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2006年9月24日 主日礼拝説教
「百倍の実を結んだ」(ルカによる福音書8章4節〜15節)
■はじめに
先回はルカの福音書7章36節から50節のところをお読みしました。
ひとりの「罪深い女」の人が、イエス様に対する愛と感謝の現れとして、イエス様の足に香油を塗りました。この女の人は、ひとから自分がどう見られるかを気にしないで、イエス様が自分をどう見てくださったかだけを頼りに、イエス様に近づいたのです。
主イエス様は、そのような女の人に対して、「あなたの罪は赦されています」、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」と、信仰による罪の赦しと救いを保証してくださいました。
私たちもイエス様だけを見つめ、イエス様だけを愛し、イエス様だけを頼りに、イエス様のふところに飛び込んでいきたいと願わされました。
さてきょうは、ルカの福音書8章に入りまして、4節からのところをお読みしましたここは、「種まきのたとえ」として知られている有名な箇所であります。
種まきで思い出すのは4月に亡くなった父のことです。父は定年後、庭に野菜を作ることを趣味にしていました。亡くなったときに、たくさんの種を残していました。それをお棺の中に入れてあげました。
■種まきのたとえを話す
それでは、4節から見ていきましょう。
4さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。
「大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来た」とあります。イエス様の評判を聞いて、ひと目イエス様を見よう、そのお声を聞こうとする人が、大勢押し寄せていました。それでイエス様は、その人々を前にして「たとえを用いて」お話をされました。
イエス様はしばしば、人々の生活の中にある身近な出来事にたとえてお話しになります。聖書には、イエス様がなさったたとえ話がたくさん記されていて、その数は50以上にもなります。すでに、このルカの福音書で取り上げたものとしては、5章のところに「新しい着物と布切れ」、「新しいぶどう酒と皮袋」のたとえ話がありました。
イエス様は、なぜたとえを使って話されたのか。その理由の一つは、身近なことにたとえて話すことにより、イエス様の教えを理解しやすくするようにするためでした。
そして、イエス様がたとえで話すもう一つの理由は、神の国の奥義を隠すために、あえてたとえで話すことがあったからでした。弟子たちもそのことを知っていましたので、イエス様のお話が終わった後で、「今のたとえは何のことを言っていたのですか」と質問することがあります。
今日のところでも、そのイエス様と弟子たちとのやりとりが、9、10節のところに出ています。
■まかれた種
さて、イエス様が語られたたとえ話を読みましょう。
5「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。6また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。7また、別の種はいばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。8また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれた。
この種まきの方法は、2000年以上も前のユダやの農業のやり方ですので、だいぶ、今のやり方とは違っています。どういうふうにするかというと、日本のように几帳面に種を蒔くのではなく、パーっと一面に種を蒔いて、それから鋤を入れたり土をかぶせたりしたのです。ですから芽が出て育つと、蒔かれた場所によって収穫に差が出たのでした。
それで5節にあるように、種が飛んで道端に落ちることもありました。そこは畑の中で、農夫が歩いてできた道です。耕せばまた畑になるところですが、農夫がそこを踏みつけたり、先に鳥が来て食べたりしてしまいました。
さて、2番目の種は土の薄い岩地に落ちました。ここに落ちた種は土が深くないので、すぐ芽を出しましたが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまいました。
3番目の種は、7節にあるようにいばらの中に落ちました。土の中にいばらの根が残っていたので、種といっしょにいばらも茂ってきて、せっかく出た芽を覆ってしまい、実を結ぶことができませんでした。
ですから、この3つの土地は、道端も岩地もいばらの中も同じ畑であります。種まきの時は区別せずに種が蒔かれるのです。
さて4番目の種は、8節にありますように良い地に落ちました。そこに落ちた種は、芽を出して成長し、100倍の実を結んだとあります。
■種まきのたとえの意味
このたとえで、イエス様は何を教えようとしていたのでしょうか。弟子たちも、いろいろ考えたでしょう。でも、本当のところはよく理解できませんでした。それで、弟子たちはイエス様に尋ねます。
9さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。10そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。11このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。
「種は神のことばです。」これが、このたとえを理解する鍵でした。それがわからなければ、何を言っているのかわからないし、ただ聞いた人は、種まきのうまいへたのお話で終わってしまったでしょう。
このたとえ話は、イエス様が「あなたがた」と語りかけた弟子たちに「神の国の奥義」を知らせるためであったのでした。イエス様が「ほかの者」と言った人たちには、その奥義は隠されていました。それは、彼らが「見ていても見えず、聞いていても悟らない」ためでした。
イエス様の周りには多くの群衆が集まってきていました。彼らは、イエス様に何を期待したでしょうか。
病がいやされたいということもあったでしょう。飢えている人はパンを求めたでしょう。また、ローマの支配下にあったユダヤを独立に導いてくれるという期待もあったでしょう。あるいは、イエス様はいったい何をするのだろうと、傍観者的、中立的な態度で、やじうまのようにイエス様を取り囲んでいる人もいたでしょう。いや、そればかりか、イエス様に反対する勢力も生まれてきていたのでした。
そのような人たちは、まだイエス様を「見ていても見えず」、イエス様のおことばを「聞いていても悟らない」者たちでありました。
それでイエス様は、弟子たちにこのように説明してくださいました。
12道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。
みことばが道ばたに落ちた人というのは、せっかくイエス様のみことばを聞いても、それを自分のものにできない人のことです。聞いたみことばを持ち去るのは「悪魔」だと言います。「悪魔」が来て、みことばを持ち去ってしまうので、みことばを信じて救われることができません。
13岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。
みことばが岩地に落ちた人というのは、聞いてしばらくの間は喜んでみことばを受け入れるのですが、あまり長続きしない人のことです。土が深くないので根をはることができず、困難や迫害にあうと身を引いてしまうのです。いっとき信じていても、思いどおりにならないと確信を失ってしまうのです。
この時、聞いていた群集たちは、いや主の弟子たちさえもそうでした。みな十字架につまずいてしまいました。彼らが期待していたメシヤとは違っていたのです。イエス様は、ローマの支配から解放してくれる英雄的なメシヤではなく、徹底的に仕える者の姿をとり、ご自分のいのちさえ差し出してしまう、しもべとしてのメシヤだったのです。
14いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。
みことばがいばらの中に落ちた人というのは、みことばを聞きはしたのですが、この世のことにあれこれ心づかいをして、忙しかったり、快楽を求めたりしているうちに成長を妨げられ、実が熟するに至らないのです。
この3つの種は、何も特別のことではありません。みことばを聞いた人、すべての人が持っていることであるのです。種は同じように蒔かれるからです。みことばを聞いたばかりの人、すでにクリスチャンとなって10年、20年、30年とたった人も、牧師となっている者も、みな思い当たることではないでしょうか。
15しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。
みことばが良い地に落ちた人というのは、「正しい、良い心でみことばを聞く」人です。種が、やわらかく耕された良い地に落ちるというのは、みことばを聞いたときに、心が砕かれて、柔らかく耕されていることです。
しかも、実を結ぶのは、「それをしっかりと守り、よく耐える」人であると言われます。これが、このたとえの大事な点だと思います。
みことばが実を結ぶこと、それは神様の働きであり恵みでありますが、「それをしっかりと守り、よく耐える」こと、それは私たちの思いであります。それは、みことばと一つになるまで忍耐し続ける人であります。みことばにとどまり、キリストにとどまり、信仰にとどまり続けるとき、神様が豊かな実を結ばせてくださるのです。
■まとめ
今日のお話を振り返ってみますと、種は同じ種でありました。まかれた時も、まかれた方法も同じでありました。しかも、一粒ではありません。たくさんまかれているのでした。それで、ある種は鳥に食べられ、ある種は枯れ、ある種は実が熟さずに終わりました。良い地の落ちた種だけが芽を出し、成長し、百倍の実を結んだのであります。
今、この礼拝に毎週集まっている私たちのことを考えてみましょう。信仰をもち、神様への感謝を表すため礼拝に集う。それは、みことばが良い地に落ちたことの現れであります。
私たちが起きている時も眠っている時も、神様が私たちを守っていてくださり、恵みによって成長させてくださいます。神様が種をまき、神様が耕してくださった良い地で、みことばの種は芽を出し育って、今、このように豊かに実を結んだのであります。
さきほど「それをしっかりと守り、よく耐える」こと、それは私たちの思いであると言いましたが、信仰生活を長く続けている人はわかると思いますが、それさえ振り返ってみると、神様がそうしてくださったことがわかるのです。それが、「百倍の実」を結ぶということであると思うのです。
「百倍の実」を結ぶとは、何のことでしょう。一人から100人の人に福音が広がっていくというのでしょうか。人によって、いろいろなことをイメージなさると思いますが、私たちは、けさ、それを神様から与えられる祝福と恵みであると考えてみたいと思います。
みことばを聞いて、今、私たちは、主によって成長させていただき、「百倍の実」を結ぶ者とされている。そうなることの神様からの約束であります。主のみことばは生きていて私たちのうちに100倍のいのちとなって実り、主の恵みと祝福はあふれるばかりになっていきます。
このような幸いを与えられている人は、神様の目から見て、「百倍の実」を結んだ人です。神様の恵みと祝福に満ちた人生を歩んでいる者たちであります。そういう人は、そこにいるというだけで周りの人がうるおいます。
すべてが神様の恵みであり、神様の導きのもとにあることがわかっている。それは、キリストのみことばが100倍のいのちの実りとなって、その人のうちに満ち満ちているからです。
最後に、交読文でお読みした詩篇119篇をお読みいたします。
「1幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。2幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。」「9どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」「16私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。」
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