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2006年7月16日 主日礼拝説教
「罪人を招いて、悔い改めさせるために」(ルカによる福音書5章27節〜32節)
■はじめに
先々週、ルカの福音書5:17-26を読みました。屋根をはがしてまでもイエス様のもとに来た中風の人の信仰、そして、その人を連れてきた人たちの信仰をイエス様はご覧になりました。
イエス様は、中風の人に「あなたの罪は赦されました」とおっしゃってくださいました。イエス様は罪を赦す権威をもっておられる、神の御子であられます。私たちのすべてを、私たちの罪も弱さもすべて知っていてくださるそのお方が、「あなたの罪は赦されました」と言ってくださっているのです。
■取税人マタイ
27この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。
ここに「レビ」という人が出てまいります。レビは後にマタイと呼ばれるようになり、マタイの福音書を書いた人であります。マタイの福音書の中で、彼は自分のことを「取税人マタイ」と書いています。今朝は、レビではなくマタイという名前でお話をしていこうと思います。
ところで、この「取税人」というのは、どのような人だったのでしょうか。この時代、ユダヤの国は、ローマ帝国に支配されていました。そのローマに代わって税金の取り立てを請け負っていたのが、取税人でありました。
ローマに納める税金の額は決まっていましたので、その額を納めさえすれば、実際に取税人が人々からいくら徴収しようが、ローマは関知しないところでした。ですから、取税人の中には、決められたもの以上に取り立てるのが当たり前。彼らは私腹を肥やし、金持ちとなり、ユダヤ人から嫌われて、裏切り者、罪人と見なされていたのでした。
ユダヤの書物に、「人殺しと泥棒と取税人には嘘をついてもいい」と書かれているほど、人々は取税人を嫌い、憎んでいました。
さて、そのような取税人の一人であったマタイが、「収税所にすわって」仕事をしていました。
ルカの福音書では、マタイがいた取税所がどこにあったか記されていませんが、他の福音書を見ますと、ここがカペナウムの収税所であったことがわかります。ここでマタイは、ガリラヤ地方に運び込まれる品々に税金をかけて、それを徴収する仕事をしていたのでした。
取税人は、人々に嫌われていた職業ではありましたが、だれでもがなれるわけではありませんでした。通行人との交渉や、ローマとのやりとりのために、アラム語やギリシヤ語の教養が必要でしたし、物を書いたり計算することの知識も必要でした。それに、ある程度、顔の利く、町の有力者でなければつけない仕事であったと思われます。
このように、かなりの能力を要求される仕事であったにもかかわらず、人々からは尊敬されず、それどころか会堂に入ることも許されないほど、さげすまれていたのです。
マタイは、収税所に座りながら、自分はこのままでいいのかと、何度となく自問したことがあったのではないでしょうか。
■イエス様がマタイに声をかけてくださる
そんなマタイの前に現れたのが、イエス・キリストでありました。この時、イエス様のほうから収税所におもむいてくださり、イエス様のほうからマタイに目を留めて、じっとマタイを見られて、声をかけてくださったのでした。
この「目を留める」ということばは、原文では、驚きをもって見る、見つける、という意味をもったことばが使われています。
イエス様は、マタイを見つめてこう言われました。「わたしについて来なさい」と。
マタイは、このイエス様のひとことで「何もかも捨て」るほどの決断をしました。マタイはそれまで、イエス様の教えやみわざについて、噂を聞いており、深い関心を寄せていたのではないかと思われます。
マタイは収税所で仕事をしていました。収税所には、仕事柄、いろいろな人が出入りします。町で起こった出来事は、何でも入ってきます。病を癒し、貧しい者の友となってくださるイエス様のところに、マタイも出かけて行って、その説教を群衆に交じって聞いたこともあったかもしれません。
マタイは、イエス様から「わたしについて来なさい」と言われたとたん、喜びにあふれました。 イエス様が私を呼んでくださった。私のような、この取税人である私をイエス様が呼んでくださった。人々からさげすまれ、のけ者にされていた私を。
■マタイがとった行動
28するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
3つのことばによって、マタイがとった行動が描かれています。「捨て」「立ち上がる」「従う」です。
イエス様の招きに応じて、マタイは「何もかも捨て」ました。「何もかも捨て」て、イエス様についていったら、もう二度と元の仕事に戻ることはできないでしょう。また、もと取税人が他の職業に就くことは大変なことでした。そういう情況の中で、マタイは「何もかも捨て」たのでした。
そして、「何もかも捨てた」マタイは、「立ち上がった」とあります。「立ち上がる」という、このことばは、何かをするために決意をもって立ち上がる、という意味のことばです。
また、このことばは「生き返る」「よみがえる」という意味で使われています。イエス様が「三日目によみがえります」とおっしゃった時の、この「よみがえります」ということばと同じです。イエス様に呼ばれて立ち上がる、ということに、これほどの深い意味と決意が込められているのです。
信仰とは、主の招きのことばを聞いて立ち上がることです。罪の中に座り込み、この世の流れに流されていたら、その行き着く先は滅び以外にありません。主は、私たちを立ち上がらせ、喜んで従っていく新しい生活に導いてくださるのです。
「何もかも捨てて」「立ち上がった」マタイは、イエス様に「従った」のです。「従う」ということは、呼ばれた人について行くことです。そして、「従う」ということばは、同じ道を歩むという意味であります。
イエス様に呼ばれて「立ち上がった」人は、そのままイエス様といっしょに歩いて行くのであります。
私たちの現実の歩みからわかるように、その道は決して平坦な道ばかりではありませんが、いつも主が共にいてくださり、力づけてくださり、励ましてくださって、主のみことばによって、心燃やされる歩みになっていくのです。
■マタイが催した宴会
イエス様に従ったマタイが、次にしたことは何だったでしょうか。マタイは、自分の家にイエス様をお招きして大宴会を催します。
29そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。
主賓はイエス様でありました。イエス様にお会いし、声をかけていただいた喜びと感謝の心を示す宴会でした。この宴会の喜びは、マタイがイエス様に示すの精いっぱいの感謝と愛の心でした。
そしてマタイは、そこに、自分の同僚であった取税人仲間たちを呼んだのでした。それに「ほかに大ぜいの人たち」を招き、宴会場がいっぱいになったのでした。「ほかの大ぜいの人たち」とは、世間からつまはじきになっていた「罪人」と呼ばれる人たちでした。
この宴会は、マタイがこれまでの取税人仲間に、自分が仕事を辞めるという、別れを告げる宴会であったでしょう。もう一つは、自分の身に起こったすばらしい出来事を仲間や友人に伝えるためでした。
共に「食卓に着く」というのは、深い親しい交わりを意味していました。ですから、律法に忠実なユダヤ人たちは、罪人や異邦人と共に食事をすることはありませんでした。
■パリサイ人たちに答えて
ところがイエス様は、その習慣を破られたのです。イエス様は、取税人や罪人といっしょに食事をなさいました。それは、イエス様が罪人と同じようになられたことを証しするためでした。また、天の御国では、そのような罪人たちが受け入れられることを示すためでした。
しかし、この宴会の様子を見て、つまずいた人たちがいました。パリサイ人、律法学者たちです。彼らは、罪人や、異邦人とは食事を共にしないことを誇っていました。彼らは、イエス様の弟子たちに向かって、つぶやいて言いました。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」
それに対して、イエス様はこのように答えられました。
31そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。32わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
医者を必要とするのは病人であります。ですから、丈夫な人は医者を必要としません。イエス様は、ご自分を医者であると言っておられるのです。イエス様は、救いを必要とする罪人のために、この世に来てくださいました。
救い主を必要としない人は一人もいないのですが、自分は正しいと思っている限り、救いの必要を感じられないのです。パリサイ人たちは、自分たちが救いを必要としている罪人であることを自覚していませんでした。
私たちはみな、イエス・キリストというまことの医者を必要としています。私たちはみな、イエス・キリストというまことの救い主を必要としています。
主イエス・キリストは、取税人であったマタイだけではなく、すべての罪人のところに来てくださり、罪人の友となってくださるお方であります。
イエス様は、最後の晩餐のあと、弟子たちに、こう言われました。ルカの福音書2:37です。
「あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」
そして、イエス様は捕まり、裁判にかけられ、十字架にかけられてしまったのでした。それはみな、イエス様が罪人の中に数えられ、罪人の友となり、罪人といっしょに食卓に着いて、一人一人を招いてくださるためでした。
■まとめ
イエス様がマタイを招かれ、そしてその後の宴会に罪人たちと同席したのは、彼らのために十字架で苦しまれるためでした。イエス様はそのことのために来られたのでした。
今日の招きのことばで読みました。ルカの福音書15:4-7です。
1匹の羊が迷子になってしまった。羊飼いは、自分の持っていた羊99匹を残して、その迷子になった羊を探して歩くのです。そして、やっと見つけた羊を連れて、助け出してくれる。そして、友達、近所の人に言うのです。
6帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。7あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
この羊飼いの姿がイエス様のお心なのです。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
迷子になった1匹の羊、医者を必要とする病人、罪人は私たちのことでした。
新聖歌251に「主イエスのみそばに」という歌があります。
主イエスは医者なり その御手もて
いかなる傷をも いやしたまわん
贖い主よ われをそこに
かくまいたまえ み恵みもて
イエス様はどんな傷をもいやしてくださいます。そしてイエス様は、どんな罪人も赦してくださいます。
そのことを信じて、イエス様に従う者とされた私たちの喜びと感謝を主にささげたいと思います。
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