ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2006年9月17日


2006年9月17日 主日礼拝説教
「あなたの罪は赦されています」(ルカによる福音書7章36節〜50節)

■はじめに
 前回のルカの福音書では、7章11節から17節のところをお読みしまして、イエス様がナインの町のやもめの一人息子を生き返らせてくださった、というお話しをしました。一人息子を亡くした母親に対して、「泣かなくてもよい」とおことばをかけてくださった、イエス様の深いあわれみの思いを見させていただきました。
 さて、きょうは、同じルカの福音書7章の36節から50節の、ある町に住んでいた「罪深いの女」がイエス様の足に香油を塗ったというお話であります。

■罪深い女が入ってくる

36さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。

 イエス様が、あるパリサイ人から食事の招待を受けました。それは、40節にあるように、シモンという名前でした。このパリサイ人シモンは、イエス様をラビとして自分の家に迎えたのでした。しかしシモンは、イエス様に対して批判的な思いがあり、さめた目で見ていたのでした。
 さてイエス様は、そのようなパリサイ人シモンの家に入り食卓につかれました。そのシモンの家の食卓に「その町のひとりの罪深い女」が入ってきたのでした。

37すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、38泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。

 有名なラビや律法学者が人の家に招かれて来た時は、その学者の教えを聞くために、招かれていない人でも自由に入ってくることが認められていたと言われています。だから、この女の人も、入り口で追い帰されずに、このところまで入ってくることができたのでした。
 だれでも入ってよい、ということであったとしても、この女の人にとってはよほど勇気がいることだったでしょう。それは、女の人がその町では「罪深い女」として知れわたっていたからでした。この女の人は、町の遊女であったのではないかとも考えられています。
 しかしこの女の人は、イエス様にお会いしたい、イエス様のお話を聞きたい、という思いから、こうしてそっとシモンの家に入ってきたのでした。
 この女の人はだれであったのか。「ひとりの罪深い女」と書かれてあるだけで、その名前は記されていません。パリサイ人シモンにとっては、同席することさえ赦しがたい人物であったに違いありません。
 しかしこの女の人は、ひるまずイエス様のほうへまっすぐ香油のつぼをもって進みました。女の人の心は、イエス様のおそばへ行こうとする、ひたむきな思いでいっぱいだったのでした。
 イエス様の足のそばに行くと、女の人の目から自然と涙が溢れ出ました。その涙がイエス様の足の上に落ちました。それは、溢れ出る涙でイエス様の足をぬらすほどでした。女の人は、涙でぬれたイエス様の足を自分の髪の毛でぬぐい、その足に口づけをしました。そして、持って来た香油を塗ったのでした。
 それらの行為は、継続を表すことばが使われていますので、髪の毛でイエス様の足をぬぐい続け、口づけをし続け、そして香油を塗り続けたのでした。
 この女の人は、ほかのだれも目に入らず、ひたすらイエス様の足もとにいたのでした。イエス様は、この女の人のひたむきな行為をだまって受け入れてくださったのでした。

■パリサイ人シモンのつぶやき
 ところが、この様子を冷ややかに見ていたパリサイ人シモンは、心のなかでこうつぶやいたのでした。「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と。
 シモンにとって、この女の人は罪深い人で、このような場所にふさわしくない人でした。そして、そのような女の人に足を触らせているイエス様もイエス様だ、と心の中でひそかに思いました。すると、イエス様がシモンに語りかけます。

40するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。

 イエス様はシモンに、お金を借りていた二人の人のたとえ話を語ります。一人は500デナリを借りており、もう一人は50デナリを借りていました。しかし、二人とも返すことができなかったのでした。それで、金貸しは、その借金を二人とも赦してやったというのです。
 この借金というのは、一人一人が持っている罪のことです。一人一人が神様に対してもっている罪であります。それが、ある人は500デナリ、ある人は50デナリであるというのです。
 私たちはみな、本当にきよい、一点の汚れもない神様の前では等しく同じ罪人であります。ですから、500デナリ、50デナリというのは、罪の量のことというよりも、その人がどれだけその罪を自覚しているかの、500デナリ、あるいは50デナリだとも言えるでしょう。
 この「罪深い女の人」は、自分が罪人であることを深く自覚していました。一方、パリサイ人シモンは、そうは思っていなかったのでした。
 罪の自覚の深さということと同時に、それがわずか50デナリであったとしても、自分の力では神様に返すことができない借金であるということも、シモンは気づきませんでした。罪ある女の人を見下しているシモンこそ、イエス様の目から見れば、女の人と同じ、いやもっと深い罪人なのではないでしょうか。
 そのたとえ話のあとで、イエス様はこのようにシモンに尋ねました。「では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」

43シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。

 イエス様は、シモンにそのとおりだと言われました。しかしシモンは、まだこのたとえ話がいま目の前に起こっている出来事を説明する深い真理を含んでいることには気づきませんでした。そこでイエス様はシモンに説明します。
 イエス様は、シモンがしてくれなかったことと、この女の人がしてくれたことを一つ一つ比べながら語られます。44節から。

「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。45あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。46あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。

 このようにして、イエス様はシモンに気づかせようとしているのです。シモンに何が欠けていたのか。それは、だれでも神様の前では赦されなければならない罪があること、そして、罪を赦された者は、その赦しに対して感謝をささげるということでした。
 それがイエス様に対する愛であり、この女の人がささげようとしていたものでした。
 シモンは、罪人の友となってくださり、その罪をだれでも平等に赦してくださるイエス様をまだ理解していませんでした。だから、シモンはこの女の人が行ったことを理解できなかったのです。

■あなたの罪は赦されています

47だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」

 イエス様は、「この女の人が多くの罪を赦されています。それは、私に示した愛の大きさでわかる。しかし、赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言うのです。そしてイエス様は、女の人にこう言いました。「あなたの罪は赦されています。」
 この女の人は、このとき初めてイエス様にお会いしたのでしょうか。そうではなく、この女の人は、すでにイエス様にお会いしたことがあり、「あなたの罪は赦された」というイエス様からのおことばを聞いていた。そして、このシモンの家でイエス様が食卓についておられることを知り、香油のつぼを持ってやって来たと思うのです。
 この女の人は、初めてイエス様にお会いしたとき、イエス様から罪を赦していただき、今まで感じたことのない気持ちに満たされました。彼女は「イエス様を愛する、イエス様に感謝する」ということを知ったのでした。それが、このシモンの家で、イエス様の足もとにすがり、あふれるばかりの涙を流し、髪の毛でイエス様の足をぬぐい、香油を塗るという行為になったのでした。
 その行為の最中に、イエス様から「あなたの罪は赦されています」という、イエス様のおことばを再び聞くことができました。主イエス様に愛をもってお仕えしていくことによって、イエス様がその愛を受け入れてくださり、イエス様から今ひとたび自分の罪が赦されていることを聞くことができたのでした。
 私たちの歩みも、そのような赦しのことばを繰り返し聞くことによって、イエス様と共に歩むことができるのです。
 私たちの罪は、私たちがイエス・キリストの十字架による罪の赦しを信じたとき、完全に赦されます。イエス様を信じたとき、私たちは罪の重荷から、罪が生み出す絶望から解放されました。そして、確かに神の子とされ、天の御国に入ることができる、という保証をいただいたのです。
 罪赦された女の人は、イエス様からこのように声をかけられました。

50しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

 彼女はこのとき、人々の目から見れば「ひとりの罪深い女」と見えるものだったのでした。しかし、彼女は、ひとから自分がどう見えるかではなく、イエス様が自分をどう見てくださったかだけを頼りに、イエス様に近づいたのです。
 主は、そのような女の人に対して、「あなたの罪は赦されています」、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」と、信仰による罪の赦しと、救いを保証してくださいました。
 救いは主イエス様から来るのです。主イエス様のもとに近づくとき、私たちに安心が与えられるのです。

■私たちも罪深い女
 この女の人のしたことは、だれもわかってはくれませんでした。しかし、その女の人のしたことが何を意味していたのか、それをだれよりも知ってくださったのは主イエス様でした。
 これはイエス様にささげる愛の行為であったのでした。主イエス様が自分にとってどんなに大切なものであるか、ということを表す行為でした。主イエス様に愛をささげることが、彼女にとって慰めであり、喜びであったのでした。それほど一筋に主イエス様に対する愛に生きていたのでした。
 この女の人は自分のために肉が裂かれ、血を流される主イエス様の十字架をこのときは知りませんでした。それでも、罪人の友となってくださり、罪を赦してくださったイエス様の恵みに心動かされ、涙を流し、その感謝を表したのでした。
 私たちは、私たちのために十字架にかかって、私たちの罪をそのままを負ってくださった主イエス様を知っています。ご自分のいのちと引き換えに、私たちを滅びの中から救い出してくださったお方を、私たちは心から愛しています。
 私たちは、まさに今日のお話の「ひとりの罪深い女」なのです。たとえ、ほかの人があざ笑うならあざ笑えばいい。冷ややかに眺めるなら眺めていればいいのです。私たちはイエス様だけを見つめ、イエス様だけを愛し、イエス様だけを頼りに、イエス様のふところに飛び込んでいきます。
 なぜならイエス様は、間違いなく、私たちを受け止めてくださり、その両手でしっかり抱いて、「あなたの罪は赦されています」とおっしゃってくださるからです。私たちの愛と希望と信仰は、イエス様だけにあるのです。
 そのイエス様への感謝を持って、今週も歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2006年9月17日