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2006年10月1日 主日礼拝説教
「神に願い求める」(エズラ記8章)
■はじめに
バビロンの補囚から帰ってきたイスラエルの民たちは、様々な苦労を重ね、6章でやっとエルサレムに神殿を完成させることができました。それから60年近くの月日が過ぎました。エズラがエルサレムに帰ってきました。それが前回の7章でした。
7章では、エズラがペルシヤの王、アルタシャスタの命令によって、エルサレムへの帰国の途につき、エルサレムに到着したところまでが書かれていました。
さて、今日のところの8章は、エズラたちがバビロンからエルサレムに帰ってきた時の、その詳しい報告であります。
■帰ってきた人々
まず8章1節から14節までは、エズラといっしょにエルサレムに帰ってきた人たちのリストであります。
2節に祭司の家系であるピネハス族とイタマル族、そして王家のダビデの家系からの帰還者3名の名前が挙げられます。続いて、3節から14節までのところには、12の部族ごとの族長と、その人数が記されます。この集団を数えると、総勢1496人になります。
これらの人たちは、エズラの呼びかけに共鳴した人たちで、これからの新しい信仰集団の中心となる人たちでした。女の人、子供たちは数に含まれていませんので、全体では五千人くらいの人数になったかと思われます。
■アハワ川のほとりで
さて、エズラたちがバビロンを出発したのは、7章9節に「すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発し」とあったように「第一の月の一日」でした。そして、「アハワに流れる川のほとり」に到着いたします。そこで「三日間、宿営」することになります。
15私はアハワに流れる川のほとりに彼らを集め、私たちはそこに三日間、宿営した。私はそこに、民と祭司たちとを認めたが、レビ人をひとりも見つけることができなかった。
さて、このようにエズラたちがアハワ川のほとりで隊列を整え、人々を調べてみると、「レビ人がひとりもいない」ことがわかりました。
レビ人とは、神殿で祭司に仕え、その働きを助ける奉仕する人たちでした。どうして彼らがいなかったのか。彼らは、エルサレムに帰って神殿の働きにつくよりも、バビロンに残って、今の生活を続けるほうが良いと思ったのでしょうか。そう考えると、エズラといっしょにエルサレムへ帰って来た人たちの熱意をいっそう思い知ることができます。
エズラの帰還の目的は、神殿の礼拝を整えるため、また人々に律法を教えるためでした。エズラにとって、これからの目的を果たすためには、レビ人の助けがどうしても必要でした。それで、エズラは、いっしょに来た人の中から指導的な立場にあった人たちと相談しました。16節に書かれてある人たちです。
その結果、18節と19節にあるように、「シェレベヤと、その子たち、およびその兄弟たち十八名」と「また、ハシャブヤとともに、メラリの子孫のうちからエシャヤと、その兄弟と、その子たち二十名」、計38人のレビ人がエズラたちの一行に加わることになりました。また、20節にあるように「二百二十名の宮に仕えるしもべたちも連れて来る」ことができたのでした。
このように、事が願い通りに運んだのは、18節に「私たちの神の恵みの御手が私たちの上にあったので」とあります。このことばは、エズラ記に一貫して流れている信仰です。このときも、エズラはそのことを覚え、神様の恵みと導きを感謝したのでした。
■断食と祈り
さて、エズラにとって次に大事なことは、集団の霊的な一致でした。
21そこで、私はその所、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。
エズラは、ここで神様の前にへりくだり、祈りの時を持とうとしたのでした。そしてもう一つ、これは大きな問題でしたが、道中の安全のためにアルタシャスタ王が差し出してくれる、護衛の兵を受け入れるかどうかという決断をしなければならなかったのでした。
22私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。私たちは、かつて王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言っていたからである。
このように言い切った自分たちが、果たしてその信仰を守り通すことができるのか。これからの旅の途中に、何があるか分からない。そのためには王様の好意を受け入れて、護衛をしてもらったほうがどんなに安心でしょうか。
しかしエズラは、自分たちの目指す働きが、神様の守りによってだけ成し遂げられ、そこに神様の御手が確かにあったことを感謝し、神様の御名をあがめることという願いを持っていました。
エズラは王様から申し出のあった、護衛兵を断って、神様の守りだけを信じて、それだけで行きたいと思ったのでした。しかも、それがエズラの人間的な思いだけではないことを、断食と祈りをもって神様のみこころであることを確信できるようにと願ったのでした。
断食と祈りの結果、エズラは、王の護衛を断り、神様だけにより頼むという確信が与えられたのでした。
23だから、私たちはこのことのために断食して、私たちの神に願い求めた。すると神は私たちの願いを聞き入れてくださった。
これが神様のみこころにかなう方法であると考えても、それが本当に神様のみこころかどうかを知るためには、私たちは祈らなければなりません。祈って、私たちの神様に願い求めることです。
時には、すぐに答えが与えられるかもしれません。あるいは長い期間が必要かもしれません。しかし、ひとたび、神様が祈りに答えてくださったという確信が与えられたならば、また、神様のみこころであるという確信が与えられて踏み出すならば、たとえそれからの歩みは長くても困難であったとしても、その計画はすでに、神様の御手の中にあることであり、必ず実現に至るのです。
さて、祈りが聞かれたという確信が与えられたエズラが次にしたことは、神殿への「奉納物の銀、金、器類」を管理してもらうことでした。24,25節に書かれています。
その量は、何十トンにもなる膨大なものでした。金額にすれば数億円にも達するものでした。彼らは、エルサレムにつくまでの間、「寝ずの番をして守った」のでした。
■エルサレムに出発
このような周到な準備を「アハワ川」のほとりで整えてから、エズラたち一行はエルサレムに旅立ちました。
31私たちはエルサレムに行こうと、第一の月の十二日にアハワ川を出発した。私たちの神の御手が私たちの上にあって、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から、私たちを救い出してくださった。
彼らの断食と祈りの答えのとおり、「私たちの神の御手が彼らの上にあって」、「その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から、彼らを救い出してくださった」のでした。
エズラたちがエルサレムに着いたのは、7章9節にあるように「第5の月の1日」でした。バビロンをたってから、約4か月におよぶ旅でした。
そして、エズラは、エルサレムに着いてから「三日間」準備をし、そして4日目。33節からです。
エズラたちの第1の仕事は、神にささげるべき物を神殿に納めることでした。
第2は「イスラエルの神に、全焼のいけにえ」をささげることでした。35節です。それは、罪の赦しと神様への献身を表す礼拝でした。
エズラが第3にしたことは、アルタシャスタ王の命令書を「王の太守たちと、川向こうの総督たちに渡した」ことでした。36節です。
このように、エズラの働きは一歩一歩、着実に進められていったのでした。
■まとめ
さて、今日の聖書から教えられることの1つは、信仰の家族の姿です。先祖アブラハムに与えられた祝福を延々と守り続け、引き継いできている信仰の家族の姿、またそこのある恵みを見ることができます。
その神様の祝福は、今や、異邦人である私たちの中に引き継がれました。イエス・キリストが十字架で私たちの罪を負って死んでくださった。神様は、そのことを信じるすべての人に、罪の赦しと永遠のいのちを約束してくださったのです。その信仰と、その祝福が受け継がれていく。それが信仰の家族であります。それは肉の家族によらない、信仰の家族によって守り続け、引き継がれていくのです。
とは言っても、本当に家族に信仰が伝わっていくこと。それはすばらしい証しであります。そのような証しを、私たちの教会の中でも見ることができます。
第2に、教えられることは、祈るということでした。
エズラ、アルタシャスタ王に送り出されたとき、「私の神、主の御手が私の上にあった」と確信することができました。そして、エルサレムに向かって出発し、アハワ川のほとりに到着してから、断食と祈りをもって神様の前に出たのでした。
それは、王からの護衛の兵を断ってもいいかどうかを神様に問い、「主の御手が私の上にある」ことを、もう一度確信するためでした。エズラたち一行は全員で、断食と祈りに入りました。そして、「だから、私たちはこのことのために断食して、私たちの神に願い求めた。すると神は私たちの願いを聞き入れてくださった」のでした。
しかし、エズラたちの祈りはそれで終わりではなかったでしょう。4か月の道中、折に触れ、いや毎日祈りの時を持ち、「主の御手が私たちの上にある」ことと、「神様は私たちの願いを聞き入れてくださった」ということを確かなものとしていったのでしょう。
ゆりのきキリスト教会は、第1、3木曜日の午後、聖書と賛美と祈りの会を持っています。 そこで、教会の課題を覚えて祈っております。この祈りの輪が、1つ、また1つとつながっていくことを願っています。
招きのことばで読みました。エペソ6章です。
「18すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」
いま、私は大きな祈りの課題が与えられております。またお話しする機会があると思いますが、今は祈り続けたいと思います。お一人一人、みな何かしらの祈りの課題を持っていらっしゃることと思います。それを共に祈り合えることができたならば幸いです。
しかし、人に分かち合えることにできない、一人で祈るしかないというよう課題もあることでしょう。それらすべては、神様のもとに届けられ、神様は確かに聞いてくださっています。そのような祈りの生活、信仰を、これからも持ち続けたいと思います。
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