心になります。シモンが本名で、ペテロというのはイエス様から頂いた名前です。 ペテロとは「岩」という意味であります。ヨハネの福音書1章に、ケパ、すなわち「岩」とイエス様がシモンのことを呼んだ、と出てまいります。
■イエス様が舟の上からお話をなさった
1群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
イエス様は「ゲネサレ湖の岸べに立っておられました」。「ゲネサレ湖」というのは、「ガリラヤ湖」と呼ばれている湖のことであります。
ガリラヤ地方でのイエス様の評判は、高まるばかりでした。たくさんの人がイエス様のお話を聞くために集まっていました。「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いた」とあります。あまり大勢の人々が押し迫ってきたので、イエス様はお話をするのに不便を感じるようになりました。
ちょうどそこに、ペテロたちが漁に使った小舟が2そう寄せてありました。
2岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
ペテロたちはこの湖で魚を捕り、生計を立てていた漁師であったのでした。イエス様がご覧になると、漁師たちは漁が終わり、舟から降りて後始末の網を洗っているところでした。
その前の晩、彼らは夜通し漁をしていたのでした。徹夜で働いた彼らは、疲れた様子で、網を洗っていたことでしょう。ペテロもその中の一人でした。
イエス様は、すでにヨハネの福音書1章で、兄弟のアンデレに連れられてイエス様とお会いしました。また、マタイの福音書やマルコの福音書によれば、イエス様は、ガリラヤ湖の漁師であった、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネに「わたしについて来なさい」と声をかけられました。その呼びかけにこたえて、彼らはイエス様の弟子として歩み始めておりました。
このとき、ペテロとイエス様はそのような間柄であったのでした。そのペテロに、イエス様は声をかけられました。「ペテロ、お前の舟に乗せてもらうよ」と。
3イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
イエス様は、2そうの小舟のうち、ペテロの「持ち舟」であった舟に乗り、ペテロに陸から少しこぎ出してくれるように頼みました。イエス様は、その舟に座って、湖の岸辺に押し寄せてきた群衆にお話をなさったのでした。
お話が終わると、イエス様はペテロに声をかけられました。
■たくさんの魚が捕れた
4話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」このことばは、ペテロにとっては予想もしなかったことばでした。なぜならそれは、漁師であるペテロの常識を越えていたことだったからです。ガリラヤ湖の漁は、夜の間にやるものであったからでした。しかも、その晩は1匹もとれなかったのです。
ガリラヤ湖では、沖のほうの深いところにいる魚は、明るくなれば湖の底のほうへもぐってしまいます。長年、ガリラヤ湖の漁師であったペテロは、昼間は魚が捕れないことをよく知っていました。
ペテロはこれまで、イエス様から直接お声をかけていただいたり、お話を聞いたり、イエス様の奇蹟を目の当たりに見たりしてきていました。ですから、イエス様が不思議な力を持ったお方だということは分かっておりました。だから、ペテロはこう答えたのです。
5するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
漁師であるペテロが夜通し働いても、魚は一匹も捕れなかった。まして、もう明るくなってしまっているというのに。これから沖に出て、網をおろして魚を捕れとは……。
自分たちの経験や常識では捕れるはずがないのですが、イエス様がおっしゃるのだから、とその一点にかけて、ペテロは沖にこぎ出し、深みに網をおろしてみようと思いました。
イエス様が、そのようにペテロの思いを導いてくださったのでした。すでに弟子として歩み始めていたペテロに、今までの経験を越えて、新しい経験をさせるために、そしてより大きな恵みをペテロに経験させるために、イエス様は導き、そうするように言われたのでした。
ペテロは、このイエス様のおことばに従いました。ペテロは、イエス様のおことばに従ったのでした。
6そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
ペテロの常識がくつがえされました。ペテロは神であられるイエス様の力を見たのでした。おびただしい数の魚が捕れて、もう自分の舟だけでは入りきれない。網が破れそうになりました。
7そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
仲間の舟に助けを求め、「両方の舟いっぱいに」魚が上がり、「二そうとも沈みそうになった」のであります。
このとき、ペテロの中で何かがはじけました。今まで感じたことのない、厳粛なものが全身を貫きました。
私の目の前にいるお方、……このお方はどういうお方なのだろう。このお方は何もかも知っておられる。このお方の前で、私は何も隠しておくことはできない。
この瞬間、ペテロは、自分の心の奥底にあるものがすべてあらわになっていることが分かりました。自分は、このお方の前に立つことはできない。
ペテロは、イエス様の足もとにひれ伏して、「主よ」と呼びかけます。
■イエス様に従う
8これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
ペテロは、ここで初めて、イエス様に「主よ」と呼びかけました。今までは、イエス様を「先生」と呼んでいました。ペテロにとってイエス様は、これまで良いことを教えてくれる先生、病気を治してくださる先生だったのです。それが、今この出来事を通して、初めてイエス様が自分の主であることを悟ったのでした。このお方に従いたい、このお方のもとで生きていきたいと思ったのでした。
しかし同時に、ペテロはそのお方にふさわしくない自分を知らされました。ペテロはイエス様の足もとにひれ伏して、言いました。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」
ガリラヤの湖の底まで見通す力をもって、自分の心の底まで見抜かれてしまうという恐ろしさ。それは、ペテロだけではありませんでした。そこにいた「みなの者も」同じように恐れたのでした。
しかし、イエス様はその恐れを取り除くために、イエス様のほうから声をかけてくださいました。
10シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
「私から離れてください、あなたといっしょにいることができません。私は罪人ですから」と知った時に、イエス様のほうから、「こわがらなくてもよい」とおっしゃってくださいました。それは、ペテロのすべてを知って、それをそのまま受け入れてくださろうとしている、イエス様のお声でした。
ペテロは、自分がイエス様によって赦され、そのまま受け入れられることを知りました。
こののち、ペテロは罪深い自分が赦されるということを事あるごとに知らされていきました。そして最後には、イエス様が十字架で死んでくださったことの意味をはっきりと悟っていくのです。
そのことをペテロは、晩年、ペテロが書いた手紙の中でこのように書きました。ペテロの手紙第一、2:22-24です。
「22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
イエス様はペテロに、もう私から離れなくてもよい。あなたの罪は赦されたのだから、そのありのままでついて来るようにと召してくださったのでした。
イエス様のお心がわかったペテロは、……そして、そこにいたヨハネ、ヤコブも、みな「何もかも捨てて、イエス様に従った」のでした。すでにイエス様の弟子として歩み始めていた彼らでしたが、この出来事を通して、さらに深くイエス様のおこころを知り、従う決心をしたのであります。
今日も、ここにいる私たち一人一人にも、イエス様は声をかけてくださっているのです。「こわがらなくてもよい」、私はあなたがたの罪を赦します。わたしが、あなたがた一人一人の罪のため、十字架にかかって死んだのです。私を信じなさい。私といっしょに歩みなさい、と。そのようにイエス様は今日、声をかけてくださっているのです。
■まとめ
4-6節をもう一度お読みいたします。
4話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。5するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」6そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
ここから、2つのことを考えたいと思います。
第1に、イエス様が、もう一度「深みに漕ぎ出して」みなさい、とおっしゃったということであります。
私たちの歩みの中にも、もしかすると、魚が一匹も捕れないという状況があるかもしれません。夜通しやってみた。でもだめだったというような状況です。そのようなときに、神様が声をかけてくださって、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と励ましてくださることがあります。
私たちが「やってもダメだったんです」と言いたくなるような場合でも、もし神様が、もう一度、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われるなら、「おことばどおり、網をおろしてみましょう」と答えることができる信仰を与えられたいと思います。
「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。」このように、神様の約束を見させていただきましょう。
第2に、イエス様のみこころということを少し考えてみましょう。ペテロは一晩中漁をしましたが、一匹も魚が捕れませんでした。魚を捕ることはペテロの生活の糧でありましたから、イエス様のおことばに従って舟が沈みそうになるほど魚が取れたことは、大変な喜びであったはずです。
成功した漁師になる。これがペテロの進むべき生涯だったのでしょうか。イエス様のみこころは、そうではありませんでした。ペテロは魚をとる漁師ではなく、人間をとるようになる。これがイエス様のみこころでした。
人間を捕るというのは、人をイエス様のもとへ連れて行くと言うことです。このイエス様のおことばのとおり、ペテロは人々をイエス様のもとへ導く人になりました。
ペテロにとって、漁師として魚が捕れるか捕れないかということは、もう大きな問題ではなくなりました。神様は、もっと大切な使命をペテロに用意しておられたからです。
私たちも、それぞれがいろいろな願いを持って暮らしています。なかなか願いがかなえられなくて、失望することもあるかもしれません。あるいは、願いがかなえられて、喜び踊ることもあるでしょう。
しかし、そのような失敗や成功に思える出来事とは別に、それらを越えたところに、さらに深い神様のみこころがあるかもしれない、ということなのです。そして、それは、それぞれにふさわしく神様が用意していてくださるもので、一人一人が神様から示されていくものなのです。
神様は、私たち一人一人をよくご存じであられ、一人一人に最も良い道を備えてくださる愛のお方です。ですから私たちは、今ある状況の中で、もう一度「深みに漕ぎ出して」網をおろしてみることと同時に、神様のみこころは何なのかということを、いつも求めて祈っていきたいと思います。
これからのゆりのきキリスト教会の歩みの上にも、神様のみこころが示されますようにと祈ります。
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