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2006年7月23日 主日礼拝説教
「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」(ルカによる福音書5章33節〜39節)
■はじめに
前回は取税人であったレビ、のちにマタイと名乗るようになりますが、その取税人であったマタイがイエス様の弟子として召され、その後、感謝の宴会を開いたところの個所を読みました。
その宴会の場にいたパリサイ人たちが、イエス様のなさっていることに対して非難の声を浴びせました。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」と。
それに対してイエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」と答えられて、ご自分は、そのような救いを必要としている取税人や罪人を救うために来たことを語りました。
今日の箇所は、その問答に続いて、パリサイ人たちからさらに投げかけられた非難の声から始まります。
■なぜ断食をしないのか
彼らはイエス様に尋ねました。どうして、あなたの弟子たちは断食をしないのですか。あなたがたは、取税人や罪人たちといっしょになって、飲んだり食べたりしている。あなたが罪人を救うために来たのなら、弟子たちも断食をして、祈るべきではないのですか、と。
33彼らはイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」
ユダヤの教えでは、断食は罪を悲しみ、罪を悔いるしるしとして、また神様への熱心さを示すしるしとして広く行われていました。イエス様がいた時代には、熱心なパリサイ人は週2回、断食することになっていました。
ここに出てくるヨハネというのは、イエス様がおいでになることを知らせたバプテスマのヨハネのことで、ヨハネの弟子たちも、悔い改めのしるしとして断食を行っていたようです。そのような大切な断食であるのに、どうしてイエス様は弟子たちに断食をさせないのか、と疑問に思ったのでした。
イエス様は、その問いかけに対して、どうして断食をしないかを、たとえをもって語られました。
34イエスは彼らに言われた。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。35
しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」
ここで「花婿」というのは、主イエス様のことです。「花婿につき添う友だち」とは、イエス様の弟子たちのことであります。
いま日本の結婚式では、結婚式の後、2,3時間の披露宴をしておひろめということになるでしょうか。しかし、当時のイスラエルでは、1週間くらい、通しで新郎の家に友人たちを招いて結婚式が行われたそうです。招かれた友人たちは、ご馳走を食べ、新郎新婦と喜びを共にする、というのが普通のやり方でした。
このような婚礼の席で、「花婿につき添う友だち」が断食をするでしょうか。そんなことはしないでしょう。それは失礼に当たることでした。断食は、婚礼の場にはふさわしくありません。
イエス様の弟子たちも、今は断食をしないと言います。それは、イエス様といっしょにいる今の生活が、婚礼の席にたとえられるような喜びの場であるからです。イエス様といっしょにいる間は、イエス様ご自身がこの上ない喜びの源でありますから、断食は必要ないのです。
しかし、この喜びがいつまでも続かない、とイエス様は言われます。この花婿が取り去られる時が来るというのです。それは、主イエス様が捕らえられ、十字架にかかられる時です。
弟子たちは、今はイエス様といっしょなので断食をする必要はないけれど、ひとたびイエス様が取り去られたならば、イエス様がなくなられたことで、悲しみでいっぱいになります。弟子たちは悲しみと失望のあまり、食事がのどを通らなくなってしまうほどになり、その時に始めて、弟子たちは悲しんで断食をする、というのです。
イエス様が共にいてくださる歩み。それは、悲しみが取り除かれる歩み、喜びに満ちあふれる歩みです。大切なことは、断食するか、しないか、ということではなく、イエス様が共にいてくださるかどうかなのです。
パリサイ人たちは、神様への敬虔を断食によって表そうとしました。断食という形を守ることで、神様への信仰の深さを確認しようとしたのでした。しかし、イエス様はそのような形式主義にとらわれることなく、イエス様との交わりの中でわき出てくる思いがすべての行動を決定する、と説いたのでした。
イエス様との交わりから出てくるものは、すべて自由なものであり、自発的なものです。だれも強制されて、何かをする必要はありません。キリスト者にとって、喜びも悲しみも強制ではなく、自発的であるというのです。
このような主イエス様と共に歩む、自由な生き方を知った人は、今までとは違った、全く新しい生き方が始まります。その新しい生き方とは、今までの古い生き方とは相容れない生き方であります。
そのことをイエス様は、2つのたとえをもって語られました。一つは新しい着物と古い着物、もう一つは新しいぶどう酒と古い皮袋のたとえです。
■新しい着物と古い着物
36イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。
古い着物の継ぎをするのに、新しい布きれは使いません。古い布地は新しい布地に負けてしまうのです。新しい丈夫な布きれで古い着物に継ぎをしようものなら、新しい布によって古い着物の破れはさらに広がってしまいます。繕ったつもりが、かえって悪くなってしまうのです。
継ぎが当たっている着物で思い出すことがあります。
今は生地も丈夫になり、また経済的に裕福になりましたので、あまり継ぎの当たった服を着ている人を見かけなくなりました。私が小学校のころは、まだ社会全体が貧しい時代でしたので、家庭科の時間に、継ぎの当て方を習う時間がありました。家からかぎ裂きになった服や、穴のあいた靴下やシャツを持ってきて、直すのです。
立ち入り禁止の鉄条網。あんな危険なものは今はなくなってしまいました。子どもたちは、そこをもぐって遊んでいるとき、針金にひっかけて穴をあけてしまうのです。どこの家にも、そんな破れたものがたくさんありました。
私は父が着ていたワイシャツを持っていきました。その作品が展覧会に並べられたことを今でも覚えています。
父が2か月前の4月27日になくなり、体型が似ていたので、着ていたものはみな私がもらってもよい、ということになりました。でもそれらは、みな新品同様のものばかりです。50年近くの年の流れを感じました。
私はこのたとえを読むたびに、父のこと、継ぎ当ての練習をした家庭科の時間を思い出します。
イエス様の弟子たちに断食を要求すること。それは、古い着物に新しい布きれで継ぎをすることと同じです。主イエス様と共に歩むという新しい生き方を知った弟子たちに、
古い律法を要求すること。それは、その継ぎ当てのように不釣り合いで愚かなことであると言うのです。
イエス様がもたらしてくださったもの。それは、今までの教えの枠には収まらない新しい生き方でありました。古びた着物のようになっていたパリサイ人の教え。それは、ああしなければいけない、こうしてはならないと、数え切れないほどの決まりを作り、そうすればするほど、あちこち穴が開いてしまう古い教えでした。
継ぎ当てをして、もたせようとする信仰生活。それは、古いものの上に新しいものをくっつけて、古いものも新しいものもダメにしてしまう信仰であります。
私たちがイエス様から与えられたもの。それは全く新しい信仰生活であります。私たちの信仰生活は、自由な信仰生活です。そのような、何ものにもとらわれない信仰生活であるように、と教えられます。
■新しいぶどう酒と古い皮袋
新しい生き方は古い生き方と相容れないことを教える2つ目のたとえとして、イエス様は新しいぶどう酒と古い皮袋のたとえを語られます。
37また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。38
新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。
この「新しい酒は新しい皮袋に」ということばは、有名なことばです。 国語辞典によれば、「新しい考えや物事は、古い形式によらず、新しい形式や方法で表現すること」という意味であります。
では、聖書が教えている意味はどういうことでしょうか。まず、当時使われていた皮袋です。ぶどう酒や水を蓄えておくために用いた皮袋というのは、羊や山羊の皮で作った袋です。長く使っていると、その皮袋は、弾力性を失い固くなっていきます。
そういう古い皮袋に作ったばかりの新しいぶどう酒を入れますと、ぶどう酒の発酵する圧力が皮袋にかかり、弾力性を失った古い皮袋では裂けてしまうというのです。そうなったら、せっかく作った新しいぶどう酒も古い皮袋も、両方ともダメになってしまいます。
主イエス様が教えられた新しい教え。イエス様が示された新しい救いへの道。それは、今までパリサイ人たちが守ってきたものとは全く違うものであり、古い皮袋を突き破ってしまうほど力強く、いのちに満ちて喜ばしいものであるというのです。
だから、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません」。
イエス様に救われて新しくされた信仰は、はち切れるようないのちと、内側からわき出てくる力にあふれています。そして、そのような信仰生活には、新しい皮袋のように弾力性のある、新しい生き方がふさわしくなるのです。
イエス様は最後に、こう語られました。
39また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです。」
イエス様は、パリサイ人たちが古い生き方にこだわって、イエス様が示した新しい生き方を望もうとしない。そのことを問題にしました。
パリサイ人や律法学者たちは、「古い物は良い」と思いこんでいますから、イエス様のように、律法に縛られない、自由な新しい生き方を理解できませんでした。その思いが、ついにはイエス様を十字架にかけてしまうという結果を生み出してしまったのでした。
■まとめ
イエス様から新しいいのちをいただいて新しく生きるということ。それはどういう生き方でしょうか。イエス様は「やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します」と語られました。
「花婿が取り去られる。」それは、イエス様が十字架にかかられることでした。十字架で死なれたあと、3日目にイエス様はよみがえられました。イエス様が、十字架で私たちの罪の代わりに死んでよみがえられたので、それを信じるすべての人に、罪の赦しと新しいいのちが与えられました。
主イエス様はご自身を十字架につけて、私たちを罪から救ってくださいました。そのことを信じ、受け入れること。それが私たちに与えられた信仰であり、新しい生き方であります。
神様が与えてくださった信仰とは、古い生き方の仕立て直しや継ぎはぎではなく、全く新しい生き方なのです。
信仰に生きるということは、全く新しい変化をもたらします。私たちは、もはや律法によって縛られる必要はありません。そのような古い生き方から解放されたのですから、すべてが新しくなるのです。
私たちがイエス様からいただいた新しいいのちは、新しい生き方の中で熟成していきます。新しいぶどう酒は新しい皮袋の中で発酵し、良い香りを放って、私たちに尽きることのない喜びを与えてくれるでしょう。
聖書はこのように、私たちに教えています。ピリピ人への手紙4:4です。
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」
私たちは、イエス様を信じることによって、罪ゆるされた者として喜びをもって信仰生活を送っている。それが新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れる信仰生活です。そのような歩みを、今週もともに歩みたいと思います。
いさおなきわれを、血をもってあがなってくださった。そのイエス様の招きにこたえて、歩みたいと思います。
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