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2006年8月13日 主日礼拝説教
「十二使徒の選び」(ルカによる福音書6章12節〜16節)
■はじめに
先回のルカの福音書では、6章1節から11節のところお読みしました。安息日に弟子たちが麦畑で麦の穂をつんだことから始まったパリサイ人との論争。そして、別の安息日にイエス様が会堂にいた右手のなえた人をいやしたことからの、律法学者・パリサイ人との論争でした。
イエス様はご自分が神の御子であり、安息日の主であることを示され、右手のなえた人を人々の真ん中に立たせていやし、その人を新しい人生に生まれ変わらせてくださいました。
しかし、そのとき11節にありますように、「すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った」のでした。この時から、イエス様を殺そうとする計画が動き始めたのでした。
■イエス様と祈りと使徒の選び
イエス様を囲む状況はこのようにだんだんと厳しいものとなってきましたが、このころ、イエス様は「祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた」のであります。
12このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。
イエス様は、12人を選ぶ前に山に入り、ひと晩中神さまに祈られたのです。これから使徒を選ぶということ、それはいかに大切な決断だったかということが分かります。
夜が明けると、一晩中、イエス様がなぜ祈っていたか、何を祈っていたかを弟子たちが知ることになります。
13夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。
イエス様は、「弟子たちを呼び寄せ」ました。イエス様に従っていたたくさんの人たちが、みもとに集まってきたでしょう。そこでイエス様は「その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた」のでした。
イエス様が選んでくださった使徒たち。彼らの選ばれた目的は何でしょうか。何のために選ばれたのかが、マルコの福音書3章ではこのように書いています。
「14そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせるためであった。」
使徒たちの使命の1つは「イエスさまの身近にいる」ということです。イエスさまのそばにいてイエスさまのおっしゃることや、なさることをよく見ることです。それから、それを伝えること、「福音を宣べさせるため」とあります。
■それぞれの使徒たち
このとおり、使徒たちは、イエス様が天に帰られてから、イエス様の十字架と、復活されたことの証人となっていくのでした。このためにイエスさまは、次の12人をお選びになりました。
14すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、15マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、16ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。
それでは、その使徒たちを一人ずつ見ることにしましょう。
まず、「ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ」。
第1はシモン・ペテロです。
ペテロは、すでにお読みしましたルカの5章のところで出てきました。一晩中漁をしても、魚が一匹もとれなかったペテロ。しかし、イエス様の言われたとおり網をおろすと、たくさんの魚がとれた。ペテロは、その奇蹟を目の当たりにして、イエス様から「これから後、あなたは人間をとるようになるのです」と言われ、ここまで従って来たのでした。
ペテロは岩という意味です。イエス様が付けられた呼び名で、頑固者という意味なのか、教会の礎の石になるという意味か、いろいろ考えられます。
使徒たちのリストの筆頭に置かれたペテロ。イエス様が捕らえられたとき、その岩のなんともろく、その礎はゆるぎやすかったことでしょうか。ペテロは、イエス様を3度知らないと言ってしまったのでした。しかしペテロは、復活のイエスさまに出会い、ペンテコステの経験を通して、イエス様に付けていただいた名前のとおり、堅い岩になっていくのです。
2人目は、「その兄弟アンデレ」。
アンデレは自分の兄弟のペテロをイエス様のところへ連れて行った人でした。アンデレは、人をイエス様のところへ連れて行く賜物を持っていた人でした。
3人目と4人目は「ヤコブとヨハネ」です。
「ヤコブとヨハネ」は兄弟で、ペテロ、アンデレと同じように漁師出身です。ペテロと同じく「あなたは人間をとる漁師になるのです」と言われて、イエス様に従ってきたのでした。
マルコの福音書では、この2人はイエス様から「雷の子」という名前をちょうだいしたとあります。激しい強い性格であったからなのか、または宣教の熱心さを表しているのかもしれません。
ヤコブは、使徒の中で最初の殉教者となりました。ヨハネは十二使徒のうち最も若い弟子でした。ヨハネは最後まで生き延びて、ヨハネの福音書と3つの手紙、そしてヨハネの黙示録を書くことになります。
5人目と6人目は「ピリポとバルトロマイ」です。この二人は、聖書にはあまり登場しません。
7人目と8人目は「マタイとトマス」です。
マタイは、ルカの5章27節に出てきた、ローマの税金を徴集していた取税人レビのことです。マタイもイエス様から「わたしについて来なさい」と言われ、「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った」人でしたね。後に、マタイの福音書を書くことになります。
トマスは、イエス様が復活されて弟子たちの前に現れたとき、ちょうどそこに居合わせなかったので、イエス様が復活されたことを信じることができませんでした。それで、疑い深いトマスと言われています。
9人目と,10人目は「アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン」です。
アルパヨの子ヤコブについては、聖書では特に何もふれてありません。
熱心党員と呼ばれるシモン。熱心党とは、ローマと戦って、ユダヤの独立を目指そうとしている過激派の人たちです。
11人目と,12人目は二人のユダです。「ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダ」です。
「ヤコブの子ユダ」は「タダイ」とも呼ばれました。
イスカリオテ・ユダ。これは、カリオテの人ユダという意味でしょう。カリオテの場所はどこか分かっていません。このユダが「イエスを裏切り」、イエス様が逮捕されるきっかけを作ります。
■神様の選び
このようないろいろな人たちが集められ、イエス様から選ばれて使徒となりました。
この人たちがどういう人たちだったかと言えば、特別に社会的地位が高くもなく、特別の教育を受けているわけでもありませんでした。しかも、いろいろな個性の持ち主たちで、時に張り合ってけんかをしたり、時に人を出し抜こうとしたりもしました。
それにしても、イエス様は大勢つき従ってきた人の中から、この12人をどのようなお考えでお選びになったのでしょうか。
神さまの選びは神秘に満ちています。どうしてその人が選ばれたのか、私たちの理解では推し量ることができません。では12使徒の選びはどうでしょうか。
イエス様は「弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた」とあるだけです。
ルカの福音書とマタイの福音書では、これこれの人を使徒として呼び寄せたとあるのですが、マルコの福音書3章を見てみますと、「ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられた」とあります。つまり、「イエスさまがそうしようと思われた」ということ以外、何の理由もないのです。まさに、使徒となったのは、イエス様の一方的な選びの結果なのです。
イエス様はヨハネの福音書15章で、使徒たちの選びについてこのようにおっしゃいました。
「16あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」
使徒たちの中には、情け深い人もいたり、謙遜な人がいたり、熱心な人もいたでしょう。でも、そういう基準で使徒を選んだとは書かれていないのです。それどころか、コリント人への手紙第1、1章には、こんなことさえ書いてあります。招きのことばで読みました。
「27神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。28また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです」
驚いてしまいます。わざわざ神さまは、この世の愚かな人を選んだ、この世の弱い者を選んだ、とおっしゃっているのです。
■神の目にはあなたは高価で尊い
それにしても、深い奥義ではありませんか。どう考えても不思議としか言いようのない、人間の目には隠された神さまの基準ではありませんか。
イザヤ書43:4には、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」とあります。私たちは弱く、愚かであっても、イエス様の目には、私たちは高価で尊いのです。イエス様は私たちを愛しておられます。イエス様は私たちを愛するがゆえに、私たちの罪を赦そうと十字架にまでかかり、死んでくださったのです。
イエスさまに選ばれ、イエス様の身近に置かれて、愛され、はぐくまれた使徒たちも、イエスさまの十字架と復活を見ないうちは、イエス様のことを完全には理解できませんでした。それでも、イエス様と共にいて、イエス様のなさることを見て、イエス様のおことばを聞き続けたのです。イエス様は、そういう使徒たちといっしょに過ごされたのです。
使徒たちは、時には気まぐれであり、血気にはやり、疑い深く、自分勝手でした。しかし彼らは、みなイエス様が十字架にかかられたのを見ました。復活なさったイエス様にお会いしました。そして聖霊を受けて、遣わされたのです。
私たちも自分を見るとき、とてもイエス様のご用にはふさわしくない、弱い者だと思うことがあるでしょう。でも私たちは、イエス様がこれと思って選んでくださった者、イエスさまご自身が望まれて、身近に置いてくださったひとりひとりなのです。
今日も、私たちひとりひとりは、欠点だらけの弱い器であるけれど、イエス様が選んでくださった、かけがえのない尊い器であることを覚えたいと思います。
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