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2006年9月3日 主日礼拝説教
「泣かなくてもよい」(ルカによる福音書7章11節〜17節)
■はじめに
前回のルカの福音書では、7章1節から10節のところをお読みして、百人隊長のしもべがいやされた、というお話しをしました。百人隊長は、イエス様に「ただ、おことばをいただかせてください」と言いました。このお話を通して、私たちも見ないで信じる信仰を与えていただいている、ということがわかりました。
さて、きょうは、その続きの11節からのところです。ナインの町に住んでいたやもめの一人息子を、イエス様が生き返らせてくださったという奇蹟です。
■ナインのやもめのひとり息子の死
ナインという町は、前回の百人隊長のしもべがいやされたカペナウムの町から、南西に約30キロほどのところにある町です。イエス様は、ガリラヤ地方を伝道しながら、そのナインの町にやってきました。
イエス様の周りには、いつものように「弟子たちと大ぜいの人の群れが」取り囲んでいました。ナインの町の門に近づかれたとき、イエス様は、あるお葬式に出くわします。
12イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。
ここに夫を亡くしたあと、やもめとなって、ひとり息子を育てていた女性が出てまいります。
女性が一人で生きていく、そして、子供を育てる。そのように生きることは、今よりずっと難しかった時代だったでしょう。しかし、その女の人には、生きていく希望と楽しみがありました。それは、ひとり息子でした。
ひとり息子が成長していくことは、女の人の喜びであり生きがいでした。やがて、その息子が結婚し、孫が与えられれば、死んだ夫の名前が受け継がれていく。
ところが、その息子が青年になって、これからというときに、何の病かわかりませんが、死んでしまいました。この母親にとって、かけがえのないものが突然奪われてしまったのでした。
「町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた」と書かれてあります。そこには、家族と思えるような人も出てきません。母親は、この世でたったひとりぼっちになってしまったと思われます。
なんと悲惨な状況でありましょう。この母親に付き添っていた町の人たちもただ泣くだけで、どう慰めていいかわからなかったでしょう。悲しみが、一人の女性を打ちのめしている状況。それに対して、だれもどうすることもできなかったのでした。
■悲しみを知って近づいてくださるイエス様
そのお葬式にイエス様は近づかれました。そして、イエス様は、驚くようなことば、だれにも言えないことばをこの母親にかけてくださったのでした。
13主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。
私たちはここから、イエス様が私たちの悲しみを知って近づいてくださることを知りたいと思います。
イエス様は、ひとり息子を亡くしたこの母親に対して「かわいそうに思われた」とあります。
この「かわいそうに思う」ということばは、イエス様が深く悲しまれたときだけに使われていることばです。それは、人間の感情では表しきれない、深い深い同情を表すことばです。もともとは内蔵を表すことばです。内蔵がえぐられるような、おなかの底から突き上げるような、深いあわれみの心を示しています。
イエス様は、息子を亡くし悲嘆にくれるこの女の人に対して、「かわいそうに思い」「泣かなくてもよい」と言われました。
「泣かなくてもよい。」この言い方は、いま進行中のことを禁止する命令文になっています。いま泣き続けている人に、泣いてはいけない、もう泣くことはやめなさい、とおっしゃったのです。
このようなことばは、人間には言うことができません。ただ神であられるお方だけが、死んだ人をよみがえらせる力を持ったお方だけが、このように宣言することがおできになるのです。
またイエス様は、私たち一人一人の悲しみを知り、悲しみを共に担ってくださるお方であります。イザヤ書53章に、こうあります。
「3彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」
そして、イエス様は、どんな悲しみに対しても、答えを持っていてくださいます。
私も、20年ほど前になりますが、男親ひとりになって、3人の子供たちを見るという状況に置かれたことがありました。夜中に、子供が寝てしまってから家事をして、明日のことを考えているうちに、どうしたらよいかわからなくなって、泣きたくなることが何度もありました。
そのような中で、神様から「泣かなくてよい」と声をかけていただいたように思います。讃美歌151番の4節にこのような歌詞があります。「涙の谷、雨はれて、御国の道のどかなり。」私も、このような経験をさせていただきました。
イエス様は、私たちの悲しみを知り、悲しみを共に担ってくださるお方なのであります。
■よみがえりのいのちをくださる主
私たちが、今日ここから覚えたいことの2つ目は、イエス様が私たちの悲しみを知って近づいてくださるだけでなく、私たちによみがえりのいのちをくださる、ということです。
14そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われた。15すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。
当時のイスラエルの棺、ひつぎは体を布でくるみ、板のようなものに寝かせていたそうです。ですから、体にさわることができたのでした。棺の一番近くに、母親がいたでしょう。イエス様は、その母親に「泣かなくてもよい」と声をかけ、「近寄って棺に手をかけられ」ました。
ユダヤでは、死者に触れると汚れると考えられていました。しかしイエス様は近寄って、棺に手をかけられたのでした。すると、行列が止まりました。イエス様は言われました。
「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」イエス様の声は、死の壁を突き破って、この青年に届きました。死んでいた息子が棺の上に起き上がり、「ものを言い始めた」のでした。周りにいた人たちが驚き、恐れおののく中で、イエス様は「母親に返され」ました。
イエス様が、この青年をよみがえらせてくださったのは、息子をその母親に返すためでありました。イエス様は、母親の深い悲しみに心を動かされ、この息子を母親に返してあげたいという思いに突き動かされて、イエス様は、奇蹟を起こしてくださったのです。
この驚くべき奇蹟は、その場にいた人々が神様をあがめる機会となりました。
16人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現われた」とか、「神がその民を顧みてくださった」などと言って、神をあがめた。17イエスについてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まった。
■涙をぬぐい取ってくださる日
最後に私たちは、神様が私たちの目から涙をすっかりぬぐい取ってくださる日がくる、ということを覚えたいと思います。
「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言って、青年を死からよみがえらせてくださったイエス様は、こののち、ご自身の身をもって十字架の上で死を経験してくださいました。十字架の上でイエス様は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。
十字架の死、それは、イエス様が罪人である私たちに代わって神様に見捨てられた時なのでした。イエス様は私たちに代わって十字架で死なれました。そして3日目に復活され、よみがえりのいのちを確かなものとして私たちに示してくださいました。
神様は、私たちが滅びることを心の底から悲しまれたので、ご自分のひとり子を犠牲にしてまで、私たちを救おうとしてくださいました。その神様からの愛が、ひとり息子を亡くした母親に対するイエス様のあわれみの思いの中に、心の底から動かされるような悲しみの中に、現れているのです。
神様が私たちの目から涙をぬぐい取ってくださる日のことが、ヨハネの黙示録に書かれています。招きのことばで読みました。黙示録21章です。
「3見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、4彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
イエス様から「泣かなくてもよい」ということばをかけていただいて、このあとの人生を生きたナインの町の母親と息子。彼らもこのあと、ほかのすべての人間と同様、生きていく悲しみや悩みを経験しながらその生涯を終えたでしょう。
しかし、二人は、イエス様の十字架と復活を信じて、イエス・キリストが再び来られるとき、「青年よ。あなたに言う、起きなさい」ということばによって、もう一度よみがえる日の来ることを望み見たことでしょう。
ナインのやもめと、その息子に対して復活のいのちの祝福を持って顧みられた主は、同じ祝福を、よみがえりのいのちを信じるすべての者に必ず与えてくださるのです。
私たちも、主イエス様の十字架を信じるなら、同じように「泣かなくてもよい」というおことばと、「あなたに言う、起きなさい」というおことばを自分のものとして受けることができるのです。
私たちは、これからもイエス様のおことばを信じ、私たちに与えられた驚くばかりの恵みに感謝して歩み続けたいと思います。
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