ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2006年9月10日
2006年9月10日 主日礼拝説教
「神の恵みの御手」(エズラ記7章)
■はじめに
捕囚の民であったイスラエル人は、ペルシヤのクロス王の第1年に、バビロンの地から解放されて自分の国に帰って来ました。そして、エルサレムの神殿の再建に勇んで取りかかったのでした。途中で、思わぬ妨害もありましたが、「ダリヨス王の治世の第六年」に、ついに神殿は完成しました。
クロス王の勅令から23年後の、紀元前515年のことでした。宮の奉献式をして神殿の完成を喜んだのが、前回の6章までの話になります。
■エズラ
さて今日から、エズラ記の後半部分に入ることになります。まずエズラという人の紹介です。1節から5節です。
1これらの出来事の後、ペルシヤの王アルタシャスタの治世に、エズラという人がいた。このエズラはセラヤの子、順次さかのぼって、アザルヤの子、ヒルキヤの子、……このエルアザルは祭司のかしらアロンの子である。
「これらの出来事の後」とありますが、どのくらいあとのことなのでしょうか。神殿を完成させたのがダリヨス王の第6年でした。
ダリヨスの治世は長く、35年続きました。その次の王様は、「アハシュエロス」という王様で、治世が21年ありました。その次が、「アルタシャスタ王」になります。ですから「これらの出来事の後」とあるのは、ダリヨス王の第6年のエルサレム神殿完成から50年以上がたっていることになります。
さて、ここにエズラの系図が載せられています。エズラから16代さかのぼって、アロンにたどり着きます。アロンは、出エジプトをしたモーセのお兄さんで、イスラエルの最初の大祭司であります。エズラは、そのアロンの直系の子孫でした。
また、エズラは律法学者としてひいでていましたので、6節では「学者」と呼ばれています。エズラは、それまでにあった旧約聖書をまとめる働きをしました。
■神の御手と守り
さて、6節から10節まで、エズラたちの帰還に、神様の御手、神様の守りがあったことが語られています。
6エズラはバビロンから上って来た者であるが、イスラエルの神、主が賜わったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをみなかなえた。
祭司であり学者であったエズラの上に「主の御手」がありました。エズラは、「主の御手」に導かれていることを覚えつつ、主に信頼して働きを進めていったのでした。
エズラがエルサレムに帰ることができたのは、まさに主のみこころであったからでした。
7アルタシャスタ王の第七年にも、イスラエル人のある者たち、および、祭司、レビ人、歌うたい、門衛、宮に仕えるしもべたちのある者たちが、エルサレムに上って来た。
エズラ記1章にある、第1回目のエルサレム帰還からおよそ80年後。2回目の大集団によるエルサレム帰還でした。彼らはエズラに率いられ、エルサレムに帰ってきたのでした。
8エズラは王の第七年の第五の月にエルサレムに着いた。9すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発して、第五の月の一日にエルサレムに着いた。彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった。
エズラたちがバビロンからエルサレム到着するまで4か月かかりました。旅の様子や帰って来た人たちの名前など詳しいことは、次の8章で述べられます。
ここでも、「彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった」と語ります。エズラがこのように書いたとき、その道中を守ってくださった恵みの神様の御手を絶えず意識して、神様に感謝したことでしょう。
なぜ、エズラの上に神様の恵みの御手があったのか。それが次の10節で語られます。
10エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。
「心を定めていたから」とあります。ここにエズラの願いがありました。
「イスラエルでおきてと定めを教える」こと。神のみことばによらなければ、補囚から帰った神の民は堅く立つことができない。見える神殿は建てられたが、民たちの霊的な神殿は、これからみことばによって建てられ、それによって民たちは祝福され、成長していく。そのために自分は行くのだと、エズラは「心を定めていた」のでした。
エズラは「主の律法を調べ、これを実行した」とあります。みことばを学び、みことばによって歩み、休むことなく礼拝を守り続けていく。そこに神の民としての証しの姿があるのです。
■アルタシャスタ王の手紙
さて次の11節から26節までは、「アルタシャスタ王」が「エズラ」に渡した手紙です。
12節からは手紙の写しです。王はエズラに莫大な援助を与え、また絶大な権限を与えたのでした。
13私は命令を下す。私の国にいるイスラエルの民、その祭司、レビ人のうち、だれでも自分から進んでエルサレムに上って行きたい者は、あなたといっしょに行ってよい。
まず「アルタシャスタ王」は、エズラと同じ志を持つ者で、「自分から進んでエルサレムに上って行きたい者」の同行を認めます。神の国の働きを進めようとするときには、この「自分から進んで」という思いが必要なことでした。
帰還の目的は幾つかありました。まず14節にある、「神の律法に従ってユダとエルサレムを調査する」というものでした。
当時の世界を見てみると、ペルシヤは、絶えず隣国であったエジプトやギリシヤからの脅威に立たされていました。その中で、エルサレムがペルシヤの側に立ってくれるかどうか。また「ユダとエルサレム」が安定し、ペルシヤに敵対しないこと。このことは重要な政治問題でした。
エズラのエルサレム帰還は、そのための派遣でもあったのでした。
2つ目の帰還の目的は、15、16節にあります。
王たちからの献金と、バビロンで得た金銀、そして、残った者たちが「進んでささげたささげ物」を持っていくためでした。そして17節にあるように、それらのお金は、エルサレム神殿にささげられる動物たちや穀物、ぶどう酒のために使われることになります。
第3に、19節にあるように、「神の宮での礼拝のために、エズラに与えられた器具を、エルサレムの神の前に供える」ことでした。
礼拝のための器具はモーセの時代に定められ、一つ一つ、作り方、使い方、寸法が細部に至るまで決められていました。そうした器具によって、礼拝をささげる者たちに神様の前に出るという厳粛な思いを与えたのでした。
補囚の時に奪われた神殿の器具は、かつて、80年前、クロス王の帰還命令のときに返されています。ですからエズラは、このとき新しい器具を与えられたのでした。
しかも、まだ必要なものがあるなら、「王の宝物倉からそれを調達してよい」ということでした。
礼拝の場を整えるさまざまなもの。私たちの教会はどうでしょうか。
ゆりのきキリスト教会も、何もないところからのスタートでしたので、椅子や、講壇などが与えられ、だんだんと礼拝場が整えられていったことは大きな喜びでした。
さて21節からは、「川向こうの宝庫係」への指示が2つ語られます。
21私、アルタシャスタ王は、川向こうの宝庫係全員に命令を下す。天の神の律法の学者である祭司エズラが、あなたがたに求めることは何でも、心してそれを行え。
エズラに提供される品々の限度が22節で記されます。銀は3400キロ。小麦23000リットル。ぶどう酒と油は2300リットル。塩は無制限でした。実に膨大な量です。これら全部が、エズラたちに与えられたのでした。
さらに、役人たちに2つ目の命令が下されます。24節です。
24また、次のことを知らせる。祭司、レビ人、歌うたい、門衛、宮に仕えるしもべたち、つまり、この神の宮に仕える者にはだれにも、みつぎ、関税、税金を課してはならない。
エズラたちに税金をかけないように、という命令です。
そして、25節と26節で、エズラに「さばきつかさや裁判官」の任命権を与えるということ。さらに「神の律法と、王の律法を守らない者」に対して厳しい処罰を与えるように命じます。
こうしてエズラは、王からありとあらゆる便宜と絶対的な権限が与えられました。
このようなことがエズラの上に起こったのも、みな6節にあったように「エズラの神、主の御手が彼の上にあった」からなのです。
■エズラの祈り
最後の27、28節に、エズラの祈りが記されています。
27私たちの父祖の神、主はほむべきかな。主はエルサレムにある主の宮に栄光を与えるために、このようなことを王の心に起こさせ、28王と、その議官と、すべての王の有力な首長の好意を私に得させてくださった。私の神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私といっしょに上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。
このところに、今日の箇所のテーマがまとめられています。
第1に、このような「アルタシャスタ王」の好意は、「私たちの父祖の神」が働いて「このようなことを王の心に起こさせて」くださったのである、ということでした。
ピリピ人への手紙2章に、このようなことばがあります。
「13神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」
ゆりのきキリスト教会の礼拝を始めるとき、両親が来てくれるように願いました。それが今実現していることを感謝しています。その志を立ててくださったのも神様であり、このようになったのも神様の導きであると信じます。
第2に、エズラは「私の神」ということを意識したことです。
27節で「私たちの父祖の神、主はほむべきかな」と祈ったエズラは、28節で、その神は「私の神」であると語っています。
これから始まろうとしているエルサレムでの大事業に向かって、「私の神、主の御手が私の上にあった」と祈ったのです。エズラは、「私たちの父祖の神様」はほかでもない、「私の神様」であるということを強く意識したのでした。
復活のイエス様と出会ったトマスもそうでした。トマスは、ほかに弟子たちがイエス様と出会ったとき、ちょうどそこに居合わせていませんでした。トマスは、この目でイエス様を見なければ信じられないと言い張ったのでした。
次の週、イエス様はもう一度弟子たちの前に現れてくださいました。そのときトマスはイエス様にひれ伏して「私の主、私の神」と告白したのでした。彼は、弟子たちの神は私トマスの神であることを告白したのでした。
そして第3に、すべてのことを神様に感謝して神様をほめたたえたということです。
エズラは、主がこのように計らってくださったことについて、「主はほむべきかな」と賛美しました。「私の神、主の御手が私の上にあったので」私は奮い立つことができたというのです。
神様の恵みによって、この働きのために自分が選ばれ必要なもの一切が与えられた。それゆえ、主の前にへりくだって、自分には「主を誇る以外はない」と告白するのでした。
私たちが、「ほむべきお方」、「誇るべきお方」は、私たちを罪から救ってくださったイエス・キリスト以外にありません。今日の招きのことばで読みました。
ガラテヤ6「14しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」
私たちが「ほむべきお方」はイエス・キリストです。誇りとするものは、ただイエス・キリストの十字架のみです。私たちはこのお方によって生かされているのです。
そのイエス様の十字架を一心に見つめ、感謝をもって今週の歩みも進めていきたいと思います。
ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2006年9月10日