ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2006年6月25日
2006年6月25日 主日礼拝説教
「わたしの心だ。きよくなれ」(ルカによる福音書5章12節〜16節)
■はじめに
先週は旧約聖書のエズラ記からでしたが、今日はまたルカの福音書に戻ります。前回はルカ5章1-11節のところから、魚が一匹も捕れなかったペテロに、イエス様がもう一度「深みに漕ぎ出して」みなさい、とおっしゃったところを読みました。
私たちが「やってもダメだったんです」と言いたくなるような場合でも、もし神様が「もう一度、深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われるなら、「おことばどおり、網をおろしてみましょう」と答えることができる信仰を与えられたいと思います。
さて今日は、イエス様が「わたしの心だ」とおっしゃったおことばから、「わたしの心」とはどういうことなのかをごいっしょに見てみたいと思います。
■ツァラアト
12さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」
新改訳聖書第3版で最も変わった個所は、この「ツァラアト」ということばです。ツァラアトは、これまで、「らい病」と訳されてきました。日本ではハンセン病患者の方々が不当な差別を受けてきた歴史があります。今もその方々は、差別に苦しんでおられます。
また、聖書が訳してきました「らい病」ということばも、ハンセン病と同じではないことが分かってきました。それで新共同訳聖書は、「重い皮膚病」と訳しましたが、「重い皮膚病」だけでは、表現しきれないさまざまな問題を含んでおります。そこで、2003年に発行された新改訳聖書第3版では、ヘブル語をそのまま使って「ツァラアト」と改訂しました。
さて、この12節に「イエス様がある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた」とあります。
12節は、ギリシヤ語で直訳すると、このようになっています。「ある町にイエスがおられたとき、このようなことが起こった。すなわち、見よ。レプロスに満ちた人がいた。」訳されてはいませんが、ここには「見よ」ということばがあります。「見よ、そこに全身ツァラアトの人がいた」ということでしょうか。「見よ」ということばは驚きのことばです。聖書では、目を見張るような新しいことが起こるときに使われます。
さらに、「全身ツァラアト」とあります。その人は、すでにツァラアトが進行し、それが全身をおおっていたのでした。
このツァラアトに冒された人たちの生活は大変なものでした。病気自体も悲惨なものでしたが、彼らは健康な人たちの交わりに入ることが許されませんでした。
旧約聖書のレビ記13章に、ツァラアトについての教えがあります。その中で、次のような一節があります。
「45患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、「汚れている、汚れている」と叫ばなければならない。46その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」
このように決められていました。悲しいことに、この病は汚れたものと見なされていたのです。
ツァラアトに冒された人は、神殿に礼拝に来ることを禁止されました。そればかりか、汚れているということで、人々から隔離されて町の外で生活していました。やむなく人中を歩くときは、「汚れている、汚れている」「汚れているから、私に近づかないように」と叫び続けながら、自分の汚れがほかの人に移らないようにしなければなりませんでした。
医者も、祭司も、だれも癒してはくれません。なんという悲しさでありましょうか。
■イエス様に近づく
このようなツァラアトに全身を冒された人が、「汚れている、汚れている」と叫びながら、イエス様の前までやって来たのです。このとき彼は、人々の目を恐れず、ただイエス様に会いたいという一心で、イエス様だけを求めて歩き続けて来たのです。石が投げられたでしょう。人々からのさげすみもあったでしょう。そのような中、彼はイエス様の前に出てきたのでした。
ツァラアトの人は、イエス様を見ると、ひれ伏してお願いしました。彼は、自分の悲惨な病気と、孤独の中、イエス様に求める以外になかったのです。
「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」彼は、「お心一つで、私はきよくしていただけます」と言いました。「お心一つで」とは、なんと謙遜な願い方でしょうか。
「あなたがそれを望んでくだされば」と言い、そして、「私はきよくしていただけます」と願ったのでした。
彼は、イエス様を信じていました。イエス様が病を癒すことのできるお方であることを告白し、イエス様がこの病を癒してくださると信じていました。
しかも彼は、それだけではありません。自分がきよくしていただけるかどうか、それはイエス様のお心一つ、という信仰を持っていました。
イエス様の「お心」であれば、感謝。もし癒されなくても、それもまた主のお心。そのような信仰をもって、イエス様に近づいたのでした。
■イエス様がツァラアトにさわる
13イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。
イエス様は、口を開く前に、即座に「手を伸ばして」このツァラアトの人にさわられました。
ツァラアトにさわる。当時の教えでは、ツァラアトに触れるどころか、見るだけで、またその人の風下に立つだけで汚れると教えられていました。そのように言われていたツァラアトの人に、イエス様は手を伸ばしてさわられました。これは、イエス様がこの人のツァラアトを、その汚れを自ら引き受けるためでした。
旧約聖書のイザヤ書53章にこのようなみことばがあります。今日の交読文でお読みしました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」と。
このように、だれとも交わりを断たれていたツァラアトの人に、さわるという行為を通して、イエス様は交わりの手を差し出してくださったのでした。主イエス様の深い愛の行為であります。
群衆はこわがって、あとずさり、弟子たちも遠巻きに立っていたことでしょう。でも、ただ一人、世界でたった一人、イエス様だけが手を伸ばし、その患部にさわってくださったのです。
ツァラアトの人は「お心でしたら」、あなたが望んでくださるなら、と信仰によってお願いしましたが、イエス様はそれに答えて、「わたしの心だ。きよくなれ」、「私はそのように望む、あなたはきよくなれ」とおっしゃってくださいました。
ツァラアトに冒された人がきよめられることは、イエス様のみこころでありました。罪に汚れており、神の前に出ることさえも禁止されていた者が、きよめられて神様の前に出ることができるようになる。これがイエス様のお心でした。
そして、イエス様のおことばどおり、直ちにツァラアトは消え、きよくなりました。
■イエス様が命じられたこと
イエス様は、癒された人に命じました。
14イエスは、彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
イエス様が命じられたことは、「だれにも話してはいけない」と、きよめられた自分を祭司に見せなさい、でした。
この当時、ユダヤの民衆はローマ政府の支配のもとにあり、人々はこの圧政から解放してくれるメシヤの出現を待望していました。しかし、イエス様が来られた目的は、そのような政治的解放のためではありませんでした。イエス様は、人類を罪から救うために、ご自分の身にすべての人々の罪を背負い、十字架で死ぬためにこの地上に生まれてくださったのでした。
そのことを人々がまだよく分からないうちは、まだ黙っていなさい、と命じたのでした。
またイエス様は、きよめられた自分を祭司に見せなさい、と命じました。
彼はただ癒されただけではなく、宗教的にきよめられたことが証明され、社会的に受け入れられる必要があります。ですから、イエス様が言われたことは、きよめられたこの人が社会に復帰できるための配慮でした。病気が癒されるだけでなく、普通の人として受け入れられ、普通の生活が送れるようにと温かい配慮をされたのです。
神様との関係が回復され、罪を赦された人が社会に出て、普通の暮らしをすること。それがイエス様の、もう一つのみこころでした。
イエス様が「だれにも話してはいけない」と命じられたことは、どうなったでありましょうか。
15しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。
口止めをしても、イエス様のうわさは、ますます広がっていったのでした。
■イエス様の祈り
しかし、そのようなとき、イエス様はよく荒野で祈られた、とあります。
16しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。
イエス様の祈り。それは、一つは疲れを覚え、それを癒すための祈りであろうと思います。
またそれは、ご自分の評判がますます高まっていく中で、繰り返し、神様のみこころを求めるために退かれて祈った祈りでありました。
この時、イエス様に向けられた評判は、この世での評価でありました。そのような評判は一時的であり、人の心が変わりやすいものであることをイエス様は知っておられました。
はたして、人々の心は十字架を前にして変わりました。人々は、イエス様が十字架につけられたとき、「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」、「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」と言いました。
神の子なら何でもできるのに、どうして十字架から降りて自分を救わないのか、という人々の声でありました。
イエス様は、十字架にかかられる前に、ゲツセマネでこう祈られました。ルカの福音書22:42です。
「42父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
イエス様はいつも父なる神様のみこころを求め、そのみこころに従いたいと願っていたのでした。
■まとめ
ツァラアトの人は、イエス様のみこころを求めました。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」イエス様は言われました。「わたしの心だ。きよくなれ」と。
これはまた、私たちの願いであり、イエス様の私たちへのことばであります。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」「わたしの心だ。きよくなれ。」
イエス様は、私たちの罪や汚れに対して、どこまで「わたしの心だ。きよくなれ」とおっしゃってくださるのでしょうか。人間の罪や汚れに対するイエス様の心は、無限であります。イエス様に許せない罪はなく、忍耐できない汚れはないのです。
イエス様は「わたしの心だ」とおっしゃってくださいます。私たちの罪が赦されること。それは、私たち以上にイエス様が望んでくださっているのです。そのために、イエス様は十字架で死んでくださったのでした。招きのことばでお読みしました。第2コリント5:21です。
「21神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
私たちは、きよい神様の目から見るならば、みな罪に汚れている者であります。とうてい神様の前に出ることができない者であります。また、この汚れた自分を、本当の姿を人目にさらすことのできない者であります。
イエス様は、この私たちの罪の汚れに触れてくださり、私たちの汚れを引き受けてくださいました。そして、このツァラアトの人の汚れも、私たちの罪と汚れも共に担って、ゴルゴタの丘で十字架にかかってくださったのです。
私たちがイエス様に、「お心一つで、私はきよくしていただけます」と願うならば、イエス様は「わたしの心だ。きよくなれ」とおっしゃって、私たちの罪を赦してくださるのです。
私たちはみな、イエス様の十字架を信じて、救われたことを感謝します。そして、多くの方が、神様の前に出て、神様のお心にふれてほしいと思うのです。
今週もイエス様に救われたことを感謝し、イエス様のおこころを信じて、共に歩んでまいりたいと思います。
ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2006年6月25日