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2006年8月6日 主日礼拝説教
「安息日の主」(ルカによる福音書6章1節〜11節)
■はじめに
前回のルカの福音書は、5章33節から39節よりお話をいたしました。
イエス様から新しいいのちをいただいて新しく生きるということ。それはどういう生き方であるかを考えてみました。神さまが与えてくださる信仰によって生きるということは、古い生き方の仕立て直しや、継ぎを当てるようなものではなく、全く新しい生き方なのだということでした。
そして「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」入れるということでした。新しいいのちである信仰は、熟成し、良い香りを放って、私たちに尽きることのない喜びを与えてくれる。そのようなことをお話をさせていただきました。
さて今日の個所は、その続きのところであります。安息日に起こった2つの出来事からなっています。5節までと、それ以降です。
■麦畑のイエス様と弟子たち
1ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。2すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
ある安息日に、イエス様と弟子たちは麦畑を通っておられました。麦が穂を出し、色づく、刈り入れも間近のころです。これは、ガリラヤ地方の5月ごろのことです。
マタイ12章を読みますと、イエス様の弟子たちは、このとき「おなかがすいていた」とあります。イエス様は、ガリラヤの町々、村々を歩きながら、みことばを語り、病める人々を癒しておられました。そのような生活の中で、イエス様も弟子たちも疲れ、空腹を覚えた。ちょうどそのような時に、一行はこの麦畑を通ったのでした。
弟子たちが、そこで麦の穂をつんで食べ始めた。それをあるパリサイ人たちが見ていて、とがめたというのです。
黙って人の畑に入り、麦の穂をつんでを食べたことがいけなかったのではありません。この「麦の穂を摘む」ことは、律法に触れることではなく、むしろユダヤ社会では、許されていたことでした。他人の畑であっても、通りがかりに、鎌を使わなければ、手を使って麦の穂をつむことは許されておりました。
これは、ユダヤ社会で、貧しい人や飢えた人を助けるための律法であったのでした。
だから、おなかがすいていた弟子たちが、安息日に麦の穂をつんで食べたのは決して悪いことではありませんでした。問題は、「安息日には仕事をしてはならない」という規定に違反しているということでした。
■安息日の主
ここで、当時の安息日の規定についてお話ししておきましょう。
安息日を守ることは、モーセの十戒に規定されていて、ユダヤ社会では特に重んじなければならないことでした。
先ほど、申命記5章を交読でお読みしました。そこに安息日のことが書かれていました。
「12安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。13六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。14しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」
この教えを、実際どのように守っていくのかということで、ユダヤ教ではたくさんのきまりが作られていました。
その中に「安息日にしてはならない仕事」のリストがあります。「安息日を聖なる日とするように」ということよりも、「どんな仕事もしてはならない」という後半の禁止規定のほうに力点が置かれた結果、安息日にしてはいけない仕事が次々とリストに加えられ、千以上の禁止条項があったというのです。
その禁止の中に、麦を収穫すること、麦を脱穀することがありました。
ですから、弟子たちが麦の穂をつんだことは収穫したことであり、手でもんだことは、脱穀をしたとみなされたのでした。
それに対して、イエス様は答えられました。
3イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。4ダビデは神の家に入って、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」
イエス様は、パリサイ人たちの追求に対して、旧約聖書の出来事を引いて答えられました。Tサムエル記21:1-6に記されている出来事です。これは、ダビデがサウル王の怒りを避けて逃げ出した時でした。逃げて来たダビデは、祭司の所に立ち寄ります。そこで、おなかがすいていたダビデと家来たちが、神殿にささげられていたパンを祭司からもらって食べたのでした。
律法によれば、このパンは祭司だけが食べることを許されていたものでした。
しかし、イエス様の弟子たちは、このときダビデのような緊急事態であったのでしょうか。どうも、もっと気楽に食べたように感じられます。
ですから、イエス様はダビデの例を出して、律法は変えられることもあることを示して、本当に言いたかったのは、このあとに続く5節のほうだということになってきます。
5節を読んでみましょう。
5そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」
「人の子」とは、イエス様がご自分を指すとき使われたことばです。ご自分が神の子、救い主であることを表すことばとして使われました。
イエス様はご自分を「人の子」と呼んで、ご自分が神の子であること、救い主であることをお示しになり、ご自分に、安息日にどうするかを決める権利を持っているのだ、と宣言されたのでした。安息日の主、神の子であるイエス様ご自身が、弟子たちのしていることを許しているのだから、それでよいのだ、というのです。
パリサイ人たちの安息日は、禁止条項ばかりで、それがいつの間にか人を束縛していたのでした。律法を守ることに縛られていたパリサイ人に対して、イエス様は、本来、律法は人の生活を守り、豊かにするものであるということを教えられました。
ですから、安息日は、規則に縛られた日ではなく、自分たちを創造し、自分たちを愛し、守ってくださった神様に感謝し、礼拝する日であることを示されたのでした。
安息日は、人を神様との交わりに導く日であり、それは神様の恵みの日であります。
■右手のなえた人のいやし
さて6節からは、「別の安息日に」あった、もう一つの出来事が書かれています。これもイエス様が、安息日の主であることを示す、大切な出来事でありました。
6別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。
イエス様は、安息日に「会堂にはいって教えておられました」。そこに「右手のなえた人がいた」のでした。この人は、イエス様のことを聞き、イエス様に手をいやしていただきたいと思って、この会堂に来ていたのでしょう。
その会堂に「律法学者や、パリサイ人たち」がいて、イエス様が安息日にこの人を直すかどうかと、じっと見ていました。「律法学者や、パリサイ人たち」は、この機会にイエス様を「訴える口実を見つけ」ようとうかがっていたのでした。
安息日には、医療行為も許されていませんでした。「律法学者や、パリサイ人たち」の関心は、安息日の規定にイエス様が違反するかどうか、という点だけでした。「律法学者や、パリサイ人たち」は、手の不自由な人の悩みや苦しみには全く無関心でありました。
それに対してイエス様は、愛をもって行動なさいました。
8イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。
事は、人々の見ている前で、その真ん中で堂々と行われました。イエス様は、安息日にいやしを行えば訴えられるということもご存じでした。
イエス様は、回りにいた、安息日の規定に縛られている人々。その人たちに向かって、安息日に何をするかを決めるのは、イエス様ご自身であることを示そうとされました。
イエス様は、「律法学者や、パリサイ人たち」に、安息日に大切なのは、規定を守るかどうかではなく、もっと大切なことがあることをさとされました。
10そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。
イエス様は、この人に手を伸ばすように言われました。手が動かなくなっている人がそれを動かすことは、不安と恐れがあります。これは信仰の決断です。
イエス様は「手を伸ばしなさい」とおっしゃって、この人に、手が伸びることを信じるか信じないかを問いかけられたのでした。
この人が、イエス様のことばを信じて「そのとおりにすると」、そのとき主のみわざがこの人に現れたのでした。イエス様の言われたとおり、手を伸ばすことができると信じて、手を伸ばした時、彼のなえた右手がいやされたのでした。
これが信仰です。信仰とは、手が伸びることのメカニズムを全部理解してから、手を伸ばすのではありません。みことばに従って、まず手を伸ばしてみること、これが信仰です。
「彼の手は元どおりになった」のでした。
主イエス様は、この人に「手を伸ばしなさい」とおっしゃってくださり、新しい生き方へと、本来の生き方へと方向を変えてくださったのでした。
11すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。
「右手のなえた人」が回復されたとき、その場にいた人々は、大きな驚きと深い感動に包まれたことでしょう。しかし、「律法学者や、パリサイ人たち」は、怒りと憎しみで「すっかり分別を失い」ました。この時から、イエス様を殺そうとする計画が動き始めたのでした。
■まとめ
今日の2つの話の中から、もう一度考えてみることにしましょう。まず一つは、安息日の主を覚える、ということです。
ユダヤ教の安息日は週の7日目、土曜日でありました。キリスト教会は週の初めの日、日曜日を主の日として、礼拝を守るようになりました。
「週の初めの日」、その日は、イエス様が死んでから3日目に復活された記念の日であります。その日、イエス様はよみがえられた者の初穂となり、私たちを罪による死から解放してくださったのです。
毎週、私たちは、復活の主を覚え、イエス様を礼拝するために教会に集まっております。
主を礼拝すること、復活の主を礼拝することが、「人の子は、安息日の主です」と言われたイエス様のみこころであります。
主イエス・キリストが与えてくださった新しい生き方というのは、私たちの心を縛っていた律法主義という古い生き方を捨てて、新しく生まれ変わった生き方で自由に生きる生き方であります。
そのことは、前回の「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」という説教でお話ししました。イエス様の新しいいのちをいただくと私たちは、本当に自由にされていくのです。今日の招きのことばで読みました。ガラテヤ人への手紙5:1です。
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」
主の日に礼拝を守る、というのもそうです。自分で自分を縛らなくても、イエス様のいのちによって生かされると、自由に、喜びをもって礼拝を守るようになっていくのです。
もう一つは、「右手のなえた人」がいやされた話でした。
イエス様は、この右手のなえた人を人々の真ん中に立たせていやし、新しい人生に生まれ変わらせてくださいました。そして、ご自分は十字架への道を進んで行かれました。
それは、私たちを愛し、私たちを律法の束縛から解放して、新しいいのちに生かしてくださるためだったのでした。イエス様の死によって、私たちは罪を赦され、新しいいのちの喜びに生かされる者となったのです。
今日も、イエス様は私たちに、「立って、真ん中に出なさい。そして、信仰をもって手を伸ばしなさい」と呼びかけておられます。それは、自らを十字架にかけてまで私たちを愛してくださった、主の深い恵みに満ちた呼び掛けであり、招きであります。その声に素直に聞き従い、私たちは、信仰をもって起きあがり、なえた手を伸ばしたいと思います。
今日、このあと聖餐式を行います。イエス様が十字架にかかってくださり、私たちの罪を代わりに負ってくださった。そして、御体を裂き、血を流してくださった。そのことを今日もまた覚えたいと思います。
ここに集っておられるすべての方が、主イエス様の救いに入ることができますように。そして、救いに入れられた私たち一人一人が、主の日に教会に集い、喜びと感謝をもって礼拝をささげることができるようにと、お祈りいたします。
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